メアリー・ブラック物語 6

というわけで「ノー・フロンティアーズ」が日本でも発売になり、メアリーの来日が決まったのはすでに書いたとおり。ほぼ同時期にアメリカのGifthourseレコードが、メアリーのことを発見し、メアリーはアメリカでも発売になった。イギリスではこのあとGrapevineというレーベルが立ち上がり、ここでもメアリーは熱心なスタッフに支えられ世界へと一歩を踏み出したのであった。

そしていよいよ初来日の日がやってきた。空港に到着したメアリーを出迎えた私は、もう嬉しくて嬉しくて空港で泣いてた。で、ツアー中、ずーーーーっと泣いていた。今思うとホントいやんなっちゃうんだけどさ… まぁ可愛かったよねぇ、20代の自分は(笑)。そしてちょっと仕事ができるようになったもんだったから、自分一人でメアリーを呼んだ気分になっていた。今思い返せば赤面もんなわけなのだが。でも謙遜であるべき部分を差し引いたとしても、私が頑張ったから周りが動いた、というのはあったと思う。ホントがんばり屋だったよね、若い頃の自分(笑) それは今でも自信を持って良い。成田空港で初めて会ったメアリーは思ったより小柄でチャキチャキしてて、すごく元気な人だとも思った。

もうよく記憶にないがホール公演ということでO音楽事務所は公演前にリハーサル日を組んだ。もちろんメアリーたちはリハなど必要ないのだが、ライトや舞台のスタッフが確認のため…ということだったと記憶している。まぁ贅沢な時代だったよね。そしてリハーサルで初めてバンドの音が出て、そこでも、また私は泣いていた。ずーっと泣いていたもんだから、メアリーが来日後日本について聞かれてこたえたインタビューでは、こんな風に書かれた。まぁお客さんもみんな泣いてたもんね(笑) あと日本の女性は仕事をするのが大変だ、とも。拡大で英文ですが読めますよ。日本人は感動すると泣くんだ、みたいなことが書いてある。


























メアリーの旦那/マネージャーのジョーも一緒に来日したが、当時は結構贅沢品だったと思うのだけどハンディのビデオカメラをずっと回していた。おかげ様で私が泣いているところはしっかりジョーのカメラに記録され、のちに私がお家に遊びに行った時、その記録を見せられるハメになる。

ツアー中はレコード会社の宣伝担当ということで、ずっと一緒にツアーをしたけど、楽しかったなぁ。が、普段何もやらないおじさんたちがこぞって出てくるのもイラっとした。ホントに当時の私は生意気だったし自分のことしか分ってなかった。いや、自分のことすら分ってなかったかも。当時を思えば、よく我慢したよねという自分を思いやる気持ちが半分、そしておじさんたちに迷惑かけたよなという気持ち半分。

当時わたしがちゃんと外国人アーティストのアテンドがちゃんと出来ていたかというと、まったく赤面ものだ。ちゃんと仕事が出来てたんだろうか。当然このときはアイルランド人とどう接するべきかもよく分かってなかったから、日本に上陸したばかりのギネス缶を大量に買って差し入れ、みんなに飲んでもらえなかったこととか思い出す。(ギネスはアイルランドで飲むと味が全然違うんですよ)でも懐かしいなぁ。

バンドの中ではデクランは比較的気難しい空気を醸し出していたので、どちらかというと温厚で紳士的なガーバン・ギャラハー(ベース)が日本人スタッフの中では人気者だった。エンジニアのビリーがものすごい訛りで、メアリーは「ビリーが来たら私が通訳してあげる」と張り切っていた。ビリーはドニゴール出身なのだけど、あぁいう英語を話す人はドニゴールでも見当たらない。

ツアーは大成功で、最終公演の最後の最後にメアリーが予定になかったSONG FOR IRELANDを歌ったのがものすごく感動的だった。

メアリーの歌はもちろん、パット・クロウリーのピアノが感動的だよね。


こっちはフィル・コウルター先生のヴァージョン。やっぱりつまらない。


パットも一緒にまた来日するよ! メアリー・ブラック再来日決定。5月19、20日。コットンクラブにて。詳細はこちら

4月23日に私がライナーを書き選曲もしたメアリーのベスト盤が出ます。SONG FOR IRELANDも2001年ヴァージョンのものを収録しました。お楽しみに〜