話題の書『親愛なるレニー』の著者、吉原真里さんを迎えての回はいよいよ明日4月16日(日)朝4時半TOKYO FMで放送。radikoなら1週間後までオンデマンドで。
— 田中美登里 (@midoritanaka) April 15, 2023
バーンスタインの伝記を書いたひのまどかさんの回も
まだ聴ける。 https://t.co/UE4y7dGrXL pic.twitter.com/IntIhZKU3o
さていつもの田中美登里さんの番組。今回も本当に内容が素晴らしかったので、文字起こししちゃいました。なおこれはあくまで野崎が聞き取って書いたものですので、何か誤解や理解が至らない部分もあるかもしれません。文責のざきでお願いいたします。
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(🎵Tonightにのせて)
田中美登里さん(以下、田):トランスワールド・ミュージック・ウェイズの時間になりました。田中美登里です。ご存じのとおり『ウェスト・サイド・ストーリー』から「Tonight」です。
先週に続いて、アメリカが生んだ20世紀の巨匠レナード・バーンスタインを特集します。 先週はバーンスタインの伝記を書かれたひのまどかさんとお送りしたのですけど、 今週は『親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』という本を書かれた方をお迎えしました。レニーはバーンスタインの愛称ですね。
アルテス・パブリッシングから出ている本です。ハワイ大学アメリカ研究学部教授 吉原真理さんです。はじめまして。ようこそ、いらっしゃいました。
吉原真里さん(以下、吉):はじめまして、よろしくお願いします。
田:よろしくお願いいたします。あのメガネがね(笑)、まんまるの…映像で見たときは黒かと思ってたんですけど…
吉:赤とか紫とかが入った、おちゃめな色です。
田:学者さんと言われて、ちょっとびっくりする方もいらっしゃるかもしれないんですけれど、ご専門はアメリカ文化史、アメリカ・アジア関係史、ジェンダー研究などということで、普段はハワイにいらっしゃります。今日は一時帰国中のお忙しい中、時間をさいて半蔵門にお越しいただきました。ありがとうございます。
そしてミュージックペンクラブ音楽賞というのがあるんですけれども、2022年度のクラシック研究評論出版部門の賞を受賞されました。(拍手)
吉:大変光栄です。
田:「間違いない」っていう感じの受賞だったと聞いていますよ。本当にこれで更にいろんな方から注目されればいいなと思ってます。
この御本なんですけど、表紙がピアノに向かって作曲をしているバーンスタインの後ろ姿。そこに鳩が二羽、お手紙を運んでいるという…ちょっとロマンチックな、優しい色の御本なんですよね。 だから研究書っていうイメージとはだいぶ違う気がします。
吉:そうですね。研究に基づいてたくさんの資料を調べて、自分なりに分析をして紡いだ物語ではありますが、研究者、あるいはクラシックのコアなファン以外に、たくさんの読者に読んでいただけるような本づくりを、文章でも、そしてこの体裁でも心がけました。
田:なるほどね。執筆の始まりというのは、ある手紙との出会いだったそうですね。
吉:そうなんです。私はある研究プロジェクトのために、2013年の夏にアメリカのワシントンにある議会図書館で調べ物をしていました。
そこには、レナード・バーンスタイン・コレクションという資料がありまして。本当に膨大な資料が保存されているところなんですけれども、そこである具体的なものを調べるために、私はリサーチに行ったんですね。
その時に思いがけず二人の日本人からバーンスタインにあてた個人書簡を目にしたんです。それがきっかけで元の目的だった研究は横に置いてしまい全面的に方向転換をすることになって…。それから約10年後、この本が生まれた…という。
田:なるほどね。その手紙を書かれたお二人というのは… 天野和子さんという女性。もう一人は橋本邦彦さんという男性ですね。
吉:そうです。
田:クラシック界の方では、橋本 國彦という作曲家の名前と思う方もいるかもしれませんが…
吉:はい。同姓同名です。
田:この橋本邦彦さんの「くに」は邦楽の「邦」という字ですね。この橋本さんの手紙なんですけれども、まあ内容的にも恋、恋、恋という…という手紙ですよね。このお二人というのはいったどういう方なんでしょう?
