来日までもうすぐ:チーフタンズ物語(5)

(1)(2)(3)(4)からの続きになります。


さて世間はいよいよフォーク・リバイバル全盛期。チーフタンズのところにも英国の配給元などから「ドラムを入れろ」というレコード会社らしい要請があったのだそうですが、チーフタンズはアコースティック路線をつらぬきます。「フェアポートやスティーライといったバンドなら、どれも聴いていたけど、僕にはフォークを素材にしたロックに聴こえたな」ふふふ、さすがのパディ。

1971年「チーフタンズ3」が発売され、翌年にチーフタンズは初めて新作のプロモーションをしにアメリカに行くことになります。コンサートはニューヨーク・アイリッシュ・アーツ・センターの1回だけで、あとはラジオ出演などあくまでプロモーションが中心。

「土曜日に行って月曜日には帰ってきていたんだから、すごいスケジュールだった」とショーン・キーンは回想します。パディはここですでにプロモーターが用意したホテルはボロボロだったのに大クレームし、ホテルを当初の条件だった場所に変更させたりしています。パディがホテルにうるさいという伝説はもうこの頃からだったんですね。いや〜、ある意味、まだこの頃、外国市場ではペッラペラの新人だったに違いないのに、アメリカ人相手にさすがです。

また他のメンバーが観光に精を出している間、パディは空き時間を利用してレコード会社の重役たちと交渉をかさねていきます。そしてクラダのカタログ全体を発売する契約を取り付けました。これは大きい。「あの時点でチーフタンズだけ売り込むのは簡単だったが、それはしなかった」とパディは言います。これはアイリッシュ・ミュージックにとっては重要な事でした。つまり売れるものだけ(チーフタンズだけ)ではなく、クラダのカタログ全体が紹介されたわけですから。

そんなチーフタンズの初めてのアメリカ公演にはニューヨークに来たばかりのジョンとヨーコが訪ねてきてくれたのだそうです。そして、狂乱のプロモーション・ツアーが終わると彼等は再び現実に戻り、ダブリンで9時/5時の仕事に戻っていくのでした。

帰国したチーフタンズには、ダブリンで新しいプロジェクトが待ち構えていました。それはセント・パトリックス・デイの特別番組で、BBCノーザン・アイルランド・オーケストラとの共演の企画でした。このオーケストラのハープ奏者、デレク・ベルとチーフタンズはそうして出会うわけです。この企画はデレクをオキャロランに見立てて、ハープを中心としたアイルランド音楽を制作するというものでした。

マイケル・タブリディの思い出「デレクは大きなオーケストラの一員とはとても思えなかった。靴は底がはがれてバタバタしてるし、ジャンパーの正面には大きな穴があいていた。彼はすぐに僕らと打ち解けてキャロランの音楽を演奏し、オキャロランのメロディをけっこう気に入っているらしかった」

(C) Chieftains web site
この時のベルファーストへの訪問で、チーフタンズは北アイルランドの厳しい情勢を実感することにもなります。当時ベルファーストにおいてカトリックとプロテスタントの生活はまっぷたつに分かれていたのだそうです。それは利用するタクシーにも及んでいました。それぞれがそれぞれのコミュニティのタクシー会社しか利用していなかったのです。

で、チーフタンズが乗ったタクシーの運転手はBBCの手配ということもあってプロテスタント系だったため、彼は南から来たチーフタンズに撃ち殺されやしないかと運転中ずっとビクビクしていたのだそうです。でも最終的にはもちろん打ち解けてホテルのバーで、その運転手と飲みながらたくさん話をしたんだって。パディいわく「彼は南の人間は1人残らず銃をもっており、すきあらば北の人間を撃ち殺そうとしていると考えていたんだ」「あの一件は、その後も長いこと僕のなかにひっかかっていたな」

それにしてもアイルランドの北/南の共同伝統音楽バンドってフォー・メン・アンド・ア・ドッグが最初かと思っていたのだけど(フォー・メンの連中は少なくとも自分たちでそう認識していました)、確かにデレクは北アイルランドなんで、チーフタンズの方が俄然早かったことになります。

