友達に会う

エストニアであった性格の悪い猫

昨日、一昨日と久しぶりに旧知をあたためる…みたいなことがあって、やっとコロナ後の日常が戻ってきた感じがある。

コロナがあり、その前は自分が病気していたり…と、友達と頻繁に会えていなかった。コロナが始まったころは、自分の体調がまだまだ本調子じゃなかったし…

最初はそれが気楽でいいやと思っていたけど、ここまで長引くと本当にみんなに会いたくなった。会ったらあったで、そこに新しい展開はあれど、それは大きく価値観が変わる何かでもない。結局また前回と同じような近況話をして別れる。

大人になってもわたしたちはみんな迷いっぱなしだ。でも、いろんなことを近くにいる人に話して、なんとなく自分の今の立ち位置を確認して、日々をやりすごしているにすぎない。

生きることは不快にたえてやりすごす、時間のつながりにほかならない。(by 角幡唯介)

1を言えば10わかってもらえるこの感覚。久しぶりにたくさん愚痴を聞いてもらい、「そういうもんだよー」とバッサリ切っていただくと、こちらの心は妙にスッキリ。何をどう解決したわけではないのだが、なんかスッキリして、また頑張れるのかなと思う。

こういう会話と、美味しいものを食べ、時々は自分で料理をし、銭湯&サウナに行けて土手を走れれば、もう何もいらないや。

友達って頻繁にあわなくてもいいのかな、と思ったりもする。普段は適度にほおっておいてくれる。困った時は助けてくれる。コロナであってもなくても、頻繁に会う必要はもしかしたらないのかもしれない。

でもたまに会って、お互いの立ち位置を確認して、話をして別れて、またそれぞれの現場で頑張る。 次に会う時は、こんな話を聞いてもらおう…そんなふうに思いながら日常をがんばる。それだけでいいのかなとか。

もちろん一緒にいる時間の長さは最大のファクターだ。特に親子関係なんか、そうだと思う。是枝監督の『そして父になる』で、リリー・フランキー演じる父親が福山雅治に「子供は時間だよ、時間」と説教をたれるシーンがあるが、あれには本当に同意する。

でも大人になればわかる。何も一緒に多くの時間を費やしている人が、自分のことを一番考えてくれるているのではないということを。

普段会わない人、交流がない人が、驚くほど自分のことを思ってくれていることに気づいたりして、はっとする。

友達が少ないと嘆く人って、どういう感じなのかな。私も友達と呼べる人は多くないし、音楽業界みたいなところにいるから「うわっつら」だけの知り合いがとても多い…のかもしれないが。

でもわざわざ言葉で「わたしたち友達だよね」と確認するものでもないし。

頻繁に会っているのにまるで近くなれない人もいる。一方で、たまにしか会わないのにものすごく近く感じる人も。

友情は与えた方が損をするのか? そんなことはないと思う。そもそもその人を思うことは無料(ただ)なんだし。自分の持っている、減ると困る何か(例えばお金とか)が搾取されているのなら話は違うと思うが、友情や愛情みたいなもんはいくらでも持つことができるんだし。

ポールに会いたいよなぁ。ここんとこぼんやりポールのことをよく考える。

というわけで、ぼんやりとしつつもコロナで使うあてのなかったマイレージで航空券の予約をポチり。でもWaitingだから、本当に行けるかはわからない。しかも燃料費だけで、10万円Over。高いよなぁ。

でも、行けたとしても、今回も本人には黙っていくんだ。そしてびっくりさせてやるんだ。ポールは、私を遠くから見つけびっくりしてくれるだろう。「What!  What!  What!」って叫んで、私にかけよって、抱きしめてくれるだろう。あのいつものリアクションがとても好きだ。

今日も1日頑張りましょう。