阪神淡路大地震から20年ということでこんな番組がNHKで放送になりました。
あまりに感動したので自分のメモ用にまとめておきます。再放送もきっとあるだろうし、オンデマンドでも見れると思うので、是非皆さんも番組を見るチャンスがあったら見てください。なおこのブログは、1視聴者である私のとらえ方で書いたレポートあって、制作者、出演者の皆さんが意図するものとは違うものになってたらすみません。
阪神淡路大震災から20年。関西を拠点に活動してきたソウルフラワーユニオン、中川敬さんの代表曲「満月の夕べ」。
この曲が生まれて今年で20年、東日本大震災も経て、なお人の心を捕らえ続けている。
震災後、神戸にいち早くかけつけた中川さん率いるソウルフラワー・ユニオン。
バンドの伊丹英子さん。確かヒデちゃんが皆に「行こう」って一番最初に言ったんだよね。「みんなが行かなくても私は行くでー」って。
伊丹さん、素晴らしい。
ギターを三線に持ち替え、おばあちゃんたちのために「アリラン」など歌う中川さん。「あんたの歌でやっと泣けたわ」と中川さんに話したというおばちゃんの話をする。
2/14、再び神戸に行った中川さん一行は、余震についての噂話を聞く。満月の日に再び大きな余震があるのではないか、と。そこから中川さんにこの歌が降りてきたという。言葉もメロディも流れるように一気に出て来た。「あぁいうこと、ほんとに珍しいんだけどね」と中川さん。
前をむいていこうとする人々の姿を描いた歌詞。
「家族を亡くしたり家を亡くしたりしているのに、本当にみんな人のために動いているわけ。精一杯の笑顔で。忘れられへんでー」
この5年間で神戸で200回もの演奏を行った。
震災直後、中川さんたちと行動をともにした西定春さんのお話。「なかなか震災の情景を表現するのは難しい。でもこの歌は口ずさむたびに元気を感じる」
なおこの歌の誕生には中川さんの他にもう1人の人物が関わっていました。
HEATWAVEの山口洋さん。
ちょうど自身のアルバムを制作していた山口さんは中川さんの家で一緒に曲作りをしていた。「『満月の夕べ』のAメロと呼ばれるところを二人で書いたんですよ。で、これはかなりいいものが出来たので、サビの部分(今、「ヤサホーヤー」になっているところ)はお互い別に考えよう。良いものが出来たら、それを選ぶか、もしくは混ぜ合わせよう……みたいな話だったと思うんですよ」
ところが震災が二人で作っていた曲の運命を変えてしまった。
中川さんは山口さんと書いたメロディに「満月の夕べ」という歌詞をつけ、サビをつくって被災地で歌い始めたのです。
「それは反則だろう、と(笑)でも僕らが作ったものが神戸で歌われて役にたっているのならそれは素晴らしい」
「その現場に行った者しか書けないものが確かにあって僕は非常に心を動かされたんですよね」
でも山口さんは中川さんと同じ歌詞をそのまま歌うことをためらいました。
「あの時日本には実際に行動した人とTVを見て心を痛めていたんだけど何もできなかった人と2種類いたと思うんですよね」
「僕は後者で、ならばもう少し距離を置いて、テレビを見ていた立場に近い方から僕は歌詞を書いたんです」
そこで山口さんはもうひとつの『満月の夕べ』を完成させた。
『言葉にいったい何の意味がある』
「頑張っているのは分ってるじゃないか、と。(大変な思いをしている皆さんに)かける言葉がみつからないんですよね」
その後、この曲は様々なアーティストにカバーされる事になっていきました。
この番組のナレーターの大竹しのぶさんも歌っている。「どんなに辛く悲しい状況でも人間は生きていかないといけない」
歌詞の中の「生命(いのち)で笑え」というメッセージに強く心ひかれたから、と大竹さん。
2003年、神戸のパンクバンド、ガガガSPが『満月の夕べ』をカバー。中学生の時に震災にあい避難所暮らしを体験。避難所があった公園で1万人の前で、この曲を歌う。「自分の心の中で震災は風化してほしいと思う。前に進むために。でもこの経験は頭の片隅に置いとかないといけない、そういう気持ちにさせてくれる歌」
FMわいわい。コミュニティ放送局。震災時には救援物資情報のハブとなった。代表の日々野さん。ラジオで何度も『満月の夕べ』を流す。「公園で活動した日々とか…この曲を聴くと原点に戻るというか。そしてヨッシャ!という気持ちになれる。そんな曲」
そして2011年3月11日 東日本大震災。15,000人以上の人が亡くなった。未曾有の大災害。
その頃、インターネットの投稿動画サイトで『満月の夕べ』がたくさん聞かれたという。
そして作者二人は東北へと向う。
山口さん「一番ぐっと来たのは疲弊した人々の表情。そしてお前はそのままでいいのか、という問いかけ。自分の忸怩たる思いもあった。95年の…もっと自分は何かできたんじゃないのか、と」
「歌って誰かが少しでも楽になったり感じたりしてくれるのであれば、作った人間としては本望ですからね」
そして仲井戸チャボ大先輩との『満月の夕べ』!!!