そしてチーフタンズのメンバーはリハーサル中ずっと、チャーミングなデレクのいたずらに翻弄されることになります。デレクはとんでもない悪戯好きで、ある日自分の譜面台にプレイボーイ誌のヌードをたてておいたんだって。団員たちには女性のヌードが丸見えなんだけど、なぜ誰もがデレクに近づきたがるのか指揮者にはさっぱり分からない。結局ばれてしまうのだけど、デレクは注意すら受けなかったそうで「善意に解釈してもらえたんだなぁ。天才だけに許された特権だ」とメンバーは話しています。

ここでデレクのプロフィールを見てみましょうか。1935年ベルファースト。デレク・ベルは裕福な銀行家の家に生まれました。母の祖父はスコティッシュ・パイプの名演奏家でアザラシをもうっとりさせたという伝説の持ち主。父はアマチュア・オケでヴァイオリンを弾いていたのだそうです。2歳の時,デレクは視力が弱かったため、この子は将来失明するだろうと医者に宣告されます。両親はせめてこの子に音楽を…と音楽の英才教育をデレクに与え始めました。5歳の時に母親が死んで,デレクと妹は男手ひとつで育てられることになるんですが、デレクは9歳でピアノのレッスンを受けると神童ともてはやされ、11歳にして最初のピアノ協奏曲を作曲するという天才ぶりを発揮します。そして、すでにその歳で音楽で身をたてていこうと決意していたとも言われているのだから、すごい! 子供ながら自分でBBCに演奏したテープを送りつけ「こどもの時間」という番組で演奏するという仕事を得ます。(すでに子供なのにプロ!)

自分の弟子が凄い才能だと知った音楽教師がオーボエをあたえるとデレクはこの楽器も瞬く間に習得。そしてロンドンで学び終わるとベルリン、モスクワ、ブタペストなどの交響楽団と共演経験を積んで行きました。最終的にベルファスト交響楽団の音楽監督になったのは30歳近かったのだけど、おどろくことにハープを手にしたのはこの時期なんだそうです。すごいですよね。1965年、デレクは第2オーボエ奏者としてのギャラとは別に報酬を受け取るという条件で首席ハーピストになり、チーフタンズと共演したのはその7年後の事でした。

「あのときはまだチーフタンズのことはよく知らなかったんです」デレクが語る。「オーケストラの全員がパディの回りに群がって、彼が抱えている奇妙な楽器(イーリアン・パイプ)を眺めていましたね」

デレクと出会ったパディはダブリンで行なわれる次のコンサートにデレクを招待することを決めます。「チーフタンズにもハープが欲しいと、ぼくはずっと思っていたんだが、この人ならという奏者に出会えなかった」「デレクと会って長年ぼくの頭のなかにあった音楽が、ようやく全開しはじめたのさ」



デレク… 私はチーフタンズの日本公演を1996年からお手伝いするようになりましたが、デレクに関しては本当に素敵な優しい思い出しかありません。天使のような人だった。いつも集合時間に遅れまいと約束の時間の20分前にはホテルのロビーに降りて来ていたデレクは、いつも当然集合1番乗りでした。(そして、いちばん遅くなるのはだいたいマットでした)デレクの荷物が極端に少ないのも、自分のハープが重くてツアーに迷惑をかけないようにという配慮からでした。ときどきズボンの下からのぞく100円ショップで買ったみたいなネコの模様の靴下が可愛かった。プランクトンの川島さんがデレクが喜ぶようにとネコのぬいぐるみを買って来てあげたら、それを気に入りすぎちゃてなかなか手放さない事があったっけ。デレクは、よくツアー・スタッフのイボンヌとか下々の者にインド哲学のことを説いて聞かせていました。

こんなに心が綺麗な人はいません。心が綺麗で最高の音楽家だった。(今,実はデレクに近いなと思っているのはティモ・アラコティラです。ふふふ、2人とも超エキセントリックで、桁外れの音楽家)

デレクが亡くなった時、チーフタンズからいただいたメモリアル・カード。ずっと私のオフィスに飾ってあります。あれから15年たったんだ…



「地上のハーピストたち、1つずつ席を上がりなさい。天国のハーピストたち、席を下がりなさい」

(6)に続く。


チーフタンズの公演チケットは10月9日の「秋のケルト市」でも購入いただけますよ。アイルランドの音楽、文化、カルチャー、食が集合したイベントです。豊田耕三さんのホイッスル・ワークショップなど盛りだくさん。是非ご来場ください。詳細はここ


チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。
11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール 
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール