福岡先生、マイブームです。しかし皆さんドリトルが「Dolittle」だったって知ってましたか? また謎の双頭動物「オシツオサレツ」の英語名が「pushmi-pullyu」だって知ってました? つまり「押しつ、押されつ」ということだったって知ってました?
ドリトル先生がこれだけ日本で受け入れられたのは井伏鱒二の対訳のおかげだと、福岡先生。これだけの超訳が許されていた時代。なんかすごく重要なことを気づかされたようで、ハッとした。
私たち洋楽黄金時代世代は英語をなるべく忠実にカタカナで再現することにこだわってきた。でも実際のところ、登場人物名前はまず読む人に自然に覚えてもらえなければ意味がないし、原語があらわしているユーモアもしっかり内包していなければ意味がない。
たとえばムーミンのスナフキンが、そのままの「スヌスムムリケン」という名前だったら、果たしてこれだけ人気が出ただろうか。ルパンが「リュパン」だったらルパン三世は作られただろうか……福岡先生の考察も冴える。
何度か紹介してますが、キリアン・ヴァレリーの名言を記しておきましょう。ある日、伝統曲のタイトルの読み方をあまりにしつこく確認する私に、キリアンの返事。「君の質問は、とても興味深い。というのは普通こういう事は読む人次第だからだ」と。つまり読む人が読みたいように読むのが普通なんだよ、と。
どうしても私たちは地元の人が読むように地名を読みたがり、知り合いが呼ぶように人の名前も呼びたがる。でもそこに必要以上にこだわる必要は、もしかしたらないのかもしれない、と。
問題はいろんな事のコアの部分を掴んでいるか、ということだ。音楽に対する敬意があれば、読み方がヘンでもいいのかもしれない。原語のユーモアがちゃんと伝えられていれば超訳だって、そっちの方が楽しいに決まっている。
表面だけつくろっておいて、重要なポイントを押さえていないのは、残念ながら今の日本社会すべてにおいて見られる現象だ。
いや〜面白い。ペンザンスからブリストル、そしてカッスルクームまで、架空の街パドルビーを探す旅。ぜひ皆さんにもおすすめ! まだまだ続きがあるので引続き読みます。