「中川が書いた1番のせいで……“風が吹く港の方から…” “焼け跡”ってところで、情景が戻るんですよね。僕がやるのはお客さんにその情景を思い描いてもらうことだから…そこから立ちあがっていくところを歌いきっていかないといけないわけで…。ライブ1本分というと大げさですけど,1曲でそのくらいのエネルギーを使いますよね」
今でも何度も東北で『満月の夕べ』を歌う山口さん。「東北の人に歌ってほしいと言われれば、歌うのがしんどいとか、そういう問題じゃない。そりゃあ歌うでしょう。それが俺の仕事…仕事というか役目なんだから」
山口さんと共に活動する柚原さん。南相馬の病院に勤務。3月11日は野戦病院状態だった。そして原子力発電所が爆発。「病院の外で計ったもので、なんと20マイクロシーベルトもあって…」
南相馬は原発から20km。現在でも昼間立ち入ることは出来ても夜間の宿泊はまだ禁止されている。あの時から時間が止まったまま。
「最初は阪神淡路の歌、というイメージでした」
「『満月』聞いて泣いてた震災当初のこととか思い出す。フラッシュバックする割合が大きかったのが、今は変わって来ている。と言ってもフラッシュバックする度合いが変わって来たのか、単に自分で自分の感情を押し殺しているのか…自分でも分らないです」
柚原さんは震災後、山口さんと活動をともにし全国で福島で暮らす不安を語る活動をしているそうです。
去年10月、山口さんと柚原さんは山形と福島の交流イベントに参加。高校生の阿部ほのかさんと『満月の夕べ』を歌う山口洋。
50歳の山口洋と16歳のほのかさん。
ほのかさん、「これからも頑張ろう、っていう気持ちがある歌だと思う」
ここで昨年行われたMY LIFE IS MY MESSAGEの様子が流れる。5人のミュージシャンと『満月の夕べ』を歌う山口洋。
GRAPEVINEの田中さん、高野寛さん、矢井田瞳さん、シアターブルックの佐藤さん。
そして中川敬さん。中川さんが宮城県女川を訪ねる。2011年4月。「無言でここをウロウロしてた。1時間くらいいたかな……現実として(災害の様子が)掴めない感じだった」
そこで瓦礫の中で見つけたターンテーブルをツイッターに投稿した中川さん。するとその持ち主から連絡があり、交流が続いている。
中川さんたちに女川まで演奏しに来てもらった。でも実はこの時に聞いた「満月の夕べ」を高橋さんはほとんど覚えていない。
「見てた人の話によると泣きながら、ずっと“爺さん,爺さん”って言ってたらしいですよ(笑)」
「隣りの人に“お爺ちゃんね”とか声をかけられて初めて気付いた」
『満月の夕べ』が生まれて20年。避難所があった小学校で歌う中川さんとソウルフラワーの皆さんとリクオさん。
ううう、中川さん、泣けるよ!!
良い番組でした!! 本当に感動。最近いろんなことでモヤモヤしてたけど…やっぱり音楽っていいよね。ホントに心からそう思える番組でした。
中川さん、山口さん、ありがとう。『満月の夕べ』ありがとう。
あまりに感動したので自分のメモ用にまとめておきます。再放送もきっとあるだろうし、オンデマンドでも見れると思うので、是非皆さんも番組を見るチャンスがあったら見てください。なおこのブログは、1視聴者である私のとらえ方で書いたレポートあって、制作者、出演者の皆さんが意図するものとは違うものになってたらすみません。
阪神淡路大震災から20年。関西を拠点に活動してきたソウルフラワーユニオン、中川敬さんの代表曲「満月の夕べ」。
この曲が生まれて今年で20年、東日本大震災も経て、なお人の心を捕らえ続けている。
震災後、神戸にいち早くかけつけた中川さん率いるソウルフラワー・ユニオン。
バンドの伊丹英子さん。確かヒデちゃんが皆に「行こう」って一番最初に言ったんだよね。「みんなが行かなくても私は行くでー」って。
伊丹さん、素晴らしい。
ギターを三線に持ち替え、おばあちゃんたちのために「アリラン」など歌う中川さん。「あんたの歌でやっと泣けたわ」と中川さんに話したというおばちゃんの話をする。
