ICE STATION講座第7回:荒野政寿さん(1)

さて今回は、我々初老の音楽業界働きマンからは「歳ごまかしてんじゃないの!?」みたいにいつもからかわれている、シンコー・ミュージックのクロスビート編集者、荒野政寿さんにお話を聞くことになりました。それにしても、R.E.M.を聞く中学生っていったいどんな感じだったんだろう…
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ロビンとヴィーナス3
レコード・ハンティング
のざき「シンコーさんといえば、行ったよね〜 ピーターたちとレコード屋に! あれ担当は荒野さんだったっけか?(以前THE DIGという雑誌で、ミュージシャンにお小遣いを渡してレコードを西新宿であさるという企画があったのでした。その時の記事が右の写真)」

荒野「ありましたねー。でも、あれは多分、先輩の辻口の担当ですね…」

のざき「ところで今朝教えてくれたマイク・ミルズのファンのページはとても面白かった。あぁやって見るとR.E.M.でマイクがヴォーカル曲って1曲だけかと思ってたら、結構あったね…」

荒野「マイケル・スタイプといっしょに歌ってるやつも入れると、結構地味に多いんですよ。シングルのカップリング曲とかクリスマス・シングルとか…」

のざき「赤尾さんがマイクのヴォーカルは、ちょっと入るのがいいんだ、って言ってたよ」

荒野「それについては僕は否定派というか…(笑)。実はマイクのヴォーカルがあってこそのR.E.M.だと思うので」

のざき「そうなんだ! じゃあ、そのへんを熱く語ってもらおうかな…。まずはその前にスティーヴ・ウインのドリーム・シンジケートについてお願いしたし…」

荒野「84年にドリーム・シンジケートがレイン・パレードと一緒に来日したんですよ。僕は当時小6だったんで観てないですけど、その辺のインディー・バンドがもう大好きで。僕は72年生まれなので、ニュー・ウェイヴには、ちょっと遅れているんです。でも世の中で流行っているのって、当時はデュラン・デュランとかだから… そういう音楽とは違う硬派なロックを聞きたいと思っても… すでにU2も結構売れ始めていて…。そう思っていた頃、ちょうどR.E.M.やドリーム・シンジケートが注目され出して、ミュージック・ライフやFM誌にも記事が載るようになってたんですよ。R.E.M.の初来日も84年で、向こうのカレッジで受けているから日本でも…ってことで、早稲田大学とかの学祭にブッキングされた。爆風スランプと共演してますよね」

のざき「その時は観ている?」

荒野「いやいや、まだ12歳ですから…(笑)。親にコンサートには行っちゃだめって止められて。めちゃくちゃ行きたかったんですが…。84年当時のR.E.M.なんて、絶対に観たいですもん! I.R.S.の日本盤がソニーから出ていた頃で、『Reckoning』とか日本盤が出て、盛り上がりを感じてましたから。で、当時の担当氏が一生懸命プロモーションしていたのか、R.E.M.の記事は音楽誌によく載ってたんですよ。『Reckoning』はアメリカでもトップ30に入るぐらいヒットしてましたから。その頃ミュージック・ライフに載った『Reckoning』の紹介記事には、マイク・マイルズって書いてありました(笑)」

「R.E.M.はジョージアですけど、その頃L.A.で盛り上がっていたのが、ペイズリー・アンダーグラウンドって言う一派で… バングルス、スリー・オクロックとか…で、ドリーム・シンジケートもその1つだった。雑誌とかでも結構取り上げられていて、その辺のバンドがたまらなく気になってたんですよ。84年頃かな…ビクターがスリー・オクロックやロング・ライダーズの作品をまとめてリリースしたし、バングルスはそのあと2枚目のアルバムがめちゃくちゃ売れましたよね。ただ、ペイズリー・アンダーグラウンド勢の中でもドリーム・シンジケートだけちょっと異質で、他のバンドが悪く言うと60年代のコスプレみたいな感じでポップにやっているのに対して、彼らは明らかにドロッとした暗い感じでやっていたんで、かえって目立ってました。来日した時もミュージック・ライフが取材していて、見開きの片ページがドリーム・シンジケート、もう片ページがレイン・パレードのインタビューでしたよ。その頃、輸入レコード店のWAVEがUSインディー・バンドの売り出しに力をいれていて、レイン・パレードにいたっては日本公演のライヴ盤もWAVEレーベルから出たくらいですから。それほど、WAVEがあのシーンをプッシュしてたんですよ」