吉:はい、まず和子さんですけれども、和子さんの手紙は約50、60通くらい。 一番最初の手紙を書いた頃は、和子さんは上野和子さんという名前でした。そのうちに結婚して天野和子さんという名前になります。
1929年に名古屋で生まれて、お父様の仕事の関係で子供時代はパリで過ごされ、パリ音楽院でピアノを勉強されました。それでヨーロッパで戦況が悪化すると一家は日本に帰国して和子さんは戦争の時期を日本で過ごすんです。
その後、敗戦後2年ですね…1947年に図書館で英文の音楽雑誌を読んでいる時に、あるエッセイに非常に感銘を受けます。和子さん、その時18歳。
このエッセイを書いた人は、いずれものすごく立派な芸術家になるに違いないと確信した和子さんはそのエッセイを書いたレナード・バーンスタインにファンレターを書くと決意をします。
住所がわからないので、雑誌社宛に丁寧なファンレターを書き、一年ぐらい経ってから思いかけずバーンスタインからお返事をもらうんです。
田:すごいですね。
吉:そこからとても特別な友情というか、文通による和子さんとバーンスタインの間のとても貴重な関係が育まれて行き、その後、知子さんは結婚されて天野という姓になり、二人のお子さんを授かり、長いこと旦那様の転勤でいろんなところ転々としながら家庭生活を営んで行きます。
やがて旦那さんが他界されてしまい、そしてキャリアウーマンにご本人が転身すると、いろんな、こう、人生の段階を経るんですけれども…
それぞれの時期においてバーンスタインへの愛、バーンスタインの音楽への尊敬とか愛情を自分のとても大切な一部として和子さん自身も成長なさり、人生を生き、そして和子さんもバーンスタインにとって、とても大切なファンであり、友人になっていくわけなんですね。
田:最初は船便で送るんですよねぇ。最初にバーンスタインと和子さんが会ったのは初来日の時ですか?
吉:そうです。1961年にバーンスタインが初来日しているので、それまでの10数年にわたり文通でやり取りをしてたんですね。
田:だから最初に会った時から、ものすごく気持ちが通じているんですね。
吉:すでに何度も何度も手紙を交換していますし、その1961年の時、天野さんは二人の小さなお子様がいらっしゃったんですが、もちろんもうずっと胸にバーンスタインのことを思って、大切に大切にレコードやラジオでバーンスタインの音楽に親しんできたんです。
そういう和子さんですから、いよいよバーンスタインに会えるということで、忙しい中、特別なプレゼントを用意しました。
自分で和紙でできた五線譜のノートに日本のわらべ歌を写し書き、ローマ字で歌詞を書いて自分で英訳して音符を書いて、ものすごく時間をかけて手間暇かかる手作りのプレゼントを用意してバーンスタインにあげたりとか。
そして子供も連れて旦那様も一緒にコンサートに出かけていくわけなんですけれども、バーンスタインも子供好きなので、二人のお子さんもすっかりレニーおじさんを気に入ってしまって…。それ以来もう本当に家族ぐるみの付き合いが始まるんです。
田:あぁ、バーンスタインの子供との交流のシーンとか、本当に愛に溢れていそうですよね。そして、もう一方の橋本邦彦さん。この方は、どうやってバーンスタインと出会ったんですか?
吉:はい、橋本さんがバーンスタインと会ったのは、和子さんよりだいぶ後のことで、1979年にバーンスタインが同じくニューヨーク・フィルを率いて日本にやってきたツアーの最後の日にバーンスタインに出会い、熱烈な恋に落ちてしまうんですね。
田:なんか一目会ったその日からっていう…
吉:そうですね、本当に。そしてその夜をバーンスタインと共に過ごし、翌日バーンスタインを空港に見送り、そして自宅に戻ってきて、第一通目の手紙をバーンスタイン書くんです。 それが本当に熱いラブレター。それを始めとして、橋本さんはバーンスタインに350通以上のはいせつとした情熱的なラブレターを送り続けるんです。
田:そっか、バーンスタインは90年に亡くなったから…初めて会ってから…というと10年ちょっとぐらいですけど、最初のうちにもう毎日のように書いたんですね。
吉:そうなんです。特に最初の方はもう日記をつけるように、もう押さえきれない気持ちをもうせつせつと綴って送り続けるんですね。最初の方は、それこそ熱烈な情熱的な手紙で、読んでるこっちが胸が苦しくなるような手紙なんです。
