知りたがる心は北へ向う

土曜日は北極の関係者が集るという場所に呼ばれて,参加してきた。私もだいぶ北極業界の仲間に入れてもらえるようになったな…(爆)

10人ちょっとの小さな会なのだが、研究発表もあったりして、これがすごく面白かった。素人が聞いていても、すごく面白い。これ、ここだけでシェアしているなんてもったいないと思った。今、北極は本当に氷が溶けまくっているのだけど、例えば30年前に消滅したコケが氷がとけて、また復活したとか、同時に消えたアオムシがなんと増殖してきたとか(30年冬眠してたのか?!)。とにかく北極は面白い。

ここでもやはり北極関係者は科学者ばっかりで文化系が少なすぎる、という話になる。そして科学チームと文化チームも交流もあるべきだ、と。

で、そこで配られた冊子に、なんと!! 角幡唯介さんが寄稿しているではないか。これは、すごい! 

っていうか、これ、ここでしか読まれないものなんだろうか。いずれにしても、なんと貴重な! 今後角幡さんのエッセイ集とかに再録されるのかもしれないが、あまりにも素晴らしい文章だったので、感想をここに書いておきたいと思う。

そこには角幡さんがこれから行う「北極極夜探検」のことが書かれていた。

「極夜探検」分かりますか? 今や、地球上のどこだってGoogle Mapで観ることが出来るので地理的探検はまったく意味をなさない…というのは、皆さんももうご存知だと思います。確かに今でも高低差のある山に登るのは大変かもしれないが、今や北極に行くことも南極に行くことも、クルーズ船に乗ってるジジババたちでも出来る事となった。誰でも時間と金さえあれば行ける場所になったのだ。北極も,南極も…

だから最近の極地探検家さんたちは、みんな独自にアレンジして(笑)探検の意義を何とか見つけようとしている。「単独」とか「無補給」とか、「GPS持っていきません」とか。「無補給」「単独」にこだわる探検家さんたちは、もしかしたら、ちょっと探検をスポーツや身体能力的な実現と捕らえているかもしれない。一方で、角幡さんの探検はもっとなんというか、深いというか、哲学的なのであった。知りたい事を知りたい。そんな知的欲求の探求。英国の100年前の探検家みたいな探検だ。チェリーガラードの「世界最悪の旅」を思い出す。「探検とは知的情熱の肉体的表現である」

角幡さんは今回、極夜の北極を旅する。いわゆる白夜とは逆の真っ暗な世界を行くのであった。犬一匹つれて、GPSを持たずに、月あかりだけの世界を行く。っていうか、月だってほとんど出ないかもしれない。ほとんど真っ暗な世界を行く。

シオラパルクを出て氷床の上にあがり(1000mあるんだって)そこでしばらく過ごしたあと、北へ向う。冬至をすぎると太陽が明けてくるからそれから逃げるようにさらに北へ北へと進む。そしてカナダへと抜ける。

過去、植村直己さんが12,000キロの犬ぞり旅の時に極夜探検を実行しており、私もあの本は夢中で読んだが、残念ながら植村さんの筆力では、暗闇がどういうものか、太陽がどういう事なのかという事は充分描かれてなかった。確かに長い長い夜が明けて、太陽がのぼる、そのことは素晴らしい表現で描かれていたが、その表現は単にピュアな植村さんの美しさを表してはいるだけで、私の中にはまるで響いてこなかった。

真っ暗な中、地球の終わりみたいなその場所で、草木一本はえないその場所で、本来は人間が来ちゃいけないその場所で、いったい人間は太陽を再発見した時、何を感じるのか。角幡さんが戻られて本を書けば、それを角幡さんの言葉で読めることになるのだ。

きっと角幡さんが行けば…、きっと角幡さんが行けば、おそらくものすごいノンフィクッションが出来上がってくるに違いないのだ。だから本当に本当に期待している。このエッセイというか短い寄稿文は、こんな一文で終っている。「この旅が本当にうまくいったとき、私は太陽の真実の意味を知る地球上でただ1人の人間になっているだろうということだ」

実はこの文章を読んでからというものの、この最後の1文が頭を離れない。頭の中をずっとこの最後のひと言がグルグルグルグル回っている。「太陽の真実の意味」を「知る」。

最近知らないものに対する知識欲というか、知りたい願望が強すぎて困っている。いや、私の場合、探検家さんのようにそれを自分で体験する必要はまったくないのだが、ただそれを知りたいと強く思う。実感として感じられれば、別に体験しなくてもいい。角幡さんの本を読めば、きっとそれが感じられるのではないか。「分かる、分かるよ! 角幡さん!」みたいなことになるのではないか、と。

購入した本。また資料が増えた!
都内の片隅で、こうして北極関係者が集まりそれぞれの研究などを発表している感じは、なぜか懐かしくもあった。

というのも、90年代初頭、アイルランド音楽の集りに行った時の感じに非常に似ていたからだ。そこにいるのはおじさんばっかりで、女で比較的(比較的、ですよ)若いってだけで私はかなり皆さんに良くしていただいた。そのことをなんとなく思い出した。

どうやら、北極研究の権威であるみんぱくの偉い先生などは私が奮闘しているのを見て、「あんまりお客さんが来ないと可哀想だから、是非コンサートや映画に行ってあげてください」と北極界隈で私のことを言って回ってくれているらしい。うううう、優しすぎるよ、K上先生。本当に泣ける。

角幡さんは人間が忘れた大事なもの(太陽の真実の意味)を見つけに北極へ行く。私もそんな風に自分が無くした何かを見つけたくて、北極への興味が止まらない。なぜだろう。北極には皆が忘れた何かが、すべてが吹きだまっているようだ。

角幡さんは先日発売したエッセイで、こんな事も書いていた。

「私は一匹のイヌとともにそこにいる。私が死んだらイヌは死ぬ。イヌが死んだら私も死ぬ。そのとき私とイヌのあいだにひかれたあらゆる区分や差異は消滅し、二つの生物種を規定する異なる概念に意味はなくなるだろう」(「探検家、40歳の事情」より)

あぁ、こういう感覚がほしい。こういう原始人ならたぶん誰もが持っていただろう感覚を私も感じてみたいんだ。自分で探検しなくてもいい。その感覚というか本質みたいなものを自分でつかみ取ったと感じることさえ出来れば。だから早く角幡さんの本が読みたい。

昨日角幡さんはヨーロッパに向けて旅立ったはずである。しかし、奥さんやあんなに小さな子供もいるのによく探検に行けるよなぁ、といつも感心する。もちろんそれは探検家さんが生きている証なのであるのだけれど。それにしても、昨日読んだ,この文章がグルグルと頭の中を離れない。

せめて私もウヤミリックを今回の一連の公演に連れて行こう、と思った。角幡さんに許可をいただき写真をA3サイズのパネルにしたが、荷物が多いと、どっかで挫折するかもしれない。私もイヌ1匹連れて、極夜の北極を旅してみたい。そして生きぬくこだけに専念してみたい。いや、自分がやらなくてもいいから、それがどんなものなのかを知りたい。早く読みたいなぁ。





PS
なんとアヌーナのジョン・マクグリンもアイスランドにいるらしい。みんな北へ向うなぁ…