お世話になった人が突然亡くなった。亡くなってみて、その人がもっとずっと年上だと思ってたのに、あんまり年が変わらなかったことを知った。…というか、絶対に知っていたはずだ、年齢くらい。そのくらい私たちは一時はよくいっしょにご飯を食べて、お酒を飲んだりしていた。Oさんは、仕事が物凄く出来て、体育会系でサッパリしてて、優しくて、かっこよくて、男らしい人だった。成城のアメフト部だったっけか。男らしいという意味では、ウチのヴェーセンに匹敵するくらいの男らしさ、そして優しさだった。いや、ヴェーセンの連中以上かもしれない。そのくらい素敵な人だった。ホントにホントにかっこいい人だった。もしかすると生涯出会う人の中で一番かっこいい人だったかもしれない。いや、ホントに冗談ではなく。そんなかっこいい人いるわけない、って思うでしょ? いや、いるのよ、ホントに。Oさんは、ほんとうにかっこいい人だった。
人が亡くなったからといって過剰に評価をするのは私は嫌いで、人が亡くなった時によく知りもしないのに追悼合戦するのも嫌いだし、評価が意味もなく高くなるのは、生きて戦いつづけている者に対してフェアじゃないといつも思っている。生きてても亡くなっても、Oさんがすごい人だったことに変わりはない。そして、なんというか、みんなに信頼されて頼りにされて、絶対に死んじゃいけない人がいるだけど、Oさんは間違いなくそんな人だった。だからこの事が、納得できないままでいる。
思い出されるのはレコーディングにいっしょに行ったダブリンで、ハープの子を連れてロケに行った時のこと。撮影に必要な椅子がなかった。ダブリンの街中だったので「この道の裏に取引先あるんで〜」と、当時Moore StreetにあったDolphiinレコードに私たちは駆け込み「なんでもいいから椅子を貸して〜」と言ってスタッフに椅子を借りた。別に勝手知ったる仲だし、全然気を使わなくていい相手なのに、Oさんはそれではお店に申し訳ないからとCDを買ってくれた。どれを買ったらいいか相談されてエディ・リーダーを教えてあげたことを覚えている。その時、ほんとにこの人は頭がよくてスマートでかっこいい人だなぁと思った。そして自分もそんな風にさりげなく気をつかえる人間になりたいなぁ、と思ったものだった。
でもOさんとじっくり何かについて話したりとか、音楽のことや人生のこととか語ったとか、そういう記憶は全然ない。もっと話がしたかったけど… でもきっと話しても私ばかりがベラベラと愚痴りOさんはきっと笑って聞くだけだったかもしれない。Oさんはいつも文句を言ったり愚痴を言ったりするおじさんたちの聞き役だった。そしていつも笑って、適格で冷静なアドバイスをしてあげるような人だった。そして余計なことは絶対に言わない。そんな人でもあった。そこがめちゃくちゃかっこよかった。人間は何かというと自分の存在意義をアピールしたくて、何かを言ったりかっこつけたりするけれど、そういうところがまったくない人だった。でもOさんが男らしくてかっこいいという事は、周りのみんなにもすぐ伝わって,周りにいるみんながOさんのことを頼りにしていた。
2度目にいっしょに行ったアイルランドのコネマラ・ロケで私が「風邪をひいたかもしれない」と車の中で言うと「これ飲んでおきなよ」とさりげなく薬をくれた。結局風邪でもなんでもなかったんだけど、あぁいうさりげない優しさとかって、人は長く覚えているもんだ。
あ、そうそう、レコーディングの間、なんかのトラブルで私のクレジットカードが使えなくなった… いや、違うなカードをホテルの部屋に忘れてきたのかな…もう詳細は忘れちゃったけど。ダブリンのオコンネルストリートにあるホテルのリフトの中での話。まぁ、クレジットカードは複数枚常に持っているし、全然大丈夫だし、もうホントに詳細は覚えていないけど、Oさんはそれをすごく心配してくれた。もちろん全然大丈夫だったのだが、普段仕事であんまり心配してくれる人がいないんで(笑)そんなこともあったなぁ、と今になって妙に思い出される。あの時のリフトの中の空気までも思い出す。