でもしばらくすると橋本さんのバーンスタインへの愛は、だんだん形を変えていくんですね。その後、単なる恋愛感情とか、性的な欲求というだけではなく、偉大なアーティスト、偉大な魂…という言葉を橋本さん自身が使ってるんですが…そうした偉大な存在への畏怖の念とか、敬愛の念、崇拝の念みたいなものに昇華していくんです。
そして、そうした自分が偉大な魂だと思うものに、どんな形でもいいから、自分が役に立ちたい、奉仕したいと言った気持ちに昇華していく。
そしてそれがやがて実現するんです。橋本さんは、そのバーンスタインに具体的な形で仕えることになったんですね。そして仕事上アーティストとしてのバーンスタインの役に立てる日がくるわけなんです。
田:橋本さんは出会った時はまだ20代半ばで損保会社の社員だったんですけれども、その後、舞台芸術の道に進まれて、俳優としても活躍されたそうですね。
吉:そうなんです。橋本さん、元々サラリーマン時代からとても芸術に造詣が深く、演劇や音楽に携わっていたんですが、バーンスタインの愛に支えられるような形で自らの舞台芸術の世界に入り、一時期は劇団四季に在団されたこともあるんですね。
その後、橋本さんはバーンタインの日本レップの役を任されて日本でのバーンスタインの仕事の右腕的な存在になるほどだったんですね。
田:アンバーソンっていう最初のバーンスタインのビジネスの拠点を作って、そこの日本代表になったんですね。
あの実は私、この『親愛なるレニー』という本を一回目に読んだ時は、まぁ、感動ノンフィクションというふうに帯にありますけれども、最初恋愛小説のように読んでしまったんですよ。あの手紙の行間へのね、吉原さんがすごく豊かなイマジネーションで、こういう風に書いてるってことは、いったいどういう気持ちで書いたのか、またそれをあのバーンスタインがこういう風に受け取っただろうとか、そういうあたりが本当に恋愛小説みたいな感じで。
でももう一回読み直してみると戦後、日本がクラシック音楽とかバーンスタインの活動をどうやって受け入れてきたかっていうこととか、戦後いろいろメディアがあのどんどん進んで、音楽の聴き方もみんな変わっていくわけだけど、そういうことがなんかお手紙ということと、縦横の糸になってるみたいな…。
これは本当にすごい。何度も読みたくなる感じなんですよね。
吉:ありがとうございます。
田:この本は最初に2019年に英語で出版されているんですよね。
吉:はい、そうなんです。
田:そして数年経って日本語版出版にあたっては、より広く読まれるようにと先ほどおっしゃってましたけど、より広く読まれるためにどういったところを変えていったんでしょうか?
吉:そうですね。あの英語版でも研究書ではあるんですけれども、なるべく多くの、学者だけでなく一般読者になるべく読まれるように心がけました。具体的にどういうことかというと、いま恋愛小説のようだとおっしゃっていただきましたが、その物語性ですね。
普通の研究書と比べると、その物語性を強く押し出している構成になっています。英語の原書でもそうなんですが、 日本語出版にあたってはそれを更にもうちょっと、そして要素を強めて
特に日本の読者にとっては、この日本語版のサブタイトル「レナードバーンスタインと戦後日本の物語」というサブタイトルにしたんですけれども、まさに多くの読者が自ら生きた日本、世界、時代を描いているので、一般の読者の人たちが自らを振り返るというか、自らを見出すようなrelevance(関連性)を感じられるような場面描写だとか、物語の展開にするように心がけました。
田:なるほど。 音楽書とも言えるし、もっとなんか広い意味での戦後の日本の歴史っていうか、音楽をテーマとした歴史ということですね。
吉:なので、バーンスタインのことをぜんぜん知らない人でも、読んで面白いじゃないかなと思います。
とにかくお二人の手紙を発見した時に思ったのは、 お手紙自体がものすごく本当に感動的なので、それを中心に人間ドラマというか、それこそ、小説のような物語を書くことはできたはずなんですが、それは別に私じゃなくても、例えばその二人の手紙に出会った他のかたがそれを目にすることになっても、そういう人間ドラマは私以上に感動的な物語を書くことはできたと思うんです。
でも、たまたまこの手紙を目にしたのが、私だからには、アメリカ研究という分用専門にしている私だからこそ書ける本にしようと思って…。
あの先ほど美登里さんがおっしゃってくださったように、その二人の人間物語を日米関係だとか、音楽産業の変遷だとか、国家と芸術の関係だとかっていう文脈に位置づけて、その縦横の糸を織りなすような本にしようと思いました。
