いやー 読んでみた。タイトルを見て、これは読まずにはおれんと思って…。
が、しかし子供時代の思い込みってすごいもので、自分が『赤毛のアン』を読んだことがないのはしっかり自覚していたが、『秘密の花園』『小公子』『小公女』も読んだ記憶はうっすらあれど、まったく内容を忘れている!?
というか、この本を読んで、その辺に自分が全然思い入れがまったくないことに驚愕してしまった。私は自分が少女小説にはまっていたと、自分の記憶の上塗りをしていたらしい!?
だめやん、全然読んでないやん!!?
『赤毛のアン』はあきらかに読んでないし、『秘密の花園』『小公子』『小公女』はおそらく読んだと言うふうに記憶しているけれど、たぶん他の女の子は私よりも何度も読むとか、ハマっていたのではないかと思う。とにかく内容にまったく記憶がない。
『若草物語』も。とういうか、『若草物語』はグレタ・ガーウィグの映画にいたく感動し、子供の頃夢中になって読んでいた錯覚に今は陥っているのだが、その記憶は間違っていたのかも。
あの映画を見る前、自分はちゃんと『若草物語』のあれこれのエピソードを覚えていたかい? ベスが死んだのは明らかに覚えていたし「猩紅熱」という病名を覚えたのも、おそらくあの本だというのははっきりしているが…それ以外のいろんなエピソード、覚えていたかい、おいっっ(笑)
いや実際は『若草物語』の記憶なんてほとんどなく、映画を見ながら、なんとか必死に思い出していたのではなかったのかい? どきっ…
今やグレタの映画はセリフをほとんど覚えちゃうほど何度も見たから、私はどうやら自分が子供の頃から『若草物語』にハマっていた…と自分で自分のことを錯覚していたらしい。ホントやばいよね。記憶って、後から適当に書き換えられちゃうんだ。
一方で、私が明らかにハマっていたと覚えているのは『大草原の小さな家』(ワイルダー)だけだ。あれは分厚い本だったが、イラストも印象的で、表紙まで全部覚えている。確か5冊くらいあった。あれは全部読んだ。内容もとてもよく覚えている(が、それも錯覚かもしれない)
もちろんあの本を読んだきっかけはNHKの吹き替えドラマだった。
私は小学校のころ、かなりの本の虫だったが(特に子供の頃は本を読みながらご飯を食べるのが大好きで、それをやっていつもすごく怒られた。活字がないと一人でご飯が食べられないのは、今も一緒だ)、
中学生・高校生くらいになると全く読まなくなり、大学もあんまり頭のいい学校じゃなかったので、これまた全然本を読まなかった。
今でも普通の人が常識的に読んでいる夏目漱石とかその類の本は見事に全然読んでいない(し、これからも読まないと思う)。
なので、この本を買っても、作者の作品の内容を頭にしっかりおきながら読めたのは『若草物語』のところだけだった。
とはいえ、この先生はわかりやすく書いてくれているので、たとえば小公女の主人公がセーラでお父さんがインドで亡くなったりとか…そういうのは読みながら、危なっかしくもしっかりと思い出してきた。そうそう、そうだったけ、確か…
同世代の女友達たちは、みんな子供のころからこういう少女小説を読んでいて、結構みんな細部まで記憶してる。すごいな。
アイルランド在住のガイド:直子さんが赤毛のアンの研究家でいることは、アイルランド文化のファンの方ならみんなご存知だろう。彼女の「アン」に対する入れ込み度はすごい。ブログにもたくさんの記述がある。(こちら)
一方で、私といえば、周りの同世代の女友達(インテリが多い!)に引っ張られ、思わず自分も少女小説を舐めるように読んでいたと記憶を上塗りしていていたようだ。
この本に読んで思った。私はおそらく少女小説にはまってはいなかった。だからこそ、よくも悪くも「自分は女なのだから」ということをあまり考えないで育つことができたのかもしれない。と言うか、いや、本来女っぽくないだけか?(でも妙に執念深いところとか、ちょっと意地悪なところは絶対に女だと思っている。恋愛の仕方とかも妙に女くさいし)
それにしてもこの時代の女の人たちは、みんなすごい。結構共通するのはみんな生活のために書いていることだ。書かなくちゃ、食べていけないでしょ、男は頼りにならないでしょ、とばかりに。
そしてやっぱりオルコットの生涯が一番かっこいいのかな、とも思う。生涯独身で過ごした彼女。ちょっと「独身崇拝」みたいなところがある。実際自分の本の登場人物にちらちらとそれを語らせている。
彼女の生涯を思うに、これと現代のフェミニズムを合体させ、オルコットが出版社の説得で妥協して諦めてしまった主人公ジョーの自由を映画でかなえてあげたのは本当に素晴らしいことだったと再び思う。
グレタも私もオルコットの妹たちなのだ。(ちなみにグレタにはパートナーも子供もいるけど、そういう話ではない)
しかし、この本、今年に出たとというのに、グレタの映画に関する記述が何もない!!? なぜ??? この先生(1948年生まれ)は、あれだけ話題になったあの映画を見ていないのか? 一方で『赤毛のアン』の章ではテレビの実写版?についての言及があるので、それはどうなんだろうとちょっと思った。(ちなみに木村先生は内閣府の仕事もされていた偉い先生である)
それかこの本は雑誌か何かの連載で、『若草物語』の章は映画が公開される前に書かれた、とか?? それともグレタのあの映画、私とその周辺が騒いでいるだけで実際はヒットしてなかったのか???
