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2016年3月8日火曜日

テレビ朝日「その時「テレビ」は逃げた〜黙殺されたSOS〜」を観ました

テレビ朝日テレメンタリー「その時テレビは逃げた〜黙殺されたSOS〜」を観ました。いろいろ考えさせられる内容だったので、自分のためにもここにまとめておきます。番組見逃した方は、ぜひ。


「ガソリンもなく逃げられません。助けてください。食料もなくなります」5年前テレビ朝日に届いた大量のメール。多くの人が取り残された町。命をつなぐためのSOSでした。

メール送信者「 マスコミからも見放された」

 想像をはるかに越えた原発事故。私たちはパニックに陥りました。そして決めた1つのルール「指示があるまで取材は行わない」
テレビ朝日報道局幹部「あれだけ多くのSOSが届いていたのに、私たちはあの時、逃げてしまったんです」

番組が始りました。












 不安が広がっていた事故直後、政府が出した室内退避命令。「20km以上30kmの範囲の皆さんは外出しないで屋内に待機するように」

南相馬市。原町地区。町で唯一スーパーの営業を続けた石沢一二さん。「この棚のすべての商品がなくなってしまった」「自分が食べるものもどうしようか」

放射能への恐れから物資の運搬をするべきトラックが圏内に入ることを拒否したことで、すべての物流がストップ。ガソリンも極端に不足しました。

南相馬に取り残されたのは1万人以上。みんな窮地に陥っていました。食料が届いたのは屋内退避になって5日後。3/20、やっと物資が届いた日の写真を見る石沢さん。「必死でした」「生きなくちゃいけない、ってことで…」


3/12のレポート。津波に襲われた沿岸を取材していた私たち。このレポートの15分後、原発メルトダウンの情報が入ってきました。そしてこれが南相馬での最後の取材になりました。


 取材の全体指揮を取っていた宮川晶。「ついに起きちゃったのか、と」「スタッフの安全確保。とにかく逃げる、離れるしかない」

あの日、全ての取材クルーに送られたメール。沿岸部からの全面撤退を指示するメールでした。

 その後、退避指示の範囲が拡大。国が屋内退避を命じていたのは原発から30kmでしたが、テレビ朝日では少しでもそのエリアがかかる自治体は取材を禁止。国よりも広い範囲に制限をかけたのです。

取材制限を決めた関川修一(テレビ朝日原子力災害取材本部/当時)「30km圏、線をひいてあるわけではないので、どこまで30km圏なのか判断できない」

「最終的には宮城から茨城の一部までによる広大なエリアが生まれてしまいました」

当時、福島にいた千野壮太郎記者「実際避難された方から、どうして福島が報道されないんだ?って聞かれました。原発が爆発したことばかりで、実際に福島にいる人たちの思いが伝わらない、と」

そのあとアメリカが圏内80kmは立ち入らないように…と発表。どこが安全でどこが安全でないのかが不明瞭。そんな中、私たちは取材することを諦めたのです。

そもそも原発事故を想定した私たちの装備はあまりに脆弱でした。

関川氏「福島放送には空間線量を測るサーベイメーターは装備されてなかった」「個人もポケット線量計も電池切れで使えなかった」

宮川氏「いったん引くというのはやむをえなかった」「知識も経験も装備も情報もない」「ここで取材するな、というエリアを広げちゃったんですよね」

視聴者からのメール、13,000通のごく一部。「あとは餓死するだけですか?」「お腹には赤ちゃんがいるのに食べ物がありません」「どうか私たちを見捨てないでください」「テレビの力でもっと屋内待機区域への物資輸送を」「子供を生かしてやりたい」

但野光一さん。群馬へ避難しました。「住めば都みたいなところはあるので」「向こうもなくなったわけじゃないし…」「帰りたいときは帰ればいいし…」

私たちにメールを送った時の思いを聞きました。「外に出れない。家の中でテレビ見るくらいしかない。テレビを見ると計画停電…。こっちは計画停電もクソもない。あの時もTV局は入れないっていう事があったと思うんですよ。しかしながら我々はそこで生活するしかなかった」

テレビ朝日系列の福島放送は、室内からの電話取材と、もともとあったお天気カメラからの映像など使うなどして放送を続けました。






アナウンサーの笠置わか菜のブログには「早く来てください、なんで来ないんですか」という書き込みが殺到。でも返事が出来なかった。「伝えなくてはいけなくてはいけないことがたくさんあったのに、苦しんでいる人たちの情報を届けられない。悩みながらの報道でした」


スタッフの安全確保を理由に取材をやめた私たち。その背景には17年前の苦い経験がありました。1999年、JCO東海村臨海事故。放射線をあびた作業員が死亡する原子力施設の重大事故でした。この時の取材で私たちは見えない放射線に近づきすぎたのです。