田:うん、うん。でも、この手紙っていうのは秘め事であるっていう…。基本的には手紙というプライベートなものを書籍化するってのは、やっぱり書いた本人との関係とかもすごくご苦労されたと思うんですよね。
吉:そうですね。和子さんの手紙は図書館に行けば基本的に誰でも閲覧できるようになってるんですね。で、もちろん本で使用するにあたっては、ご本人の著作権の問題もありますし、ご本人の許可が必要なので、和子さんがご存命中であるということが分かり、訪ねて行って。
和子さんには、もう最初の段階から、レニーが亡くなってから何年もたつわけですけれど、今でもレニーのために私ができるなら喜んで!と、全面的にサポートしていただきました。
で、橋本さんに関してはこれ、ちょっとネタバレになってしまうのですが、実は橋本さんの350通以上のラブレターは橋本さんがお亡くなりになるまでは一般には公開されない。その図書館でもほかの人を閲覧しないと言うはずだったんですね。
そういう条件で、あの図書館に保管されていたんですけれども、ちょっと図書館の手違いで、私がそれを目にすることになってしまったんです。
なので、もちろんなにせラブレターですから! 熱い熱いラブレターですから、もともとバーンスタイン以外の人の目に触れるはずのものではなかったわけですし、そういう条件で図書館に保管されていたわけなので、その扱いにはとても気を使いました。
ここからの話が長いんですが、なるべく短く説明すると橋本さんには、まずどういう風にこの手紙を私が目にすることになったかということを説明して、決してこうスキャンダラスな暴露本みたいなものを書こうとしているわけではない。
こういうわけで、その感動的な二人の物語を、こういった文脈の中でその意義を語りたいと思うというような主旨を説明したメールをお送りし、とりあえずは、このプロジェクトに取り込むことをまず許可していただけないだろうかとお願いしました。
その後、私は約3年間にわたっていろんなほかの資料を調べて、一通りの原稿を書き、その原稿を橋本さんに見ていただきながら、お住まいのシドニーに訪ねていって、直接いろいろお話を聞き、そしてその後も橋本さんにたくさんのたくさんのコメントを原稿にいただきながら、橋本さんに本の内容や形式に納得いただいて「これでいいです」っておっしゃっていただきました。
田:あのバーンスタインに送った橋本さんの手紙自体、橋本さんが日本語に翻訳したそうですね。本当にその切々たる思いっていうのは、なんかバースタインが指揮してる音楽でちょっと感じて頂ければと。 シューマンの交響曲第二番の第三楽章の一部を少し聞いていただきましょう。
バーンスタインの指揮するウィーン・フィルの演奏です。
田:なんかこう胸が締め付けられますよね。手紙っていうコミュニケーションがね。やっぱり今のこのインターネットの時代と全然違う。
吉:天野さんのお手紙や橋本さんのお手紙も、私が図書館で実際のこう、物質、物としてのお手紙を目にして、その一通一通お手紙の便箋の選び方とか、筆跡とか、きれいな切手を明らかに選んで投函したりとかっていう…。
それを目の前にして、手書きの手紙という形。 気持ちを表現するその行為にも、すごく私は感動しました。
田:そうですね。今だと手紙なかなか書かないと思いますけれども、けれども、例えばこの一枚の紙に託すまでの、ものすごくいろんな段階があるんだろうなあっていう感じがしますよね。
吉:そうですね。そして投函してからも、和子さんの場合、最初は船便ですから、もう届くまでにも長い時間がかかるし、航空便になってもバーンスタインは世界を飛び回るマエストロなので、その手紙が届いてからもすぐにそれを彼が読むとは限らないわけです。
橋本さんは次々続々と手紙を送って、それをまだバーンスタインは読んでないのはわかってるけど、もうこらえきれなくて次の手紙を書いてしまうとか…。
そういうその待ち焦がれる思い。 なんかあのもどかしさ、そのもどかしいんだけど、やっぱりこう伝えずにはいられないっていうような思いが、手紙にすごくよく表れていると思います。
田:そうですね。そして、バーンスタインは90年に亡くなったわけなんですけれども、この御本を読んで思ったのは、80年代ってあのレーガン政権による新保守主義時代っていうんでしょうか…
それでバーンスタインは文化勲章みたいなものをくれるって言われたのを拒否したりとか、エイズの問題とか人種差別であるとか、核兵器の問題とか、もういろんなことに対して発信し続けてますよね。