「そういう流れの年に、R.E.M.の早稲田祭でのライヴ・レポートとかもFM誌に載って。それを読んで、すごいかっこよかったんだなぁ!…と。モノクロのライヴ写真が素晴らしかったんですよ。まだマイケル・スタイプが長髪で結構ハンサムだったし、男の子としてはピーター・バックの立ち姿がとにかくかっこよくて…。で、彼らの横に、のび太みたいな奴がいるぞ…と思って」

のざき「4人の中で明らかに1人違う、おぼっちゃんみたいなタイプが混じっているぞ、と(笑)。確かに若い頃のマイクってビル・ゲイツみたいな感じがするよね」

荒野「それがマイク・ミルズが気になった最初のきっかけです。ルックス先行(笑)。前髪もパッツンだったし、ロックスターにはとても見えなかったので、インパクトがありましたね。1人だけ子供みたいな感じで…。R.E.M.とドリーム・シンジケートが大々的に日本のメディアで取り上げられはじめた年って、その84年からじゃないかと思います」

のざき「この頃は外タレにとって、来日するって事自体もかなり大きかっただろうしね」

荒野「大きかったと思いますよ。ドリーム・シンジケートは、82年にアルバムが出て、R.E.M.もその年に『Chronic Town』を出してるんで、キャリア的には同じくらいですけど。実はスティーブ・ウインのキャリアが随分長くて、あの人はなんと79年に最初のレコードを出してるんですよね」

のざき「そんなに早いんだ!」

荒野「サスペクツっていう、その後のキャラからするとかなり恥ずかしい感じのニュー・ウェイヴ・バンドをやってました。検索すれば動画も見れますよ」

「あとでドリーム・シンジケートを一緒に結成するケンドラ・スミスがヴォーカルで、スティーヴは作曲担当とギターって感じで…。5人組だったかな? 当時シングルも出してるんですけど。その頃のビデオが物凄いインパクトなんで、是非見て欲しいです。ベリー・ショートのケンドラがマイクに向かって歌う姿がなんとも! 彼らも原点はパンクだったんですよ」

のざき「なるほどねー」

荒野「その頃スティーヴは、サクラメントの近くのデイヴィスって所でカレッジに通っていて、主にその周辺で活動していたんですけど。その後1981年に15 minutes 名義でシングルを出してから、L.A.に戻ってきて最終的にドリーム・シンジケートを結成してます。その動きを追いかけていると、だんだん音楽性が変わって行く感じが面白くって。さっきも言った通り、最初は結構モロにパンクっぽいんです。その頃の音源もネットで聞けるんですが…すでにサスペクツ時代からヴェルヴェット・アンダーグラウンドのカバーをやっていて、ケンドラが《All tomorrow’s parties》のカバーをニコそっくりに歌っている音源も残ってます。流行りのパンクにショックを受けながら、60〜70年代のロックも凄く好き、というのがスティーヴの根本にあった。彼の中で60年代のサイケ色を思い切り解禁して、これまで以上に濃く出し始めたのがドリーム・シンジケートだったのかな、と思います。このバンド名も、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジョン・ケイルが参加していた現代音楽のプロジェクトに由来してますし」

「世の中の流れとして60年代再評価の波が来ていたこともあり、バンドのキャラクターがペイズリー・アンダーグラウンドの雰囲気にちょうどはまった、ということだと思うんですよね。そんな風に音楽の趣味が重なる人たちが、L.A.に少なからずいた、と…。で、これも面白いんですけど、R.E.M.のピーター・バックはレコード屋の店員だったじゃないですか?」

のざき「はい、はい、はい」

荒野「そこでマイケル・スタイプと会った…という有名な話がありますけど。スティーヴ・ウインもレコード屋の店員だったんですよ。もう何歳か上だと、XTCのアンディ・パートリッジとかもそう。つまり、音楽マニアがバンドをやってるんですよね。みんな、あらかじめ音楽をたくさん聞いてからバンドをスタートさせてるから、当然そういう音になる」

こちらはノルウェーで行なわれたICE STATIONでのスティーヴの様子。

ICE STATION、開催までもうすぐ。渋谷と京都で公演があります。
2月7日 京都 磔磔
2月9日 渋谷 WWW
2月10日 渋谷 WWW


詳細はこちら http://www.mplant.com/icestation
with ナヌーク、カート・ブロック、ピーター・バック、スコット・マッコイ、マイク・ミルズ、リンダ・ピットモン、スティーブ・ウイン

PS
荒野さんが手がけた名著の数々。アイルランド音楽本とアコーステイック・ギター本にはウチのアーティストも多数ご紹介いただいております。