そんなわけでメアリーの新譜はメルダックで、私は私でインディーズのレーベルは順調だった。もっとバブルのころにこのビジネスを初めていたらもっと大きな事業に出来たのに、と思われることも多々あったけど、音楽ビジネスはそれから衰退の道を辿ったわけで、そういう意味では、まだCDが売れるうちに初めておいて良かった、と思いかえす。
そのうちプロモーション会社に居候していた私は、PR仕事がおろそかになりつつもあったので、この会社をやめて独立することになる。いずれにしてもCDは一人で食べていくくらいだったら充分すぎるほど売れていた。会社を辞める前から、すでに1事業としてレーベル事業は会社の普通の通帳とは別に通帳を作って事業部制にしてもらっていたし、それはかなり順調にまわっていた。だからこの時追い出してくれたプロモーション会社の社長には本当に今でも感謝している。というのは、私はおそらくフリーランスになりたい、と自分から望む人間ではなかったからだ。
今でこそ、フリーランスじゃないと意味ないよ、くらいに思っているのだけど、当時の自分としては割とトンでもない話だった(笑) またある意味、これだけお世話になっておいて、上手く行ったからととっと独立…というのも申し訳ないと思っていた部分もあった。だからいわゆる事業立ち上げの時、誰でもが味わう、最初の入金までのドキドキ感とか、しなくてもいいような苦労はいっさいしないで済んでしまった。
独立にあたって事務所の屋号を決めなくてはいけなくなって、メアリーの事務所の名前THE MUSIC PLANTの名前をもらうことにした。メアリーたちが事務所のことをオフィスと呼ばず、Plantと呼ぶのがかっこいいなと思っていたし、やはりあくまで自分はメアリーの日本の事務所だという自負があったからだ。最初アイルランド以外の仕事もできるようにと思っていたので、このニュートラルな名前が気に入っていた。でも始まってみたらアイルランドの仕事ばかりで、ちょっとしらけたけどね。
私が独立した時にプランクトンの川島恵子社長がくれた言葉がある。私が独立して、嬉しくあると同時に不安な部分もたくさんあるという状態の中で、恵子さんは「好きなアーティストについていけば絶対に大丈夫」と言ってくれた。今でもいろんな事で迷うと、恵子さんだったら、この問題にどう対処するかな、と一番最初に思う。そして恵子さんのこの言葉を時々かみしめるようにしている。
THE MUSIC PLANTのCD番号RUCD001から8まではメアリーの事務所が出したCDがずらりと並んだ。そして009番はルナサのファーストである。ルナサとの出会いも私の音楽人生で重要なターニングポイントの一つだ。この話は前にも書いたので、このブログのルナサのところをチェックしてもらえればと思うし、また続きをいつか機会があれば書きたいと思う。
レーベル事業は順調だった。チーフタンズのツアーで出会ったロリーナ・マッケニットの旧譜を出したり、ネタならいくらでもあった。ロリーナからはライブ盤「Live in Paris and Tronto」のリリースを任せれ、これも大成功した。
ラッキーなことに私は昔から仕事が普通の人よりかなり早くてかつ昼夜を問わず働くタイプだから1人で誰も雇わず仕事を回すことが出来た。つまり1タイトルが数千枚売れただけで、かなりの利益がでた。そしていつしかその利益を使ってライブ制作をするようになった。利益が出たからといって広告につかってもあまり意味がないけど、ライブを作って来日させれば、アーティスト自身にとってもキャリアにもなるし、自分の実績にもなる、と判断したのだ。
でも私にしてみればメアリーをはじめウチのアーティストたちの運の強さについていっただけだと思っている。仕事において大事なこと。それは正しい人と出合うこと。そしてその人の信頼に答えること。それだけやっていれば、自分のキャリアはどんどん自動的に作られて行く、と、今の若者と過去の自分にいいたい。だから心配しなくていいんだよ、と。世の中、理不尽なことはいっぱいあるし、イヤな親父もバカな女もたくさんいるが、それにかまけてホントに出合うべき人を見失ってはいけない。ホントに出合うべき人は、何も言わなくてもあなたのことを見守っていてくれる。だからあなたはその人の信頼を絶対に裏切ってはいけない。
そして99年、メアリーは「Speaking with the Angels」をリリースする。
これがまたいいアルバムなんだよね。このとき私は独立していたはずで、なんでこのCDを自分でやらずメルダックに渡したのか… もうよく思い出せないが、思い出せない、ってことは特に不満もなかったんだと思う(笑)。間違いなくもう自分の仕事には100%満足していたはずで、自分の好きなように仕切ったはずなのだから。
それにしても懐かしいなー。12月で一応ケルティック・クリスマスの一環だった。しかもへんな日程だったんだ、このツアー。大阪から始まって名古屋で終わる、という(笑) 飛行機も名古屋で見送った記憶がある。ツアーが短かったから、みんな酔っぱらったままツアーをしてた。メアリーが名古屋の空港で床に寝てたのを思い出す。いや〜当時はアイリッシュのツアーというと、いろんな意味でハードでした。懐かしい!