Oさんはアイルランドで体験したパブでのセッションにいたく感動し、あぁいう楽しさを日本にも持ってこれないかなぁ、と私に相談してくれたことがある。いや、ウチらよく公演の打ち上げであれを東京でやって、あちこちの飲食店から追い出されてますから〜(笑) で、よく覚えていないが、一緒に池袋の代理店だかイベント屋さんに、その件で営業に行ったことを記憶している。その日は午前中のミーティングで、なんといっても珍しい事に私とOさん2人だけだったから、お昼いっしょにどうかなぁとなんとなく思っていたのに、Oさんはミーティングが終わると「じゃあ!」とか言ってとっとと事務所に戻られてしまい、がっかりしたのを覚えている。いつものリュックを背中にせおい、行ってしまうOさんの後ろ姿まで覚えている(笑) あの時、Oさんが実現しようとしていた事はなんだったんだろう。言葉が比較的少ない人だったし、代理店の人にありがちな風呂敷は絶対に広げない人だったので、結局じっくり話すチャンスもなかった。そのイベントも結局は実現しなかったけど、本当はもっといっしょに仕事がしたかったなぁ。そのあともダブリンと同じクライアントさんの仕事でストックホルムにも一緒に行ったし、グラスゴーにも行った。 それぞれに楽しい思い出がある。でも何故だかよく覚えているのはダブリンだ。
そんなエピソードがつらつらと思い出される人だ。いっしょに行動していたおじさんたちはみんな仲が良いので、いっしょにいるとお互いの家族の話もよく出ていた。だから会ったことはなかったけれど、Oさんのところは、お子さんも小さく、しかも4人もいることを私も知っていた。そして、家庭を守る奥さんへの対策(笑)。家に帰ったら奥さんの話をちゃんと聞いてあげることは大事だ、とOさんは言っていた。そんなことも思い出される。しかし、Oさんが突然いなくなることによって、いったい家族はどんな事になってしまっているのだろう。奥さんは確か主婦だったと思うし、本当に心配だ。というか、突然亡くなったOさんはきっと家族のことが心配でしかたがないだろう。途中まで手がけたプロジェクトもたくさんあっただろうに。そんなOさんやご家族の無念を思うと本当にいてもたってもいられない。
死はいつも突然やってくる。しかもすごく理不尽な形で。プールでガシガシ泳ぎながら,普段なら子連れの親子とかを、うっとおしく感じるのだが、それが妙にほほえましく思えた。そして、なんだかいろんなことが納得できなくて、妙に腕をガシガシと動かし、がむしゃらに泳いでしまった。
Oさんが勤めていた代理店を辞めて、芸能事務所に入られてからは、すっかり疎遠になってしまった。最後にお会いしたのはダブリンで。2011年の秋だったから、もうずいぶん会っていなかったんだよね。お忙しそうだからとこちらからは連絡しなかったが、もし飲みに誘っていただけたなら、私はそれを何日も前からずっと楽しみにしていただろう。今ならいったいどんな話をしただろう。それにしても本当にOさんがいなくなってしまったことに納得がいかない。
Oさん、たくさんの優しさをありがとう。なんかの時に別のおじさんから「Oは、野崎さんのことを本当に頼りにしてるからなー」って言われたことがあって,それを聞いて私は何を褒められるよりも、一番嬉しかった。上司にするなら,絶対にOさんだった。Oさんのもとでなら、私も普通のOLをやれたかもしれない。そのくらい包容力のある人だった。そんな素敵なボスを失った部下の人たちは、いったいどういう気持ちでいるんだろうか。
しかし辛い。週末にはお通夜に行く予定なのだが、家族の人に会ったら泣けてしまいそうだ。子供達はやっぱりOさんに似ていたりするのだろうか。一番下の子はたぶん小学校にやっと上がったばかり…とかそのくらいだったと思う。というか、きっとご両親も健在なのではないだろうか。ホントに納得がいかない。
普段はエンヤなんか絶対に聞かないんだけど、これを貼っておく。「Watermark」はいいアルバムで、何度も聞いていた時期があった。週末にやったセント・パトリックス・デイのフェスティバルで、隣りのブースの旅行代理店がしょっちゅうこれをかけていた。
PS あとでfacebookのPhoto albumとか見てたら、最後にOさんに会ったのはダブリンより後だったことが分かった。東京でこの仕事チームのおじさんたちが集まって私の誕生日をやってくれたのだ。あの時が最後だった… あれ,楽しかったなぁ。でもそれもすでに5年前の話。
PPS
