死ぬのは怖いことなのか…

あいかわらず「若草物語」見て泣いてるんですが、このベスのシーンいいですよね。「I am not afraid...(怖くはないの)」

ベスは自分の命があまり長くないことを知っていた。「私がいなくなっても書いてね」「分かるの。汐の満ち引きみたいに、(私の死は)止められるものではないの」とベスはジョーに言う。ジョーはきっぱりと「なんとか止めてみせる」「前にも止めたし」と強く言いかえすが、ベスからそう言われて、とても動揺しているのが見てとれる。この辺のジョー役のシアーシャの表情も最高だ。ベス役の彼女はめだたない感じだけど、何度も見返していると彼女の存在もすごく大きくなってきた。本当に素敵な映画である。この映画のすべてが好きだ。

先日、角幡唯介さんの新刊を読んでいたら角幡さんが「自分は長生きをしたいタイプの人間なので」と言ったのをちょっと意外に思った。ちなみに私は常日頃から「楽しくないんだったら生きていても意味はない。短くて楽しい人生の方がいい」と思っている方の人間だから。角幡さんも同じタイプかなと思ってたんだけど、違ったね。というか、やっぱりお子さんがいるとそういう考えになるのかな?

この考え方はずいぶん昔から変わりはしない。ベスと同じ、死ぬのは、おそらく怖くない。それより怖いのは自分が何も楽しいことができなくなったのに、だらだら生きてしまうということの方だ。幸せなことに(いや、不幸せなことなのかもしれないが)「お金と暇があれば誰でもできること」は絶対に楽しいと思えない面倒くさい考えの自分がいて、高いバックを買ってもあまり幸せになれない、ファーストクラスに乗ったとしてもおそらくその喜びは3時間以上続かない。複雑でへそ曲がりな自分を私は持て余しているのだ。この自分自身を楽しませるという面倒くさい作業を死ぬ瞬間までしないといけない。これは苦痛以外の何ものでもない。

かっこよく聞こえるかもだけど、これはこれで危険な思想だよね。というのは、ともすれば、そういう考え方は「ちょっと見では地味な人生を送っている人」「病気の人」「お金と暇があれば誰でもできることしかしない人」に対する、私が持つ偏見が隠れていると言えなくもなく、そう思う自分自身に自分でぎょっとしてしまうこともある。

そしてこの方向性があまり行きすぎると、それこそ中村とうようさん(面識なし)みたいなことになりかねないので、あれはあれで友達全員を裏切るひどい行為だったと思ったりするのだが、同時にあぁいう結末の付け方をかっこいいと思わない自分もいなくもない。怖いことだ。でも確かにあぁなったらおしまいだと思う自分も同時に存在している。

難しい。

いずれにしても事故で亡くなるのだけは避けたいなぁとは思う。自分で死ぬ前にあれこれ準備したりしたいから。それを思うと早めに病気で死ぬのが一番自分では向いているのだがなぁ。

最近、友達が二人亡くなった。二人とも命をなくすには若すぎで、もっとも私よりは年が上だったけど本当に残念だ。一人は闘病生活も長く辛そうだったから、今は楽になっていると思う。もう一人は病気だたっけど回復に向かっており、今回も無事に退院してくるものだと誰もが信じていた。彼については、おそらく本人も予期してなかった死で事故に近い。fbが好きな人だったので、「俺、死んじゃったよー」と自分で書き込めなくて悔しい思いをしているに違いないと思う。二人に共通して言えることは、おそらく膨大な仕事の資料の山が残さされているに違いないことだった。遺族の皆さん大変そうで、それを思うと本当に自分のCDや資料もなんとかしないとなぁ、と思う自分がいるのであった。

ジョブズじゃないけど、No one wants to die. Even people who wants to go to heaven don't wanto to die to get there「誰も死にたいと思っていない。天国に行きたいと願う人たちでさえ、死を回避したいと思っているほどだ」

「メメント・モリ!」(死を思え!)

私も間違いなく死に近いところまで行ったとは思う。が、あまりその自覚がない。ブログに書かなかったおかげで、今やそのことをほとんど覚えていない。いや、ブログに書いていないことこそ一種の鬱状態だったことの証明かもしれない。でも、検査や手術、入院でTo Doリストにチェックしている間に、あれこれが終わったという感覚だ。

もっとも全身麻酔8時間の大手術(しかもかなりの難易度)の時は、さすがの私も入院前に「残った仕事をどうするか」を書いてプリントアウトして机の上に置いておいた。主治医(女性)から「怖いですか?」と聞かれた時「そうか、医者でも患者のその部分は想像するしかないんだ」と思ったのと、「怖い」という感覚は…認めたくなかったからもだけど、違和感があった。そりゃ怖くなくはないけれど、それよりも今あるTo Doリストが膨大すぎる。

遺書らしきメモには、私が目覚めなかったら、こうしておいてください、というのを書いておいた。今、ブッキングしているツアーはこれとこれで、発表してないけどアーティスト押さえているのはこれ、会場もここは押さえてありますよ、でもこれはH恵ちゃんに見てもらえれば分かるから等々(笑)。各アーティストにはfb経由か何かで出来る後輩のAkiko(日本語も英語も堪能)に頼んで連絡してもらおう、とか。アイルランド関係の資料やCDはプランクトンさんに見てもらって、必要ないものはアイリッシュ パブにでも寄付してください等々。

これらの行動を「死を受けてとめている」と言うのだろうか。わからない。でもやるべきことは常に山のようだった。だからそれをこなしていたら終わった…としか説明のしようがない。もちろん5年たつまでは病気の再発の危険はある。加えて明日、事故で家の前で死なないとも限らない。

そういえば、手術の前には想定される医療事故の説明があったのと、私の切断する部位はとても複雑で、一歩間違えば胃液でお腹の中はぐっちゃぐちゃ、もしくはリンパ破裂で大出血という大変な場所なのであった。でも手術中の出血大惨事は、某有名外科医の秘書をやっている友人から話をきいていたし、それがあったとしてもプロフェッショナルな皆さんが対応してくれるわけだから、自分が心配したところで状況は変わらない。というか、自分は麻酔で意識がないから、痛くもかゆくもないから、それこそ楽に死ねることは間違いない。

加えてMRIにもCTにも映らない私の悪性腫瘍は、開いてみたら「あ、こりゃダメだ」とその場でまた継ぎあわせるという結果にもなりかねない。そう言う最悪シナリオの説明もしっかりきいていた。とはいえ、あれこれの数値はそれほど深刻ではなかった。だからこれらの警告が「念のためお伝えしておきます」的なものであることは理解できた。が、そういう可能性が多少あったとして…だからといって何が自分にできるだろう。自分にできることは集中治療室に持ち込むパンツや寝巻きにマジックで名前を書いたりすることくらいだった。

でも想像するに私の人生、たぶんTo Doリストをいつまでも抱え、そのまま死んでいくのだろう。一人でシンプルに暮らしているはずなのに、なぜかとても忙しい。なんでなんだろうなぁ。あ、そうか、ブログ書いているからか…(爆)

とにかくいつ死んでもいいように、後悔のないようにとは思う。私の友だちよ、私がいつ死んだとしても「のざきは好きなことしかやらないで生きてきて、相当幸せだった」と思っておいてよ。病気だっとしても、事故だったとしても、私の人生すべてを死因を理由に判断しないでくおくれよ。これだけのことをしてきたのだから。

To Doリストを常にかかえながら。そういえば忙しい人で不幸そうに見える人はあまりいないよな… それって一つの幸せに暮らすためのkeyかもしれない。