「サウルの息子」を試写で拝見しました。ありがとうございます。
いやー、パワフルな映画でしたよ。さすがカンヌのグランプリ作品。まったく無名の監督が撮影したらしいのだけど、こんな撮影の仕方する人初めて見たかも!
えらい長尺のショットで、本人の肩越しにしか何が起こっているかはっきり見えなかったり、全体の状況が把握できないことで、ものすごい緊張感を醸し出す。余計な音楽とか演出とかがないから、すべてが超リアルで迫力がありました。
1944年、アウシュビッツの強制収容所。死体を焼く仕事をしているサウル。ゾンダーコマンドというナチスが選抜した同胞のユダヤ人の死体処理に従事する特殊部隊で、いずれは彼らも殺される運命にある。サウルはある日、収容されたグループの中に息子らしき少年を見つける。少年はまもなく絶命してしまうのだが、それでもなんとかこの極限の状態のもと、ユダヤの正しい教義にのっとった形で(ラビと呼ばれる司祭にお祈りを称えてもらい、地面に埋める)埋葬したいと考えるサウル。目的が出来たことで、少しずつ、その人間性を取り戻しつつあるのだが…
それにしても人間性というのは、いったいどうやって、どのポイントで失われるものなのだろうか…と考えた。こんなすごい映画を見ている時ですら、都心の試写室のフカフカな椅子に座り、途中うとうとしてしまうのも、これまた人間だ。人間っていったいなんなのだろう、と思う。最初はガス室にほおりこまれるユダヤ人や、その死体の山を片付けるゾンダーコマンドの姿に「うわーー」と思っていたのだが、そんな気持ちも、だんだん麻痺していく。
しかしサウルは息子の死に直面し人間性をわずかながら取り戻した。そしてなんとか生き延びようとする。
そうなのだ、生きなくてはいけない。それこそ人間なのだ。生き物として当然のことなのだが、人間はちゃんとした目的がなければ、簡単に諦め、簡単に流され、簡単に死んで行ってしまう。それはホントにあやうくて、はかない。そして最後はなんというかあっけない。
人間性ってなんなんだろうとは思う。話はだいぶ変わるが、満員電車の中、他人を突き飛ばすように進むサラリーマンの人たちは、自分の家族に対してもそういう態度を取っているのだろうか。先日来日していたハラールたちは、上野に泊まっていたんだけど、上野の飲食街もひどいよね。ある晩、けっこう高級なお店だったのだが、店員に執拗にからむ客がいて、近くで見ていてホントにいやになってしまった。ハラールたちにバレてなきゃいいけど…ホント一緒にいた人も何か言わないものかなと思ったよ。確かにちょっとデキの悪い店員さんだったかもしれない。でもって、お店の人たちは周りのお客さんにまで謝っていた。最悪だよね。飲食店で横柄な態度をとる人。同じ日の帰り道では週末の満員電車でたったまま寝ている男の人がいた。まぁ、それなら京浜東北線の中ではよくあることなのだが、手すりにぶらさがったまま、ブラブラ大きくゆれるその男性を、その男性の目の前に座っていた素面の、別の男性が蹴飛ばしていた。蹴飛ばすといっても暴力と呼ばれるほどのものでもない。ただブラブラゆれる酔っぱらった男性を払いのけるようにしていただけだ。だけどそうやってその人を蹴飛ばす勇気があるのなら、どうしてちゃんと声をかけて起してあげないんだろう、とも思った。さらにいやだったのは、蹴飛ばしながら、その男性が薄ら笑いを浮かべていたことだ。そういう私も、勇気がなくて、ツアー中だったら自分にも何かあるわけにもいかないし(いや、言い訳だな、これ)何も言えずに自分の駅が来たら、とっとと自分は降りてしまった。これも、ある意味、大げさではなく人間性の喪失だ。ホントに情けない。今でもなんだかあの薄ら笑いを思い出す。そしてそれを傍観していた自分のことも…
そうやって、本来人間が備えているはずの優しさや思いやりは異常な日常と、ちょっとした集団心理で、すぐさまに失われてしまうものなんだと言う事を忘れてはいけない。罪は悪いことを傍観している私たちにもある。そしてそんなことが積み重なる事で、知らない間に世界は多くの人がのぞむのとは反対の方向に走り出していたりする。
最後の終わり方だが、私はこういう終わり方は映画として素晴らしいと思う。監督、すごいな…圧倒的にパワフルな作品でした。来年1月23日より公開。都内では新宿のシネマカリテ、ヒューマントラスト有楽町などで上映されるようです。
PS
町山解説がもう絶品なんで、是非。(アカデミーも撮るだろう、と断言してますね、町山さん。さすが!)