宮川「想像も想定も出来てなかった。あんな施設のかなり近くまで行き、女性スタッフも行き、ヘリコプターでかなり近づいて空撮などをしていました」「これは駄目だろう、と」

この時の反省から作られたのがテレビ朝日の「原子力災害取材マニュアル」取材可能な空間線量の上限を毎時10マイクロSvに定めることにしたのです。

しかし5年前の事故では、50km以上離れた福島放送でもこれを越えてしまった。

椎野修次(福島放送報道局制作局長/当時)「毎時10マイクロSvを越えた時点で…これは経営の会議とも話し合ったことではあるんですが…屋内、社内からの電話取材に留める、ということにしました」「そして充分な情報の提供が出来なかった」

関川「あの時(東海村tの時)のルールで取材をするのは非常に難しいですね。当時のマニュアルでは、(福島の事故は)予見してなかった」

過去の経験が重しとなり、SOSに答えなかった私たち。

「“全然取材に来ないですけれど、大変なことになっています、助けてください”というメールが来ているのは分かっていて、結局無視してしまったわけで… 人が残されている。それを我々が無視したら、じゃあ誰がそれを伝えるんだ、と。オレたちが一番やらなくちゃいけない仕事なのに」



今も南相馬に住む廣瀬生人さん。テレビに失望し、いらだち、私たちにメールを送りました。「南相馬市民は怒っています。キャスター、カメラマンも来たくないのですか?」

廣瀬さん「カメラ貸すから撮ってこい、とか言うんだよね」「何言ってんだ、自分で来い、と。普通だったら行くんじゃないの? ベトナム従軍記者じゃないけど… やっぱり放送局もおっかながって来なかったのかね? 上司の人が行けとは言えなかったのかな…」











3月末も取材規制が継続されました。記者たちは葛藤していました。記者の水谷は上司に南相馬の取材を直訴しました。線量が低いことを理由に上司を説得しようとしたのです。しかし取材は認められませんでした。









無断で取材禁止エリアに入った記者。原発作業員の家族を取材しました。

「原発作業員の兄からは 全然連絡が来ていないです」「会いたいです。顔が見れたら。声が聞けたら」

彼女が避難していたのは取材禁止エリアの中。その場所で撮影することが出来なかったため、わざわざ別の場所に彼女を連れ出し、そこでこのインタビューを撮りました。

河本健太(テレビ朝日社会部/当時)「被災者の方はそこが安全だから避難しているわけじゃないですか。なのに、そこで取材できない、ってどういう事なの? 自分たちも不思議に思うし、この方も思っていたと思うんです。あんたたちがダメな場所に、私たちをそのまま取材が終わったら戻しに行くのか、と」

宮川「何かあった時に、きちんと見て来たい,それを伝えたい。そういう気持ちがなくなったら我々はおしまいだと思う。しかしながら取材スタッフの安全は確保しないといけない。今も答えはあまり… 難しいですけれど…」

そして4月。ようやく南相馬の取材を再開。町では少しずつ復旧が始ります。一方、沿岸部はほとんど手つかずの状態。記者の目に飛び込んできたのは、私たちが目をそらしていた現実。

そして今、いったん止まった原発が再び動きだす中、愛媛県伊方原発で防災訓練を実施。

かつて深刻な状況を経験しながら、国が再び想定する屋外退避。この場で何かあれば船でにげるしかない住民もいます。














私たちも原発の事故にそなえて訓練を始めました。想定外は言い訳になりません。社内の原子力取材マニュアルを改訂。装備も大幅に増強し高線量でも一時的に取材できる態勢にしました。

宮川「危険な取材をする,という意味ではなく、安全を確保しつつ、頑張って取材して報じて行く事を忘れてはいけないってことですね」

私たちは前に進むことが出来たのでしょうか。

あの時、私たちが黙殺した多くのSOS。

但野さん「今になれば、(メールを)送っておいて良かったなと思うんですよ。今からでも、こういうことがあったんだな、って分かれば」

「そして、じゃあ次どうするのか、と言うことですよね。絶対に次じゃないですか。あの時にはもう戻れないし」













以上、私が番組の録画を書き起しましたが、個人的な解釈が混ざっている可能性もあり。その場合は申し訳ありません。

しかしこんなにまで準備して原発動かさなきゃ行けない理由っていったい何なんだろう。まったく理解に苦しみます、

報道のあり方についても、いろいろ考える。こういうのを突き詰めると、そもそも記者というのはサラリーマンには無理ではないのか、とも思う。でも個人には大きな予算はしょえないし。いったい報道ってなんなんだろう。例えば戦地の取材なども、巨大メディアは、今やフリーランスの記者にほとんど任せっぱなしだと聞く。

しかしこの番組を作った事は素晴らしいと思うので、それを少しでも応援するため、ブログにまとめてみました。