パディ・モローニ(チーフタンズ)おおいに語る!(前半)

さて本日はプロモーションで来日のパディ・モローニのトーク・ショウがありました。簡単ですが、レポートしたいと思います。いや〜、面白かった! で、すみません、私がお話を聞いてメモったものをベースにしているので(録音はしてませんでした)、間違い、誤解、聞き違え等あったら、申し訳ございません。何かございましたら、ご指摘ください。


日本は暑いけど、アイルランドは20度前後で快適。花もたくさん咲いて緑が綺麗で良い夏だよ、とパディ。でも日本食が大好き。日本のお寿司とか。アイルランドでも日本酒をよく買うのだそうです。アイルランドではなぜか日本酒は中華料理屋で出されることが多いそう。和やかな雰囲気の中、トーク・ショウが始まりました。司会は天辰保文さん、プランクトン代表川島恵子さん、通訳は丸山京子さんです。

まずはこの偉大なるバンドのスタートの頃の話から。パディによると1962年のファースト・アルバム・リリースの5年くらい前からバンドの構想はあった。ショーン・ポッツとデュオで演奏したり、マイケル・タブリディらと演奏したり、ケイリー・バンドをやろうとか… ウクレレでスキッフルを遊びで演奏したりもしていたんだ(Three Squareというバンド名だったそう)。当時は普通の人が伝統音楽にまったく興味を示さなかった時代。フィドルを持って歩いているだけで「タラリタラリラ〜(伝統音楽のメロディ)がいるぞー」と友人たちから、からかわれた。今はまったく状況が変わってしまい、そういうからかっていた連中から「コンサートのチケットはない?」と頼まれたりしてるんだ(笑)

チーフタンズは最初の10年はプロではなく「セミ・プロ」。パディも最初は会計士として働いていたし、のちにギネスの末裔でもある友人が資金を提供してくれてクラダーレコードを設立。そこで働くようになった。チーフタンズのサウンドとパーソナリティに対する構想はバンド結成時にはっきりしていた。

チーフタンズのファーストの1曲目はこの曲でした。(映像はバンドの21周年の時のもの)



6歳の時にティン・ホイッスルを最初に手にして、最初は持ち方を間違えてそのまま演奏していたんだけど、若いうちにそれに気づいて矯正したから、今はちゃんと演奏している。この楽器はいい。実は僕は大学から名誉博士号を3つもっているのだけど、この前そのうちの1つのアメリカン・カレッジから卒業式の祝辞を頼まれたんだ。でも話をするのもなんだからってんで、これを演奏したんだ。そしたら曲の最後でみんなが帽子をほおりなげて、すごく盛り上がった。先生たちもこんなに盛り上がったのは始めてだ、とすごく喜んでくれたよ。

天辰さんより「チーフタンズの音楽は多様性を訴えて行く。ヒョイというかんじで、生活の中の延長から軽やかにすべてを超えて行く。過去/現在/未来も。今、この時代、音楽をとりまく状況は厳しいし、また共存が難しい時代において、この音楽には人間の根本的な知恵みたいなものがすごく感じられますね」

ティンホイッスルは国境を超えて行くのだ、名刺代わり。でも名刺よりずっといい。トランプ…あっ、言っちゃった?!(と笑いを取る)もこれを持てばいいんだよ。僕は歴史の専門家じゃないけど、アイルランドは古代、クランのチーフが集まって、みんなハッピーに政治が機能していた時代があったんだ。(古代アイルランドのブレホン法)音楽は自分のミッションだし、55年続いたし、あと100年続けたいと思っている。たくさんやりたいことがあるから。権力者がソングブックとティン・ホイッスルを持てば、ずっと良い世の中になるだろうと思うよ。

自分たちにとって音楽は招待状のような存在。30年前に始めて日本に来てから、日本人と毎回共演している。今回のツアーでも矢野顕子さん、ハンバートハンバート、林英哲さんらと共演する。「ロング・ブラック・ベイル」では、コーラスをいれる予定だし、パイプバンドとマーチも演奏するんだ。