2/14、再び神戸に行った中川さん一行は、余震についての噂話を聞く。満月の日に再び大きな余震があるのではないか、と。そこから中川さんにこの歌が降りてきたという。言葉もメロディも流れるように一気に出て来た。「あぁいうこと、ほんとに珍しいんだけどね」と中川さん。
前をむいていこうとする人々の姿を描いた歌詞。
「家族を亡くしたり家を亡くしたりしているのに、本当にみんな人のために動いているわけ。精一杯の笑顔で。忘れられへんでー」
この5年間で神戸で200回もの演奏を行った。
震災直後、中川さんたちと行動をともにした西定春さんのお話。「なかなか震災の情景を表現するのは難しい。でもこの歌は口ずさむたびに元気を感じる」
なおこの歌の誕生には中川さんの他にもう1人の人物が関わっていました。
HEATWAVEの山口洋さん。
ちょうど自身のアルバムを制作していた山口さんは中川さんの家で一緒に曲作りをしていた。「『満月の夕べ』のAメロと呼ばれるところを二人で書いたんですよ。で、これはかなりいいものが出来たので、サビの部分(今、「ヤサホーヤー」になっているところ)はお互い別に考えよう。良いものが出来たら、それを選ぶか、もしくは混ぜ合わせよう……みたいな話だったと思うんですよ」
ところが震災が二人で作っていた曲の運命を変えてしまった。
中川さんは山口さんと書いたメロディに「満月の夕べ」という歌詞をつけ、サビをつくって被災地で歌い始めたのです。
「それは反則だろう、と(笑)でも僕らが作ったものが神戸で歌われて役にたっているのならそれは素晴らしい」
「その現場に行った者しか書けないものが確かにあって僕は非常に心を動かされたんですよね」
でも山口さんは中川さんと同じ歌詞をそのまま歌うことをためらいました。
「あの時日本には実際に行動した人とTVを見て心を痛めていたんだけど何もできなかった人と2種類いたと思うんですよね」
「僕は後者で、ならばもう少し距離を置いて、テレビを見ていた立場に近い方から僕は歌詞を書いたんです」
そこで山口さんはもうひとつの『満月の夕べ』を完成させた。
『言葉にいったい何の意味がある』
「頑張っているのは分ってるじゃないか、と。(大変な思いをしている皆さんに)かける言葉がみつからないんですよね」
その後、この曲は様々なアーティストにカバーされる事になっていきました。
この番組のナレーターの大竹しのぶさんも歌っている。「どんなに辛く悲しい状況でも人間は生きていかないといけない」
歌詞の中の「生命(いのち)で笑え」というメッセージに強く心ひかれたから、と大竹さん。
2003年、神戸のパンクバンド、ガガガSPが『満月の夕べ』をカバー。中学生の時に震災にあい避難所暮らしを体験。避難所があった公園で1万人の前で、この曲を歌う。「自分の心の中で震災は風化してほしいと思う。前に進むために。でもこの経験は頭の片隅に置いとかないといけない、そういう気持ちにさせてくれる歌」
FMわいわい。コミュニティ放送局。震災時には救援物資情報のハブとなった。代表の日々野さん。ラジオで何度も『満月の夕べ』を流す。「公園で活動した日々とか…この曲を聴くと原点に戻るというか。そしてヨッシャ!という気持ちになれる。そんな曲」
シンガーソングライターの沢知恵さん。この曲をカバーする。震災後5年目、沢さんはまだ歌詞のほとんどを歌うことが出来なかった。歌えたのは一部だけ。「言葉にいったい何の意味がある 乾く冬の夕べ」「私が震災のあとに見た風景とあまりにも一致して、自分の気持ちに近すぎ、いろんな感情が整理できなくて歌えなかった」そしてようやく全部の歌詞を歌えるようになった沢さん。
そして2011年3月11日 東日本大震災。15,000人以上の人が亡くなった。未曾有の大災害。
その頃、インターネットの投稿動画サイトで『満月の夕べ』がたくさん聞かれたという。
そして作者二人は東北へと向う。
山口さん「一番ぐっと来たのは疲弊した人々の表情。そしてお前はそのままでいいのか、という問いかけ。自分の忸怩たる思いもあった。95年の…もっと自分は何かできたんじゃないのか、と」
「歌って誰かが少しでも楽になったり感じたりしてくれるのであれば、作った人間としては本望ですからね」
そして仲井戸チャボ大先輩との『満月の夕べ』!!!