お通夜にいったら、お子さんは4人ではなく3人だった。弔問客たちにお礼を言うお子さんたちが健気で泣けた。奥様はとっても素敵な方だった。座ってらした高齢の女性はお母様だったのだろうか…。あまりに盛大なお通夜でOさんの顔も見れず、そのままがっくりと電車に乗ったら、後から行った友人たちが「Oの顔がみれなかったのが悔しいから、俺たちは駅から会場へ引き返すところ」と連絡してきた。なので私も四ッ谷まで戻って来ていたが、引き返しておじさんたちと合流した。もう弔問客はだいぶひけていたので、Oさんの顔をみることが出来た。「Oさん、ありがとう」と口に出して言うのがやっとだった。
人が亡くなったからといって過剰に評価をするのは私は嫌いで、人が亡くなった時によく知りもしないのに追悼合戦するのも嫌いだし、評価が意味もなく高くなるのは、生きて戦いつづけている者に対してフェアじゃないといつも思っている。生きてても亡くなっても、Oさんがすごい人だったことに変わりはない。そして、なんというか、みんなに信頼されて頼りにされて、絶対に死んじゃいけない人がいるだけど、Oさんは間違いなくそんな人だった。だからこの事が、納得できないままでいる。
思い出されるのはレコーディングにいっしょに行ったダブリンで、ハープの子を連れてロケに行った時のこと。撮影に必要な椅子がなかった。ダブリンの街中だったので「この道の裏に取引先あるんで〜」と、当時Moore StreetにあったDolphiinレコードに私たちは駆け込み「なんでもいいから椅子を貸して〜」と言ってスタッフに椅子を借りた。別に勝手知ったる仲だし、全然気を使わなくていい相手なのに、Oさんはそれではお店に申し訳ないからとCDを買ってくれた。どれを買ったらいいか相談されてエディ・リーダーを教えてあげたことを覚えている。その時、ほんとにこの人は頭がよくてスマートでかっこいい人だなぁと思った。そして自分もそんな風にさりげなく気をつかえる人間になりたいなぁ、と思ったものだった。
でもOさんとじっくり何かについて話したりとか、音楽のことや人生のこととか語ったとか、そういう記憶は全然ない。もっと話がしたかったけど… でもきっと話しても私ばかりがベラベラと愚痴りOさんはきっと笑って聞くだけだったかもしれない。Oさんはいつも文句を言ったり愚痴を言ったりするおじさんたちの聞き役だった。そしていつも笑って、適格で冷静なアドバイスをしてあげるような人だった。そして余計なことは絶対に言わない。そんな人でもあった。そこがめちゃくちゃかっこよかった。人間は何かというと自分の存在意義をアピールしたくて、何かを言ったりかっこつけたりするけれど、そういうところがまったくない人だった。でもOさんが男らしくてかっこいいという事は、周りのみんなにもすぐ伝わって,周りにいるみんながOさんのことを頼りにしていた。
2度目にいっしょに行ったアイルランドのコネマラ・ロケで私が「風邪をひいたかもしれない」と車の中で言うと「これ飲んでおきなよ」とさりげなく薬をくれた。結局風邪でもなんでもなかったんだけど、あぁいうさりげない優しさとかって、人は長く覚えているもんだ。
あ、そうそう、レコーディングの間、なんかのトラブルで私のクレジットカードが使えなくなった… いや、違うなカードをホテルの部屋に忘れてきたのかな…もう詳細は忘れちゃったけど。ダブリンのオコンネルストリートにあるホテルのリフトの中での話。まぁ、クレジットカードは複数枚常に持っているし、全然大丈夫だし、もうホントに詳細は覚えていないけど、Oさんはそれをすごく心配してくれた。もちろん全然大丈夫だったのだが、普段仕事であんまり心配してくれる人がいないんで(笑)そんなこともあったなぁ、と今になって妙に思い出される。あの時のリフトの中の空気までも思い出す。
Oさんはアイルランドで体験したパブでのセッションにいたく感動し、あぁいう楽しさを日本にも持ってこれないかなぁ、と私に相談してくれたことがある。いや、ウチらよく公演の打ち上げであれを東京でやって、あちこちの飲食店から追い出されてますから〜(笑) で、よく覚えていないが、一緒に池袋の代理店だかイベント屋さんに、その件で営業に行ったことを記憶している。その日は午前中のミーティングで、なんといっても珍しい事に私とOさん2人だけだったから、お昼いっしょにどうかなぁとなんとなく思っていたのに、Oさんはミーティングが終わると「じゃあ!」とか言ってとっとと事務所に戻られてしまい、がっかりしたのを覚えている。いつものリュックを背中にせおい、行ってしまうOさんの後ろ姿まで覚えている(笑) あの時、Oさんが実現しようとしていた事はなんだったんだろう。言葉が比較的少ない人だったし、代理店の人にありがちな風呂敷は絶対に広げない人だったので、結局じっくり話すチャンスもなかった。そのイベントも結局は実現しなかったけど、本当はもっといっしょに仕事がしたかったなぁ。そのあともダブリンと同じクライアントさんの仕事でストックホルムにも一緒に行ったし、グラスゴーにも行った。 それぞれに楽しい思い出がある。でも何故だかよく覚えているのはダブリンだ。
