トレイラーはドラマチックに作ってあるが、実は音楽もなく実に淡々とした映画だ。淡々ではなく劇的に、ドラマチックに作ってあるなら、まだ救われるような気もする。が、実際のこの映画は、本当に淡々としており寒寒としてもいる。ひたすら会議。ただそれだけ。
エンディングも「えっ」って感じであっさり終わってしまい、呆然と観てる人たちはそこに取り残される。普段、一人で映画を見るのだが、この時ほど誰かと観にくればよかったと思わなかったことはない。
ほとんどのシーンが会議室の中だ。時々休憩があって外の空気を吸う。でも空気を吸ったところで誰も正気を取り戻さない。
そして淡々と…いかに合理的に人を大量に殺すか…ということが会議で決められていく。
不思議なもので、こんな会議の中にいると「えっ、それおかしいでしょ」「人間じゃないでしょ」みたいなことが、どんどん進み、自分も途中から何も考えずに決められていくことを、ひたすら流してしまう状況にびっくりする。
下手すれば、「すごい」「それは合理的な良いアイディアだ」と彼らのように机をどんどん叩いてみたくなる(拍手ではなく会議ではこういうものらしい)。
このあと、何が起こったか。それが世界からのちにどう評価されるのか、それを後の世界に生きる私たちは、この会議に参加しながらも、ふと正気に戻れるのだが、この会議のまっただ中にいたら、自分の正気をたもてるのか、果たして私は自信がない。
サラリーマン時代、会社の意味もない会議が本当にいやだった。おじさんたちは会議ともなれば、上司や社長のために資料を準備して臨む。そして会議が終わると、そのあとは何も起こらない。会議で決めたことを責任持って行動に移す人は誰もいない。
あれは最悪の会社だったな。辞めて本当に良かった。でもそれとおんなじだ。この屠殺会議も。
唯一、秘書、議事録係のお茶汲みで座っている女性だけが、ホッとする存在ではある。が、もちろん彼女がなんら行動を起こすわけでもない。
ひたすら「何も知らない」という建前のもと、彼女もこの気が触れたとしか思えない作戦に、私は関係ないよといった様子で加担していく。そう、加担していく。
私もそうだった。音も聞かずに「こんなの売れない」と判断する会社。それに何も思わなかった。自分も音すら聞かないまま、プロモーションしているのが日常茶飯事だった。
売れないのは「宣伝が宣伝しないからだ」と宣伝部隊はいつもいじめられていた。営業は「こんなもの勝手に出しやがって」と思い、制作は「お前らがCD屋に置かないから売れねぇんだろ」と誰もがみんな自分の責任を棚にあげて憤っていた。
私はだいたいは黙って座っていたけれど、それは悪事に加担していたのと同じだったのかもしれない。もしかしたら「アーティストを大切にできない、お前ら全部やめちまえ」と会議で叫んだ方が良かったのかもしれない。
この映画は、実際の議事録を再現したもので、脚本に技もへったくれもないが、それが返って怖い。俳優陣が素晴らしいせいか、とにかくリアルである。
ちょうど80年前こんなことが起こっていた。そして本当にこの会議で決められたように淡々と作業は行われたくさんのユダヤ人たちがガス室へと送られた。人間のやることとは思えない。
(続く) pic.twitter.com/CAvD8JMESO
— 海江田万里(事務所) (@banrikaieda) January 25, 2023