エリア・スレイマン監督のお話しを聞きました

ネットから今よりちょっと
細めの監督の写真を拾ってきました。
昨日はヤスミン・ハムダンの今回の来日に同行していたエリア・スレイマン監督の講義を聞きに日本映画大学にお邪魔してきました。学校に行くの、久しぶり! 楽しかった。

監督は、1960年ナザレ生まれ。パレスチナ系のイスラエル人。2002年の『D.I』がカンヌでカウリスマキの『過去のない男』や『戦場のピアニスト』『ボウリング・フォー・コロンバイン』などすごいライバル候補をやぶり、国際映画批評家賞、審査員賞をダブル受賞。

監督「パレスチナのバスター・キートン」と称される、すごい人なのであった。また7人の監督がハバナの7日間を描いたオムニバス作品『セブン・デイズ・イン・ハバナ』にも参加しているそうです。

それにしても監督、ヤスミンといる時は二人して夫婦漫才状態なんで、ほんと笑いが絶えない感じなんですが、いや〜ものすごい人なんですねぇ。とにかく素敵なキャラクターで、映画監督って素敵な人が多いけど、私もすっかりファンになってしまったのでした。

監督の生まれた場所…ナザレですよ。キリスト様が生まれたナザレ。でも監督によるとナザレはいわゆるガザ、エルサレムやラマラのような政治的にハードな場所、他のアラブ世界とも強く結びついている場所とは違って、もっと孤立した不思議な場所なんだそうです。丘の上にあって、いわゆる他から取り残されたような微妙な位置で、基本的には何も起こらない。イスラエル政府によって、空間的にも経済的にも、すべての可能性を断たれている。そんな町。今の中東をある意味ちょっと変わった角度から眺めている…という位置なのだそう。でもナザレ生まれの監督は、そういう事が自分の映画に多くのインスピレーションを与えている、と言います。

本日いただいたレジメより
監督は15歳で学校を退学。それ以来、ずっとストリートで生きて来たんだって。ニューヨークに渡り低賃金の労働をしつつお金をためたり、映画学校の非常口から潜り込んで映画をみたり…苦労も多かったようです。

学校での監督の話は中東うんぬんよりも、映画作り、そして自分の生き方に関することがほとんどでした。本当に感銘をうける話が多かったのだけど、その中の一部から学校の許可をいただいたので、少しご紹介したいと思います。

ご存知の方も多いかもしれませんが、監督の映画はほんとに淡々としていて、台詞もほとんどなく、主役を演じる監督自身の表情もあまり動きません。ちょっとそのヘンはカウリスマキみたいだよね。あと「固定カメラ」が身上なんだそうです。(これについても面白い事言ってたなー)その沈黙、セリフがほとんどない事について…

「映画的な原語というものは、時に実際にしゃべられる言葉や原語よりもはるかに雄弁なわけです。私の作る映画は、観客の皆さんがイメージを作りあげることで参加できるものを目指しています。それは映画の民主化なんです。観客席の皆さんが、それぞれ異なった見方で映画を見ることは非常に重要です。みんなが同じように考え、行動したら人間は詰まらなくなるんです

「ハリウッドのいわゆるポップコーンを食べながら見る消費される映画というのは皆が同じように感じるために作られたものです。でも私たちは生まれた時からハンバーガーとケチャップで満足するような生まれついてはいないはずです。自分の生きている可能性を広げていくことこそ、生きる事ですから、自分でちゃんと料理してディナーのテーブルを準備する事が重要。そうすれば、そこに非常に大きな個人性が入り込んでくるわけですから」

そうやって多様性を知ることで、結果として暴力をふせぐことになる。自分の中が豊なものになれば暴力がいかにくだらないものかというのが見えてくる。だから僕は映画を作るのが好きなんです。なぜ僕がこんな方法で映画を作っているのか、直線的な物語を好まないのか分っていただけると思います。個人性や個性がそこに残る、観客にそういう余地を持ってもらう、ということが大事だからなんです」

