札幌中央図書館にて吉原真里さんの講演を聞いてきました


札幌にやってきました。上の写真は札幌中央図書館にあった展示より。レニー、素敵🩷

バーンスタインが残してくれたパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)がいよいよ札幌で開幕。盛り上がる札幌で『親愛なるレニー』の著者である吉原真里さんが講演をされるので、それの応援に野崎も札幌にやってきました。

講演は2回あって、まず1回目は札幌中央図書館にて『バーンスタインの贈り物』と題した講演。

この本のきっかけがワシントンにある議会図書館だったことを考えると、とても感慨深いものがあります。まさにアメリカのアーカイブ文化素晴らしい。図書館の存在、本当に重要! この本を携えて、レニーが札幌の図書館に戻ってきた、ってなんかすごい。


なんと会場にはPMFの第1回に参加したことがある!という方もいらっしゃって、しかも! とある写真家のおじ様は、講演後、吉原さんに何やらレニーの生写真などをたくさん見せて、そのうち何枚かをプレゼントされていましたよ。すごい。私もポラロイドみたいなやつ頂いちゃった。うるうる。つながるレニー愛。

そうやって、レニーを慕う多くの人がレニーの思い出を大事に大事に持って、生きているんですね。素敵すぎる。

以下、簡単にレポートを書きます。これは私が録音もメモったことを書き写してるので、間違いや誤解があるかも。文責:野崎でお願いいたします。

最初、吉原さんは、作曲家として、指揮者として、ピアニストとして、教育者として、そして平和社会のためのアクティビストとして、また同性愛者としてのバーンスタインのプロフィールをそれぞれ丁寧に紹介していきます。

そして晩年のバーンスタインが一番力をいれたのが教育者としての活動なのです、と吉原さん。本当に亡くなる数ヶ月前。行かないでくれとお手伝いさんたちが泣いて止める中、バーンスタインは札幌にやってきて、この素晴らしいフェスティバルの第1回を実現したのでした。

そしてお話はバーンスタインと日本との関係に。日本には7回来日しているバーンスタインの、それぞれの来日とその時どきの社会の状況など、内容や形態は、時代は大きく変わっていったわけですが、その変遷が紹介されたのでした。

61年、上野の東京文化会館の柿落としとして来日したとき。「もはや戦後ではない」という経済白書が出たばかりの日本です。当時バーンスタインはある意味「アメリカ政府の理想的な文化大使」という役割もあった、と。

そしてそこからGDPも4倍に成長し、インフラも整った70年には、ベルリン・フィルやボリショイ・オペラなど世界的なレベルの公演が日本でも行われるようになりました。

そういう公演が可能だという日本を海外に見せつけていた時期だったのかも。この頃になると、来日にはソニーが大きくからみ、LPレコードがたくさんリリースされたり、音楽雑誌などメディアも充実してきたのです。

74年はニュージーランド、オーストラリアから日本へ。そんなふうにワールドツアーの中に日本が組み込まれることもありました。78年の来日計画はフェリーシャ(奥さん)が亡くなり中止に。そして79年に来日したNYフィルのオケのメンバーには女性やアジア人も入るようになった。そして85年、広島平和コンサート。続いてすぐイスラエルフィルを率いての来日と続くわけです。

そして90年6月のPMF札幌開幕へと時代は流れていきます。この時はロンドン交響楽団。そして若い学生さんたちが集まって出来たPMFオーケストラはシューマンの交響曲第2番などを演奏したそうです。

その後バーンスタインは東京に移動して公演を行ったけれど、ホテルの部屋で倒れ急遽帰国。残念ながらその後10月14日に亡くなりました。

そして、素晴らしいのが、札幌市はこのPMFフェスティバルの継続を宣言。現在にいたるわけです。今年で33回目! すごいなぁ。

そして吉原さんの話はバーンスタイルと弟子の皆さん。小澤征爾さんをはじめ、五嶋みどりさん、大植英次さん、佐渡裕さんなどにも及びました。

そこから今回の著書『親愛なるレニー』へとお話は進むわけです。

吉原さんがバーンスタインのアーカイブで、偶然無名の日本人との手紙と出会ったこと(そしてそれをバーンスタインが全部取ってあったのが驚愕です)、そして天野さん(上野さん)の人生、橋本さんの人生。それぞれの様子が、吉原さんが見つけた手紙を通じて語られていきます。

61年の初来日時にバーンスタインと会い、家族ぐるみで付き合いが始まった天野さんは、その後旦那さんを亡くされ、キャリアウーマンとして自立していくわけです。(この辺の件は涙が出ます、ほんと)

