「余命というものがそうじゃない命とどこが違うのか」

文春が好きだ。ついついコンビニで立ち読みしてしまい、立ち読みするとだいたいはゆっくり読みたいと思い必ず買ってしまう。時々オバカな記事もあるが、これぞ週刊誌の正しい姿。自分が雑誌の編集部で働くとしたら、絶対に音楽誌ではなく文春で働きたいと思う(笑)

伊集院静の「悩むが花」のコーナーは、あまり好きではないコーナーなのだけど、今日読んだQ&Aが良かったので、自分への記録用にここに書いておく。

質問は53歳の会社員の方。余命1年の宣告を受けたが、それは受け入れている、いったいどう過ごせばいんでしょうか、という質問。

53歳なんて…なんて若い。よく受け止められたね。でもそれは質問することじゃない、と伊集院さん。そして1ケ月近く前になくしたという40年来のお友達を紹介。余命宣告されたその人は「やり残したことがたくさんある」と言ったという。その人は印刷会社を経営していたということで、最後に伊集院さんの本を出したいんだと言って、本を一冊出してくれたのだそうだ。仕事が好きな人だったそうだけど、果たして余命の過ごし方として、それが良かったのかは分からない、と伊集院さんは書いていた。

折しも隕石が飛んでいてロシアを直撃した。いつ私たちの頭の上にもふってくるとは限らない。観光地で突然不慮の死をとげる人もいる。こういう不幸は普段の自分の行いと関係なく突然日常を襲ってくる。地震だって津波だって、富士山噴火だっていつ起こるか分からない。先日も友達とご飯したら、まだみんな40代だというのに、もう死ぬ話(笑)。いったいこの中でだれが先きに死ぬんだろう、って。死んだら、上から残った皆を見下ろしているのかしら、って。

しかし、いったい宣告されて余命1年と言われるのと、突然1年後に死ぬのと、いったい何の違いがあるのだろう。いつ死んでも悔いのない生き方をと…時々思う。でもあまり実感がなかった。そんな風に問われて、はじめて本当に実感した。

「人間はどう生きるのかは自分で決めるしかない。他の人がみてもっともらしいとかふさわしいとうつる生き方は案外とつまらないものではないかという気もする」と伊集院さんは語る。

そう、死んだときの残酷さで、何も知らない他人はこの人は可哀想とジャッジする。そういえば、だいぶ前に娘さんを殺されたお父さんがスピーチで「この悲惨な死ではなく、娘の頑張ってた姿を覚えていてください」と挨拶してた。あれにはホントに心が痛くなった。戦場で亡くなったジャーナリストの方の奥さんが涙をこらえて「本人は本望でしょうから」と言ったのがすごいと思った。

そうなんだよね。人から見てどう見えるかじゃないんだ。自分の人生は自分で決めていくしかない。そして自分で決めたら文句は言わない(と、自分に言い聞かせる)。もちろん周りの理解を得る事も大切だけど。

明日の自分もそういう風に思って前に進んで行けますように。

おいらとスタクラ(アラマーイルマン・ヴァサラット)の後ろ姿 in 浅草。友達が撮った。
















PS
とか書いてたら、友達の友達が癌ですごく若くして亡くなり、その人も普通に亡くなるまで普通にしていた、ということだった。その人がどのくらい覚悟してたか分からないけど、きっとその人も自分の仕事が大好きだったのだろうと思う。自分の普通の、ふつーーーの毎日が一番大事だったのだろうと思う。合掌。