その点が不満ではあるけれど、この本を読んでオルコット、そして彼女の家族(特にお母さん)はやっぱりすごいと改めて思った。
グレタも映画で取り上げた「私は私の船を漕いでいく」って、オルコットの手紙から拾ったセリフなんだね。なんかいちいちそういったことにも感動した。
『若草物語』を書いたルイーザ・メイ・オルコット
そして『小公子』『小公女』のバーネット。なんかうちにもチャラチャラした絵本とも児童書とも判断しがたい本があったような記憶もあるが、挿絵すらもまったく思い出せない。
オルコット同様、バーネットも生活のために大人用の煽情的な作品を書いてお金にしていたそうだ。
そして「少女小説」だって、他の文学同様の立ち位置ではなかった。女子供が読む本ということで本の地位はとても低かった。(これって、今、漫画の地位があがってきたことと同じだよね)
そんなふうに幾重にも差別されていた彼女たちの作品の中で、いわゆる「少女小説」だけがベストセラーとなり、高い評価を受けて後世に残ったというのがなんとも皮肉とこの本の著者は書いているけど、いや、ほんとそうだよね。
オルコットと違って、バーネットの少女小説には「美しさ」のこだわりが強かったらしい。『小公子』も『小公女』も主人公はとても美しい子供として記述されている。… あ、この辺なんか覚えてるかも。
(そして最近読んだ水村美苗さんの本に小公女セーラが流暢に話す「フランス語」と「英語」の「位の違い」という記述を見つけ、これまた悶絶してしまうのであった)
それにしても、ほんと全然覚えていないもんだ。思うに、私が読んでいたのは彼女が書いたオリジナルの本ではなく、ちゃらちゃらした絵本かさらに子供向けの簡略版だったのかもしれない。
それを思うと「少女小説」にあまりなびかなかった私の理由もわかるような気がする。ほんと子供には本物を体験させないとダメだという良い例。子供は意外とその辺(細部)をするどく感じ取っているのだ。お話がわかればいいというものではない。きちんと本を読みなさい(笑)
あ、そうそう、あと貧乏は辛いということはなんかセーラの待遇が大きく変化したシーンで子供ながらに理解したことは覚えている。貧乏もこれらの女性作家のキーワードだ。
バーネットは英国で生まれ育ち、15歳でアメリカに移住、その後は欧米を行き来し、58歳でなくなったのだそうです。
『小公子』『小公女』『秘密の花園』を書いたフランシス・ホジソン・バーネット
そしてモンゴメリですよ。時代から言うとオルコットとモンゴメリの生まれた年は40年くらい離れている。バーネットはその間くらい。
『赤毛のアン』はとにかく日本で大ヒットした、と著者はいう。そういやこの本の著者もモンゴメリに一番ページ数を割いてる。
初恋の話から展開していくから日本の読者も安心して読めた、というのが大きい要素ではないかというのが著者の分析。一方で日本で出た村岡花子の訳は、たとえば生理の描写の部分を省いているなどということがこれまでも指摘されているそう。なるほど…
モンゴメリは父親の影響を大きくうけて育ったいわゆる「父の娘」でもあったそうで、女の自分に変わって父は世界を冒険する英雄だったと発言していたんだって。その父は彼女が25歳の時に亡くなり…
オルコットが家族をがっちり支えて妙にかっこいいのに比べ、モンゴメリは自分の才能に対して割と自信をなくし、主婦という立場に甘んじていたところがある、自分の作家としての限界を感じ、いろんな意味で作家活動を諦めていた、と。
また最後の死はもしかしたら自殺だったのではないかという説もあるそうで、あんまり幸せな人生ではなかったのかなぁ、とも。
しばしばフィクションの作家は作品の登場人物に自分の心情を語らせることがあるけれど、彼女の本の登場人物のセリフからは、彼女は彼女なりにジェンダー問題と戦っていたようにも思えます、と著者は分析。
彼女特有の「光と闇」のはざまで本心を隠し、時には世間に迎合することもあった、と。
「赤毛のアン」を書いたルーシー・モード・モンゴメリ
ちょっと前に上野千鶴子さんが新聞の悩み相談で答えてらした「世の中は少しずつ少しずつよくなっています。変わってきたのではありません、変えてきた人たちがいたからです」という言葉を思い出しました。
この時代(1800年代後半から1900年代前半まで)活躍した女の表現者たちは、本当に苦労したのだな、と。先輩たちが苦労したから、今の女性の地位があるんだな、と。