なにせ天野さんの最初の手紙は彼女が18歳だったとき。彼女は女性はそれこそお嫁さんになって主婦になるしかない時代を生きた、積極性と主体性を兼ね備えた素晴らしい女性だったわけです。

自分の仕事の話を時々バーンスタインに誇らしげに報告していく天野さん。彼女の人生には、常にレニーへの思いがありました。

もう一人の橋本さんとバーンスタインは、79年の来日時に初めて出会い、一夜を共にします。その後ミュンヘンによばれて愛情を育み、のちに保険会社勤務だった橋本さんは劇団四季の入団、そしてフリーのジャーナリスト、翻訳家、俳優として活躍していきます。

橋本さんは、バーンスタインのレップ(日本代表)となり、彼の死後も『キャンディード』の日本語訳などを手掛けるわけです。

ここでバーンスタインが指揮をする映像も紹介され、「演奏をきくとわかるのですがバーンスタインの音楽には、本当に音楽の喜びが詰まっている」と、吉原さん。確かに。私はクラシック音楽のことはさっぱりわからないのですが、レニーの豊かな表情、そして身体中から愛が溢れているのがわかります。本当に楽しそうで、音楽の喜びにあふれています。

ちなみにこの『親愛なるレニー』に出てくる橋本さんと天野さんはまだご存命。本にするにあたって、本当にお二人が「レニーのためなら」と協力していただいた。だからこの本ができたと吉原さん。

聡明で明るく、前向きでチャーミングな和子さん。そして誠実で何事にも真剣にでオープンな橋本さん。お二人が信頼してくださったことが、本当にこの本がかけた大きな理由、と吉原さんは強調してらっしゃいました。

その後質疑応答の時間となったのですが、会場からの質問も、とてもクオリティの高いものでした。

PMF札幌。当初予定されていた中国ではなく、札幌でやれたことの幸運についての質問や、たとえば61年の来日のように政府の思惑の中でバーンスタインは自分の立場をどう考えていたのか…ということについて、吉原先生の見解はどうでしょうかという質問もありました。

考え方として、バーンスタインが左派なのはもう明らか。しかしながら、そうやって時にアメリカ政府の思惑に乗りながらも、彼は音楽の力を純粋に信じていたということはありうるだろう、と吉原先生。

音楽が人々の心を動かす可能性がある、とレニーは信じていた。またアメリカと一言で言うけれど、実際はその時々の政権によってかなり変化していった、とも。

また別の質問はウエストサイドストーリー(WSS)について。WSSについてバーンスタインはどう思っていたのだろうか、という質問に「なにしろWSSは大ヒット作で、資料も非常に多い。上演のライセンス、楽譜の収入、録音の収入など、バーンスタインのクラシック音楽からの収入の何倍以上の収入になっていたわけです」と吉原さん。

WSSは、圧倒的なヒットで、ビックビジネスだった。同時に85年のレコーディングの時、バーンスタインは初めて自分で指揮をして「いい曲だなぁ」とかしみじみ言ったりしていて、作品自体、音楽自体に自分で大変誇りを持っていたのは間違いない、と吉原さんは考えているそうです。

でもとにかくビジネスが大きければ嫌なこともある。色々複雑な気持ちもあったのではないか、と。

あと『親愛なるレニー』を書いていく過程の中で、バーンスタインから彼らへの返事は紹介しなかったのは何故かという質問も出ました。これはなるほど興味深い質問!

で、吉原さんによると、バーンスタインの手紙はたいへん貴重で、中にはバーンスタインからもらった返事を、このアーカイブに寄付している人もいるくらいなのだそう…。(へぇー)

でも吉原さんがこの本を書くにあたり、物語を無理に埋めてしまうといことはしなかった。他にもいろんな情報があったのかもしれないけれど、橋本さん、天野さんにとっては大切な宝物なので、すでに吉原さんが読んだ二人の美しい手紙、そこからすべてを想像する方が、Story  Tellingとしても良いのではないかと判断した…とのことでした。

うーん、いや実際、私もレニー本読んでて、思うのは、この匙加減が上品で、いいんだよなぁ!!といつも思っているのです。

(ちなみに吉原さんに「この辺の加減はやはりお育ちの良さですかね」とか言ったら、笑われました・爆)

とにかくバーンスタインからもらった手紙はお二人の宝物だから、あえて見せてもらって、それを読者と共有することはしなくてもいいかなと思った、と。なるほど…

どこかの新聞の書評で、この本の素晴らしいところはこの余白がいい、余白がイコール余情なんだという記述があって、それに震えたのを思い出しました。

あぁ、やっぱりレニー本、素晴らしい。もう一回読まなくちゃー

PS
札幌図書館の皆さん、Hさん、本当にありがとうございました。

図書館2階の素敵な展示。