吉:そうなんですよね。若い時からいろんなもう政治や社会の問題に強いコミットメントを抱いて、自分が有名なアーティストになってからは、その影響力をすごく効果的に使って発言をしたり行動したり、そして特に80年代のその政治状況にすごく心を痛め、憤り、それを音楽を通じても、ほかの言葉を通じても、自分の行動を通じても伝え続けた人物でした。
田:バーンスタインが亡くなった90年の頃っていうのはまだ日本でもその同性愛などに対する差別が今以上にあって、なかなかカミング・アウトもできない人が多かったと思うんですけれども…
バーンスタインは女性も男性も愛していたと思うけど、同性愛のことについては、なかなか当時は多くの人が口を閉ざしていたと思うんですよ。
だから今、2022年、2023年になってこういう本が出て。 みんなが自然に受け止めればいいなと思うけど、今の日本ってどうなのかなって 思うところもあるんですよね。
吉:はい。今のところ、この本が出てからスキャンダラスに騒ぎ立てたりするような人。少なくとも私の目や耳に入ってくる限りでは皆無なので、何かそういうことで書き立てられたりしたら一番傷つくのは橋本さんなので、それについてはすごく安心してます。
日本でもそうしたその同性愛に関する意識だとか言説が変わってきてるんだなと思いますが、でもそれが社会全体とは必ずしも言えないし、むしろその日本の政治界だとか、一部の上の上層部の人たちのほうが不寛容だとか、そういったことが露呈していたりしますのでね。
田:そうですね。
吉:この本を、一人でも多くの方に読んでいただいて、こういう愛のあり方があるんだっていうことを知っていただき、感じ取っていただければ嬉しいです。
田:そうですね。核廃絶のことなんかも含めてもそうですけれども、音楽家の役目っていうかな…音だけで表現するのが音楽家だけではなく、やっぱりバーンスタインみたいな影響力を持った人の発する言葉ってのは、大きいですもんね。
吉:そうですね、はい、今おっしゃったように、その音を媒体にする芸術なので、バーンスタインが本当に優れた音楽家だったっていうことはもちろん、その楽器の理解だとか、作品の理解ということもありますが、世界が発するもの、音、人々の声というものをバーンスタインは本当によく聴いた。耳を傾けて、そしてそれをまた音という形にして人々に届ける。それが音楽家ですよね。
指揮者としては、作曲家が発した思い、音として生んだ思いをオーケストラに伝えて、そしてオーケストラとともにという形にして聴衆に伝える。
そういったことが効果的にできたからこそ、バーンスタインいうのは偉大な音楽家だったと思います。
そしてバーンスタインにとっては、音楽に対する愛は人類に対する愛とか世界に対する愛人々に対する愛と同義だったんですよね。だから、お仕事で音楽をやっていたわけではなく、音楽そのものが彼の愛を貫く生き方だったんだと思います。
田:なるほど。『ウエストサイドストーリー』という作品一つとってみても、今の社会の矛盾だとか、そういうものにつながるテーマがあると思うんです。
スピルバーグの映画もすごく注目され、今年の7月には、ブロードウェイミュージカルの『ウエストサイドストーリー』も来日するということで、バーンスタインという人の目指したものを改めて考える機会になればいいなと思います。
吉:そうですね。
田:ということで、今日は『親愛なるレミー レナードバーンスタインと戦後日本の物語』という本を書かれた吉原真里さんをお招きして色々お話を伺いました。
おしまいはバーンスタイン最後の演奏会となりました1990年8月のタングルウッドのボストン交響楽団を指揮した演奏会。 その中からベートーヴェンの交響曲第7番のフィナーレのところを聞いてお別れしたいと思います。今日はどうもありがとうございました。
吉:ありがとうございました。
(♪ 最後のフィナーレ部分の音楽がかかり、番組は観客の大歓声で終わったのでした)
美登里さん、本当にありがとうございました。
さて、こちらはペンクラブの授賞式。本当におめでとうございます! アルテスパブリッシングの木村社長のfacebookより、ご覧ください。吉原さんはハワイからビデオメッセージで登場。
本当におめでとうございます! ところでその『親愛なるレニー』最近、電子書籍でも読めるようになりました。まだ読んでない人は…もういないと思いますが! 絶対に読んでね〜っっっ。