そんなエピソードがつらつらと思い出される人だ。いっしょに行動していたおじさんたちはみんな仲が良いので、いっしょにいるとお互いの家族の話もよく出ていた。だから会ったことはなかったけれど、Oさんのところは、お子さんも小さく、しかも4人もいることを私も知っていた。そして、家庭を守る奥さんへの対策(笑)。家に帰ったら奥さんの話をちゃんと聞いてあげることは大事だ、とOさんは言っていた。そんなことも思い出される。しかし、Oさんが突然いなくなることによって、いったい家族はどんな事になってしまっているのだろう。奥さんは確か主婦だったと思うし、本当に心配だ。というか、突然亡くなったOさんはきっと家族のことが心配でしかたがないだろう。途中まで手がけたプロジェクトもたくさんあっただろうに。そんなOさんやご家族の無念を思うと本当にいてもたってもいられない。
死はいつも突然やってくる。しかもすごく理不尽な形で。プールでガシガシ泳ぎながら,普段なら子連れの親子とかを、うっとおしく感じるのだが、それが妙にほほえましく思えた。そして、なんだかいろんなことが納得できなくて、妙に腕をガシガシと動かし、がむしゃらに泳いでしまった。
Oさんが勤めていた代理店を辞めて、芸能事務所に入られてからは、すっかり疎遠になってしまった。最後にお会いしたのはダブリンで。2011年の秋だったから、もうずいぶん会っていなかったんだよね。お忙しそうだからとこちらからは連絡しなかったが、もし飲みに誘っていただけたなら、私はそれを何日も前からずっと楽しみにしていただろう。今ならいったいどんな話をしただろう。それにしても本当にOさんがいなくなってしまったことに納得がいかない。
Oさん、たくさんの優しさをありがとう。なんかの時に別のおじさんから「Oは、野崎さんのことを本当に頼りにしてるからなー」って言われたことがあって,それを聞いて私は何を褒められるよりも、一番嬉しかった。上司にするなら,絶対にOさんだった。Oさんのもとでなら、私も普通のOLをやれたかもしれない。そのくらい包容力のある人だった。そんな素敵なボスを失った部下の人たちは、いったいどういう気持ちでいるんだろうか。
しかし辛い。週末にはお通夜に行く予定なのだが、家族の人に会ったら泣けてしまいそうだ。子供達はやっぱりOさんに似ていたりするのだろうか。一番下の子はたぶん小学校にやっと上がったばかり…とかそのくらいだったと思う。というか、きっとご両親も健在なのではないだろうか。ホントに納得がいかない。
普段はエンヤなんか絶対に聞かないんだけど、これを貼っておく。「Watermark」はいいアルバムで、何度も聞いていた時期があった。週末にやったセント・パトリックス・デイのフェスティバルで、隣りのブースの旅行代理店がしょっちゅうこれをかけていた。
PS あとでfacebookのPhoto albumとか見てたら、最後にOさんに会ったのはダブリンより後だったことが分かった。東京でこの仕事チームのおじさんたちが集まって私の誕生日をやってくれたのだ。あの時が最後だった… あれ,楽しかったなぁ。でもそれもすでに5年前の話。
PPS
お通夜にいったら、お子さんは4人ではなく3人だった。弔問客たちにお礼を言うお子さんたちが健気で泣けた。奥様はとっても素敵な方だった。座ってらした高齢の女性はお母様だったのだろうか…。あまりに盛大なお通夜でOさんの顔も見れず、そのままがっくりと電車に乗ったら、後から行った友人たちが「Oの顔がみれなかったのが悔しいから、俺たちは駅から会場へ引き返すところ」と連絡してきた。なので私も四ッ谷まで戻って来ていたが、引き返しておじさんたちと合流した。もう弔問客はだいぶひけていたので、Oさんの顔をみることが出来た。「Oさん、ありがとう」と口に出して言うのがやっとだった。