これはアルバムタイトル曲。
でも私が一番好きなのは「Don't say Okay」というトラックで、ドーナル・ラニーがプロデュースしたもの。疾走感あふれるドーナルのブズーキと、最後の方に出てくるキーラン・トゥーリッシュ(アルタン)のフィドルがすごくいいんだ! それは今度出るベスト盤に入れました。そんなわけで4月23日に私がライナーを書き選曲もしたメアリーのベスト盤が出ます。
メアリー・ブラック再来日決定。5月19、20日。コットンクラブにて。詳細はこちら。
そのうちプロモーション会社に居候していた私は、PR仕事がおろそかになりつつもあったので、この会社をやめて独立することになる。いずれにしてもCDは一人で食べていくくらいだったら充分すぎるほど売れていた。会社を辞める前から、すでに1事業としてレーベル事業は会社の普通の通帳とは別に通帳を作って事業部制にしてもらっていたし、それはかなり順調にまわっていた。だからこの時追い出してくれたプロモーション会社の社長には本当に今でも感謝している。というのは、私はおそらくフリーランスになりたい、と自分から望む人間ではなかったからだ。
今でこそ、フリーランスじゃないと意味ないよ、くらいに思っているのだけど、当時の自分としては割とトンでもない話だった(笑) またある意味、これだけお世話になっておいて、上手く行ったからととっと独立…というのも申し訳ないと思っていた部分もあった。だからいわゆる事業立ち上げの時、誰でもが味わう、最初の入金までのドキドキ感とか、しなくてもいいような苦労はいっさいしないで済んでしまった。
独立にあたって事務所の屋号を決めなくてはいけなくなって、メアリーの事務所の名前THE MUSIC PLANTの名前をもらうことにした。メアリーたちが事務所のことをオフィスと呼ばず、Plantと呼ぶのがかっこいいなと思っていたし、やはりあくまで自分はメアリーの日本の事務所だという自負があったからだ。最初アイルランド以外の仕事もできるようにと思っていたので、このニュートラルな名前が気に入っていた。でも始まってみたらアイルランドの仕事ばかりで、ちょっとしらけたけどね。
私が独立した時にプランクトンの川島恵子社長がくれた言葉がある。私が独立して、嬉しくあると同時に不安な部分もたくさんあるという状態の中で、恵子さんは「好きなアーティストについていけば絶対に大丈夫」と言ってくれた。今でもいろんな事で迷うと、恵子さんだったら、この問題にどう対処するかな、と一番最初に思う。そして恵子さんのこの言葉を時々かみしめるようにしている。
THE MUSIC PLANTのCD番号RUCD001から8まではメアリーの事務所が出したCDがずらりと並んだ。そして009番はルナサのファーストである。ルナサとの出会いも私の音楽人生で重要なターニングポイントの一つだ。この話は前にも書いたので、このブログのルナサのところをチェックしてもらえればと思うし、また続きをいつか機会があれば書きたいと思う。
レーベル事業は順調だった。チーフタンズのツアーで出会ったロリーナ・マッケニットの旧譜を出したり、ネタならいくらでもあった。ロリーナからはライブ盤「Live in Paris and Tronto」のリリースを任せれ、これも大成功した。
ラッキーなことに私は昔から仕事が普通の人よりかなり早くてかつ昼夜を問わず働くタイプだから1人で誰も雇わず仕事を回すことが出来た。つまり1タイトルが数千枚売れただけで、かなりの利益がでた。そしていつしかその利益を使ってライブ制作をするようになった。利益が出たからといって広告につかってもあまり意味がないけど、ライブを作って来日させれば、アーティスト自身にとってもキャリアにもなるし、自分の実績にもなる、と判断したのだ。
でも私にしてみればメアリーをはじめウチのアーティストたちの運の強さについていっただけだと思っている。仕事において大事なこと。それは正しい人と出合うこと。そしてその人の信頼に答えること。それだけやっていれば、自分のキャリアはどんどん自動的に作られて行く、と、今の若者と過去の自分にいいたい。だから心配しなくていいんだよ、と。世の中、理不尽なことはいっぱいあるし、イヤな親父もバカな女もたくさんいるが、それにかまけてホントに出合うべき人を見失ってはいけない。ホントに出合うべき人は、何も言わなくてもあなたのことを見守っていてくれる。だからあなたはその人の信頼を絶対に裏切ってはいけない。
そして99年、メアリーは「Speaking with the Angels」をリリースする。
これがまたいいアルバムなんだよね。このとき私は独立していたはずで、なんでこのCDを自分でやらずメルダックに渡したのか… もうよく思い出せないが、思い出せない、ってことは特に不満もなかったんだと思う(笑)。間違いなくもう自分の仕事には100%満足していたはずで、自分の好きなように仕切ったはずなのだから。
それにしても懐かしいなー。12月で一応ケルティック・クリスマスの一環だった。しかもへんな日程だったんだ、このツアー。大阪から始まって名古屋で終わる、という(笑) 飛行機も名古屋で見送った記憶がある。ツアーが短かったから、みんな酔っぱらったままツアーをしてた。メアリーが名古屋の空港で床に寝てたのを思い出す。いや〜当時はアイリッシュのツアーというと、いろんな意味でハードでした。懐かしい!
これはアルバムタイトル曲。
でも私が一番好きなのは「Don't say Okay」というトラックで、ドーナル・ラニーがプロデュースしたもの。疾走感あふれるドーナルのブズーキと、最後の方に出てくるキーラン・トゥーリッシュ(アルタン)のフィドルがすごくいいんだ! それは今度出るベスト盤に入れました。そんなわけで4月23日に私がライナーを書き選曲もしたメアリーのベスト盤が出ます。
メアリー・ブラック再来日決定。5月19、20日。コットンクラブにて。詳細はこちら。