「中川が書いた1番のせいで……“風が吹く港の方から…” “焼け跡”ってところで、情景が戻るんですよね。僕がやるのはお客さんにその情景を思い描いてもらうことだから…そこから立ちあがっていくところを歌いきっていかないといけないわけで…。ライブ1本分というと大げさですけど,1曲でそのくらいのエネルギーを使いますよね」
今でも何度も東北で『満月の夕べ』を歌う山口さん。「東北の人に歌ってほしいと言われれば、歌うのがしんどいとか、そういう問題じゃない。そりゃあ歌うでしょう。それが俺の仕事…仕事というか役目なんだから」
山口さんと共に活動する柚原さん。南相馬の病院に勤務。3月11日は野戦病院状態だった。そして原子力発電所が爆発。「病院の外で計ったもので、なんと20マイクロシーベルトもあって…」
南相馬は原発から20km。現在でも昼間立ち入ることは出来ても夜間の宿泊はまだ禁止されている。あの時から時間が止まったまま。
「最初は阪神淡路の歌、というイメージでした」
「『満月』聞いて泣いてた震災当初のこととか思い出す。フラッシュバックする割合が大きかったのが、今は変わって来ている。と言ってもフラッシュバックする度合いが変わって来たのか、単に自分で自分の感情を押し殺しているのか…自分でも分らないです」
柚原さんは震災後、山口さんと活動をともにし全国で福島で暮らす不安を語る活動をしているそうです。
去年10月、山口さんと柚原さんは山形と福島の交流イベントに参加。高校生の阿部ほのかさんと『満月の夕べ』を歌う山口洋。
50歳の山口洋と16歳のほのかさん。
ほのかさん、「これからも頑張ろう、っていう気持ちがある歌だと思う」
ここで昨年行われたMY LIFE IS MY MESSAGEの様子が流れる。5人のミュージシャンと『満月の夕べ』を歌う山口洋。
GRAPEVINEの田中さん、高野寛さん、矢井田瞳さん、シアターブルックの佐藤さん。
そして中川敬さん。中川さんが宮城県女川を訪ねる。2011年4月。「無言でここをウロウロしてた。1時間くらいいたかな……現実として(災害の様子が)掴めない感じだった」
そこで瓦礫の中で見つけたターンテーブルをツイッターに投稿した中川さん。するとその持ち主から連絡があり、交流が続いている。
ターンテーブルの持ち主、高橋さん。かまぼこをつくる会社の4代目。(←これ、よく文化放送の「くにまるジャパン」でプレゼントしてるかまぼこだ! 美味しそう!!)祖父をなくした高橋さん。祖父のかまぼこ会社を必死で切り盛りする。不眠不休の中、音楽を聞く余裕もなかったのだが、ある日ふと思い立って車の中で音楽をかけてみた。唯一聞きたくなったのが『満月の夕べ』イントロで涙出て来て、中川さんの声が聞こえはじめたら「うわー」って。
「なんとかオレがんばんなきゃってあえて考えないようにしていたこととか、いっぱいあるんだけど、それが一気に吹き出してきて…」「それで…泣いて声かれて、疲れて、でもメンタル的にはよしっ!ってなったんですよね。あれ不思議ですよねー」
「なんとかオレがんばんなきゃってあえて考えないようにしていたこととか、いっぱいあるんだけど、それが一気に吹き出してきて…」「それで…泣いて声かれて、疲れて、でもメンタル的にはよしっ!ってなったんですよね。あれ不思議ですよねー」
中川さんたちに女川まで演奏しに来てもらった。でも実はこの時に聞いた「満月の夕べ」を高橋さんはほとんど覚えていない。
「見てた人の話によると泣きながら、ずっと“爺さん,爺さん”って言ってたらしいですよ(笑)」
「隣りの人に“お爺ちゃんね”とか声をかけられて初めて気付いた」
『満月の夕べ』が生まれて20年。避難所があった小学校で歌う中川さんとソウルフラワーの皆さんとリクオさん。
ううう、中川さん、泣けるよ!!
良い番組でした!! 本当に感動。最近いろんなことでモヤモヤしてたけど…やっぱり音楽っていいよね。ホントに心からそう思える番組でした。
中川さん、山口さん、ありがとう。『満月の夕べ』ありがとう。
その他,ソウルフラワー・ユニオン、山口洋さんやHEATWAVEのCDはこちらで購入できますよ。
中川敬さん率いるソウルフラワー・ユニオンの情報はここ。
山口洋さん率いるHEATWAVEは、ここ。
また山口洋さんはグレン・ティルブルックの福岡公演にゲストで出演してくれることになりました。くわしくはこちら。(と、さりげなく告知!)
PS
のちに山口さんが書いたエッセイがこれ。必読です!!
中川敬さん率いるソウルフラワー・ユニオンの情報はここ。
山口洋さん率いるHEATWAVEは、ここ。
また山口洋さんはグレン・ティルブルックの福岡公演にゲストで出演してくれることになりました。くわしくはこちら。(と、さりげなく告知!)
PS
のちに山口さんが書いたエッセイがこれ。必読です!!
前半はここ 必読 https://t.co/hAGAIeRvGI— 野崎洋子 (@mplantyoko) 2017年1月28日
後編!!! 圧巻:「満月の夕」〜中川敬との22年〜 【後編】 https://t.co/X0eV7RfUTe— 野崎洋子 (@mplantyoko) 2017年1月28日