悪魔の音楽



ブログにあげた「LIVE IN SEATTLE」の音源が、とにかくあたまの中から離れない。他のCDをかければ、そちらに耳は行くが、音が消えると、また頭の中から自然とマーティンのフィドルが流れ出す。やばいなー、これー(笑)

以前にも書いたけど、これは「悪魔の音楽」だ、と思う。よくマーティンの流麗な弓さばきぶりから「美しい」とか「綺麗な」とか形容されるんだけど、私はそういう説明がどうも解せない。この美しさは、美しいだけではない、危険な要素をたくさんはらんでいるのだ。

いつだったか松山晋也さんが、マーティンの音楽に対して「官能的な」と表現してくれたことがあるが、まさにそれだと思う。人間の本能的な部分をゆさぶる、そういう危険な音楽なんだと思う。実際マーティンの音楽が好きすぎて頭がおかしくなってしまった人がいるのを私は知っている。この危険な音楽が「呼ぶ」のかもしれないよね、そういう人たちの奥にある狂気を。まさに、これこそ悪魔の音楽なのだ。

光瀬龍の小説、萩尾望都さんの漫画で「百億の昼と千億の夜」という話がある。宗教をめぐる壮大なSFストーリーで、ここではキリストは悪役として登場する。仏教にいたっては、まるで原子力ムラの連中みたいにすごいチームワークで、人々に末世思想を植え付け、弥勒に従うように企てている、というユニークな物語だ。

そしてそこに阿修羅、プラトン、シッタータが登場し、「命」を受け、この悪者たちの悪巧みをあばくため戦うわけだが、その3人に使命を授けたのが自然信仰の悪魔、土着の神なのかもしれない、という設定なのだ。

すごいよね、つまり、これってケルト。これって日本の古い神道。人間が最初に持っていた自然信仰の事を言っているんだよね、きっと。まだ読んだことない人はぜひ。この小説/漫画、私と同様、思い入れが大きい人が多いらしく、タイトルでググると、いろんな人がいろんな感想を載せているのが分かる。

もっと言っちゃえば、これって、私が大好きな小説、遠藤周作の「沈黙」にもつながるんだけど、いわゆある宗教における神とはいったい何なのか、ということを問うている。もちろん西洋人でもなく、宗教とはまるで無縁に育った自分には分かる術もないのだけど、私は「沈黙」という小説の意味でいうなら、神は絶対に存在する、と思うのだ。あれはホントにパワフルな作品だ(今度Book Talkで取り上げようかな)。

つまり「神とは裁くものなのか?」「神とは罰するものなのか?」という疑問だ。そうじゃない。神は「すべてを許し」「すべてを受け止めるものなのだ」という答えだ。

いつだったかストックホルムでスウェーデンの文化みたいな博物館に行ったとき、スウェーデンの文化を何千年も前から系統立てて紹介する展示があった。最初の頃は、いわゆるルーン文字やヴァイキングの時代の自由で自然と融合した文化だったのに対して、部屋を移動してキリスト教上陸以降の文化が展示されている部屋に行ったら、なんだか威圧的で照明も暗く(笑)「すみません、悪いことしてません、私」みたいな気分にさせられた。

ヴァイキングの事も、キリスト教側の歴史から書かれているから、荒くれ男で暴力的で…というイメージがあるが、実際のヴァイキング社会は福祉のシステムなどがかなり充実した非常に民度が高い文化だったという説もある(というか、そうでもしないと寒くて生き残れなかったらしい)。アイルランドの場合は、たまたまキリスト教の上陸は土着信仰とうまく融合した。それがセント・パトリックでありブリジットなわけなのだけど(これはまた別の時に)、つまり今の西洋の歴史は、すべてはキリスト教側の視点から書かれているから、私たちには分からない事がたくさんある、という事なのだ。私も専門家ではないので、細かいことや難しいことは分からない。でも、それを想像するのが楽しいのだ。

ケルトの思想はすべてを受け止め、自然と融合し、ぐるぐると展開していく。そこには終わりもなければ始まりもない。

人間の想像力は、時間や場所を超えて、どこまでも飛んでいく。そして、マーティンとデニスの音楽が、遥か遠く、古代のアイルランドと、私たちの思いを共鳴させてくれるのだ。すごいね。