というのは、ともかく… 基本ティモシー・シャラメ目的で行ったようなもんだけど、シャラメはもう最初の登場からディラン以外の何者にも見えず、彼の映画を見に行った気がまるでしない。そこがすごい。歩き方から、表情、声の出し方。もちろん歌もすごい。
しかしながら、その存在感といえば、妙に空気っぽく、薄く、それよりも周りの周辺キャラの印象がめちゃくちゃ強い。いや、実際こういう人なのだろう。こういうふわふわな人いる。時々、何かのバイブレーションが電気みたいに彼に降りてきて、突然歌を書き始める。そういう感じ。だから彼は偉大なソングライターなのだな、と思った。
曲が入ると、彼はしゃきっとする。でもそれ以外はなんだか妙に薄い。これが、ディランなのか? そうなのかもしれない。何せ私はボブ・ディランについては、何も知らない。
知っている曲はいくつかある。みんなでフェスティバルの時にアンコールで「さぁ、みなさんご一緒に」的に歌われる曲。あの人が、あの有名ミュージシャンが自分の心の歌だと言っていた歌、ポール・ブレイディから聞いたディラン伝説、そして数々の名作とされるアルバム…でも私は本当に何もディランのことを知らない。
そして… 私がこの映画で一番好きだったのは、エドワード・ノートンのピート・シガーだった。これ、多くの人も言ってたけど、本当に素晴らしかった。真面目な性格が額縁に入ったみたいなシガー。あぁ、なんて適役なんだろう。エドワード・ノートンって、本当にすごい俳優さんだ。
そしてウディ・ガスリーですよ。これが話の要所要所で登場してくる。なんか私にとっては歴史上の人物、みたいな感じで、まったくリアルではないのだけど、いや、なんかすごい。そうか、こういう感じだったのか…と帰宅して、彼らのWikiを読みながら、ストーリーを追いかける。
そして、映画で、ピート・シガーの次に好きだったのが、ジョーン・バエズ役の彼女。これが、もう、なんというか視線の送り方から何から最高で、歌もいいし、すっかりファンになってしまった。
彼女の最後のセリフのキーワードがいいね。「自由」。そう自由を求めているんだ、わたしたちは。たとえ道に迷ったとしても。
この映画を見終わったあとでも、ディランのことは、今でもよく私は理解していない。この映画も、本人はなんだかただただ歌を書きたいだけ、強い何かの意思があるという感じでもない。とにかくとらえどころのない存在なのだ。
こういう人がWe are the worldみたいなのに参加しなくちゃいけないんだから、やっぱり世間は厳しいわな…
一方のジョーン・バエズなんかは、すごく優等生の学級委員みたいな感じがして、自分のやりたいことがやれていてかっこよかった。と同時に、彼女はやっぱりボブの曲を書く才能を羨ましく思っていたんだろう。でも彼女みたいに意思がはっきりとしていて、強い人にはこういう曲は書けないような気もする。あぁ、複雑。神様は本当に平等だ。
まぁ、何度も書くが、この映画がどのくらい史実に忠実なのかはわからないのだけど、少しだけボブのことがわかったような気持ちになった…かな。
ちなみにウチのミュージシャンの中で「ボブ・ディラン、わかんねー」と言っていた人が一人いる。彼の場合はさらに悲劇で、ジョーン・バエズのバンドに在籍していたのだからたまらない。そこでのディランは「神」だったそうで、彼はそんな気持ちを誰とも分かち合えず、結構つつらい思いをしたらしい。
でも、私に言わせれば、ほんと人は何も知らないくせに勝手に思い入れて、何も知らないくせに勝手に評価を下し、その人の音楽を対象として、結局は自分の立ち位置を確認しているだけなのだ。
ファンも、音楽評論家も、ラジオのプレゼンターも。
人の評価があてにならないのは、もう多くの音楽家が主人公の映画で描かれているのだけど、またもやそこを思ったよね。ほんと人の評価なんて、全然意味がない。そりゃ評価されれば嬉しいけれど、それ以上でも以下でもない。それによって自分の自由が奪われてはならない。
もっともそれが売れる・売れないという結果になり、自分の生活に及んでしまうのがこの商売なわけだから、表現者って、ほんと辛い立場なのだけど。でも個人の表現なんて、大多数に認められなくてもいいのかも。本当にわかってくれる友人が数人いれば…
…みたいなことも映画を見ながら考えた。これはそういう映画だ。音楽のことを言っているようで、人生のことも言っており、すごく深い作品になっていると思う。いや、映画ってすごいなぁ。
そうそう、映画ではジョニー・キャッシュがすごくいい味を出している。これって、どのくらい史実に基づいているんだろう。要所要所で、すごくいいセリフで登場し、かっこいいったらなかった。
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