…と話がどうしても脱線というか先に行きがちなパディですが、ここで天辰さんに「バンドの70年代に入ってからのターニング・ポイントについて」ということで質問が入ります。

75年まではみんなメンバーが音楽以外に別の仕事を持っていた。パディはクラダー・レコードで41枚アルバムをつくったそうです。そういえば、チーフタンズのバンド名の由来である詩人のジョン・モンテギューは昨年の12月に亡くなったので(彼が書いた「Death of a chieftain」がバンド名の由来)、朗読のCDを作ったんだ。娘もこの前ジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」に出て来るモリー・ブルームの朗読をして、僕が音楽を担当した… あれ、質問忘れちゃった(笑)

そうそう、70年代(笑)75年に僕はクラダーをやめて、フランスのMIDEMという音楽見本市に行ったんだ。そこでアイルランド音楽にこんなに関心が集まっているんだとびっくりしたね。そこで他のメンバーを説得して… 例えば年金のこととか、音楽の仕事が上手くいかなかった時にはまた前職に戻れるか…とか、いろんなことも僕がボスたちにかけあったりしてメンバーを説得した。ロイヤル・アルバート・ホールで演奏した時は、3週間でチケットを売り切った。当時のチーフタンズはインストメンタルの音楽だけ。歌も踊りも一切なし。照明やスモークのような演出もいっさいなかった。でも最後には6,000人のお客が踊って盛り上げてくれた。

そしてロックの世界からの興味というのもあった。ポール・マッカートニーとか。ジョン・ピールという有名なDJが僕らの音楽をストーンズとビートルズなどと並列にかけてくれたこともあった。そして映画「バリー・リンドン」の事もある。スタンリー・キューブリックが僕らの音楽を使ってくれたのも大きかった。「愛のテーマ」ではオスカーも取った。

とここでまた1曲。Women of Ireland



ところでこのティン・ホイッスルは宇宙にも行ったんだよ。宇宙でもこの曲は演奏された(笑)

1974年にデレクが入ったことも大きかった。デレクはハープ以外にもオーボエも演奏したし、コンサート・ピアニストでもあった。ティンパンというダルシマのような楽器も演奏した。デレクが加入したことによって、自分が考えていた音楽が1つの完璧な円になって完成したような気がしたんだ。

75年はバンドにとっては本当に大きな年でTIMEに載せてもらったり、通常の伝統音楽のバンドが出来なかったような評価を受けるようになった。僕らにはマネージャーがいたけど,僕がマネージャーをマネージしてたんだ(私にはこの発言がもう大浮け! パディらしい。I managed the manager)そして僕らはいろんなところをツアーするようになった。アメリカ、イギリス、フランス… いろんなところへ行き、音楽のコンビネーション、融合を実現してきた。1976年のアート・ガーファンクルは、当初2日間で録音の予定だったのに、最終的には2週間も一緒にレコーディングをした。

80年代は文化交流ということで、中国などにも行くようになった。文化交流、新しい音楽を作りだした。83年のこれはとても大きな冒険で、チーフタンズは万里の長城で演奏した最初の音楽グループだったんだ。共演を実現させるにあたって地元の曲、アイルランド曲をそれぞれ選んだ。楽しかったな…

日本で一緒に演奏した林英哲さんとは、一緒にツアーをしたいのだけど、太鼓が大きすぎて飛行機に乗らないのであきらめた。日本で彼とやる予定にしているのはO'Neil's March。英哲は即興の部分も素晴らしい。実は孫のフィオン(6歳)のために新曲を書いた、ナッシュビルの交響楽団とやったんだけど、パーカッションを活かした曲なので、ぜひ英哲と演奏してみたいと思っている。あ、これ、まだ本人と相談してないのに言っちゃった(爆)

日本のミュージシャンとの共演は非常にやりやすい。メロディとか、アイルランドの音楽と共通するものがあるんだんと思う。

あと日本ではお客さんが若いね。そうそう、日本にはチーフタンズのファンクラブがあって、そこのメンバーで結成された女性の演奏家のグループ「レディ・チーフタンズ」がいるんだ。


後半に続く

チーフタンズ来日公演は
11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール 
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール
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