「芸術の目標はそれだと思う。それは美術館や博物館で見る芸術ではなく、それこそ日々生きている芸術です」

講義の様子。結構前で聴講しました!
「また沈黙について私がいつも思っていることなんですが、沈黙は私たちと私たちの弱さとの間の距離を縮めるものだと思います。自分の存在は無である、ということは沈黙によってはっきりしてくる。そう思う事によって、人は他者に対しても寛大になれるんです。それが、消費文明に毒されないということが可能にし、権力、権力側の力に対抗する抵抗力になっていくと思うんです。なぜならば権力というのは大きな騒音、ノイズが大好きだからです。権力は沈黙にこそ驚異を感じる。なぜならば沈黙というのは自分が誰か、ということを問うからです。静かであるからこそ、我々は誰かということが問われてくる。そこで一人一人が自分に問いかけ始める時、権力は力を失うわけです。ですから意図的ではなく、結果的に沈黙というのはレジスタンスになるわけです

「ユーモアについても同じことが言えます。権威はユーモアを嫌います。権力側は我々が面白い存在であることを否定したがります。ユーモアは、私たちに突然起こってくるものですから、予測不可能なものです。権力側は予測できるものしか好まない」

「とはいえ、こういう話をしておいて何ですが、私の映画にユーモアがあるのは、抵抗の手段として意識的にやっているわけでもありません。私がこういう映画を作っているのは、単純に私がこういう風に世界を見ている、という事だけです」

白昼夢の重要性について
「いつも自分に問いかけていること。撮影している時、いったい自分は自分自身に正直にやっているか、ということを非常に重要視しています。ですから白昼夢を見続けることは、私の映画製作の中でもっとも重要なことかもしれません。自分の内面を見ることはとても重要です。どういう映画をつくりたいか、という事ではなく、どういう自分でありたいのか、自分は何ものなのか…ということを常に自分に問いかけています。映画製作こそもっとも根本的な問いかけ…それは自分の中の善良なものを見いだすことなんです。毎日座って、非常に生産的な意味で私はまったく何も行動しない、ということがよくあります。そうすることによって、自分はどう自分自身を騙してきているのか、日常生活をする上で自分を騙すことがどこから始まっているのか…ということを見いだすことになるわけで、それはとても重要な事だと思います。自分自身の内面である宇宙を問いつめていく、自己保身や自己利益を超越したところで、シーンが生まれてくるのだと思います」

「それは結局、自分の行動を自分がどこまで信頼できるか、という事にも関わってくると思う。そこで、あえて着地点がどこにもないのは分りつつも、とにかく飛び降りてみる、ということが重要です。飛び降りている途中で自分が自分の事を信頼できていれば、どこかで着地点が生まれ、そこで1つの宇宙…自分の周りに宇宙が出来て、ある程度のハーモニーが生まれてくる。私はここで偉そうに映画とはこう作るべきだと説教する気はないのですが、ぜひ試してみてください。あえて自分の身を投げてみるのです」

「もちろん毎日そんなセンセーションを味わって生きているわけではないですよ。でもその状況に到達できるように努力することだけでも、面白い事が起きるんです。そしてそれはとても大きな快感を得られることでもあります。私は多作な監督ではないし、実際そんなにたくさん作ろうとは思っていません。ですが、作る時は絶対に楽しもうと思っています

学校では、このレクチャーを全文起こしをする、なんて言ってたけど、それがWebで一般の人も見れるようになるかどうかは不明なんで、とりあえず私が響いたところをメモりました。また監督について何か分かったら、ここでも紹介していきたいと思います。それにしても良いレクチャーでした。通訳の方との息のあい方も素晴らしかったので、聞いててストレスがまったくなかったですね。素晴らしい機会を与えていただいた学校の皆さんに感謝。ちなみに監督の発言は私がメモったもので、もしかしたら誤解している部分もあるかもしれません。それは私に責任があります。

D.I.は実はネットでフルで見ることが出来ます。言葉は分らないけど、この不思議な空気は感じてもらえるかな。ちなみに2002年2月17日号のTIMES誌では「AND THE WINNER ISN'T」という見出しの1ページ記事で、アカデミー賞の外国語映画部門で「D.I.」がノミネートから排除されたことをスキャンダルとして報じたそうです。 



いいなぁ。映画。監督の話を聞いて私が感じたのは私も映画のプロデューサーになってみたい!と言うことです。音楽よりも映画はより多くの、具体的なメッセージを運ぶことができる。でも映画プロデューサーこそ資金集めが上手くないといけない。そして個性的で魅力的な監督の手綱をがっつり握らないといけない。だからこそきっとやり甲斐のものすごくある仕事なんでしょうが。