今日もスチュワートの話が続きます。
ルナサと私の歴史の中で、特に大きかった出来事は、アメリカのレコード会社Green Linnetに対し、アーティストたちが「金払え」の反旗を翻したことだ。ルナサの3度目の来日はこの騒動に巻き込まれ、大変な事態となった。
特に当時来日公演を実現させるには、レコード会社であるウチのサポートが必須だった。ルナサはある時期まで航空券はウチが買って提供していた。CDが音楽産業の中心を担っていた時代、当時はレコード会社がプロモーターをサポートするのは当然だったからだ。
普通はパンフレットやチラシに広告、それで30万とか20万…なんてパターンが多いと思うのだが、ルナサはなにせ私が超お願いしてやっていただいているバンドだ。私もできる限りサポートしたかったので、本当に最初のツアーには投資に投資を重ねた。
でも同時にCDもすごく売れていたので、全然大丈夫だったんだよね。CDリリースのリスクは、来日のリスクに比べれば大したことがない。だから本当に来日にはよく投資した。(でもそれが今のルナサを作っているのだという自負もある)
だから来日と同時に新しいCDが出るというのは必須でもあった。今でこそ来日アーティストの来日のタイミングは別に新譜と一緒でなくてもいいという流れが主流になってきていると思うのだが、当時は違ったし、当時のルナサのケースは明らかに違った。新譜は来日の必須アイテムだった。
なのでツアーを守るため、新譜を守るため、グリーンリネットとの戦いでは私も必死だった。ルナサのマネージャーのスチュワートとは何度も何度も交信した。あれほど密な交信は、他のアーティストや他のマネージャーではありえなかったと思う。とにかく1日に何度も何度もメールが届いた。(このころになるとさすがに100%メールです)
スチュワートは本当に私から見ても泣けてくるくらいバンドのために頑張った。当時ショーンもよく言っていた「スチュワートが助けてくれなかったら、もうバンドなんてやっていけない」と。ショーンは普段から映画見て大泣きしたりして浪花節入ってんだけど、その言葉には嘘がなかった。私たち全員がスチュワートに頼りきっていた。
とにかくGreen Linnetとの訴訟問題はこじれにこじれた。で、びっくりしちゃったのが、世界中に広がるGreen Linnetのディストリビューターたち。誰もアーティスト側につかなかったことなんだよね。あれには心底呆れた。結局世界中どこを見渡しても、ルナサ側についたのは、私だけだった。お前ら、音楽やってんじゃないのかよ! それじゃただの貿易商社じゃないかよ!
あの連中、今、会ったら全員蹴飛ばしてやりたい。こんなだから、アーティストは自分たちで運営できるようになったら「レコ社はいらない」と言って、真っ先にカットされるのだ。
Green Linnet社、ほんと懐かしい。一度だけボストンだかコネチカットだかどっかだか、あの辺にある事務所を訪ねたら、社長が自宅に招待してくれたり、社長と副社長で手作りの食事をふるまってくれたり大変な歓待を受けたのを覚えている。
特にPRの…名前なんていったっけ…ジュディスか…ジュディスにはよくしてもらっていた。っていうか、ジュディスは今でも私のfacebookフレンドでいると思うし、バンドの連中とも交流あると思う。もうアイルランド音楽関連の仕事してないから、普段特にフォローしてないけど。
というか、確か、彼女は自分でアーティストをプロモーションする事業を立ち上げたんじゃなかったかな。でも今やとんとシーンで名前は聞かない。彼女も勘違いしてた部分あったと思う。アーティストがチヤホヤしてくれるのは、レコ社にいたからであって、彼女自身の実力ではなかったということだ。厳しい事、言っちゃうけど、そういう人、本当に音楽業界に多い。
まぁ、実際どうかと思うよね。いくら上司たちが悪者で自分がそれに逆らえなかったとしても、それに従ってたら、その人も悪者だ。私だったら、机ひっくり返してとっくに辞めてると思うのだが、そうもいかなかったらしい。
グリーンリネットにとって、私は超お得意さんだった。だからあんな騒動で終わって残念だったけれど、結局悪いことは続かないもので、彼らはそうこうしているうちに潰れた。最後、社長は自分の家の家具まで売ってお金を作っていたようである。副社長は性犯罪で逮捕されてた。そんなあれこれ経てルナサの原盤の権利はすべてCompass Recordsに売却されるという結末となる。
でもあの騒動が返ってバンドを強くした。バンドと私の結束も強くしたし、あの時のスチュワートの奮闘ぶりは通常のマネージャーの業務をはるかに超えていた。
その後、バンドを脱退してしまうギタリストのドナがあの時、追加2年バンドに踏みとどまったのは、あの騒動があったからだ。あそこでドナが脱退していたら、バンドは空中分解しても不思議じゃなかった。だからドナも頑張った。
今思い出すと、当時の自分の勇気のありように感動すら覚える。でも私はツアーを守ったし、新譜も守った。まぁ、勇気があったよなぁ。音楽評論家の松山晋也さんに「すごいな、洋子ちゃん、オレにはそんなことはできない」と呆れて言われたのをしみじみ思い出す。
まぁ、でも私に失うものなどなかったし、バンドと心中で良かったと思っていたから、私にとってはなんでもないことだった。そうそう、リスペクトレコードの高橋さんに紹介されて熱血著作ケンゾウ君こと安藤先生に初めて会ったのもこの頃である。本当にたくさんの人に助けていただいたし、私とスチュワートとルナサは鉄壁のチームとなった。
そして新しいレコ社のCompass RecordsはCompass Recordsだけど、これまた偶然にもルナサ以前に私と付き合いの長いレコード会社だったんだよね。まったく世界は狭い。
最初の最初はたぶんナッシュビルに移住したクライヴ・グレッグソンの紹介とかそんなだったと思うのだけど、彼らがまだ駆け出しで、ケルトに着手する前に、こういう作品の日本ライセンスとか手伝ってあげていたのだった。
っていうか、やっぱり良いことは常にやっておくべきなのだ。あっ、「べき」とかまた言っちゃった。でもそういう小さいことが、こうして後になって、ものすごい効力を発する。
これ、懐かしいなー。このアルバムは当時、私がコーディネイトしてバンダイから出たんだよね。今、聞いてもすごくいいアルバム。この彼女、今はどうしているんだろう。