来日までもうすぐ!:チーフタンズ物語 (13)

(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)(11)(12)からの続きです。いよいよ中国上陸!!!


1983年、チーフタンズはその後の歴史に残る壮大なプロジェクトに着手します。バンド20周年を迎えて,果たして次の10年、どんな道を行くのか…。バンドにとって重要な時期でした。パディのアイディアは西側の代表として中国へ行き、そこで西側としては最初のコンサートを万里の長城の上で開催する、というものでした。

すでに3年前のロイヤル・アルバート・ホールには中国大使館の外交関係者たちが訪れ、チーフタンズの演奏をおおいに楽しんでいました。当時中国はダブリンに大使館を置いていなかったので、その企画は難しそうに思われたのだけど、81年に大使館が開かれ、国交が正常化すると、パディはさっそくそのアイディアを具体的に動かしはじめたのでした。

しかしメンバーからは大反対にあった。理由は単純でコンサートからの収益が見込めなかったから。でもパディの気持ちは強い。「中国へ行ったって何もならないじゃないかとみんな言ったんだ。最終的な経費はすべてこっち持ちだったし。でも考えてもごらん、とにかく西側のバンドで初めてのバンドになるんだよ、と。政治的には大きい。そしてビデオにも出来る。映像があれば放送もできる。新聞でしゃべるネタもたくさん出来る」さすがパディ。先見の目があったんですね。ホントすごいです。こういう先行投資、そしてコミット力がなければ、今のチーフタンズはなかったわけですから…。

マットは「たいていのミュージシャンは熱しやすく冷めやすいもんだけど、パディは違う」『彼にはやりとげるパワーがみなぎっている」とリーダーの力を認める発言をしています。

チーフタンズはアイルランドの伝統曲「プランクシティ・アーウィン」と「南からの風」の譜面を中国に送ると、反対に「歓喜 Full of joy」の譜面を中国側から受け取りました。



そしてパディの妻のリタやガレク、テレビクルーなどを伴ったチーフタンズ一行の乗ったスイス航空は北京に到着。到着してすぐにチーフタンズは堅苦しい中国式儀礼にヒーコラさせられることになったのでした。そしてアテンドする役の2人の通訳の名前はあまりに難しくて、みんな発音ができなかった。リタいわく「1人は小さくてニコニコしていたのでシャーリー(テンプル)、そしてもう1人は態度が悪くていばっていたのでドリス・カーロフ(フランケンシュタインの役者ボリス・カーロフのもじり)と私たちは呼んでいたわ」これって、よくビジネスの指南書にもよく書いてありますよね。いやな奴にはあだ名をつけろ、と(笑)さすがのパディ夫人。さすがのアイリッシュ。困難にはユーモアで立ち向かうのです。

そして万里の長城へ向う一行。楽器を担いで狭い階段を上ります。撮影は10分も出来なかったそうですが、それでもなんとか収録を完了しました。万里の長城は観光客と中国人であふれかえります。パディの回想「あそこでやった曲は曲名が分からないんだ。だから[万里の長城から]というタイトルをつけたよ」

そしてチーフタンズには各場所で地元のオーケストラと共演するという難題も準備されていました。「向こうは英語がわからなかったし、こちらも中国語はいっさいわからない」「だけど言葉の壁なんてのはなかったね。音楽さえあれば良かった。向こうの楽器の中にはそれまで見たこともないものもあったけど、だけどいったんうまく行きだすと、後はまるでアイルランド西部のささやかなパーティをしているようなもんだったよ」

特に蘇州はとても綺麗な場所で、地元の重役が歌をチーフタンズに歌って聞かせてくれたそう。「一度などはとても美しいラブ・ソングを歌ってくれたよ。そして今、聞いているこの歌はアイルランド西部の歌だと言ってもいいくらいだった。伝統的なシャーン・ノスにとても似ていたんだ。本当は時間に余裕があれば録音して研究を進めてみたかった」とパディは回想します。

また別の時には農村でいきなりパディがホイッスルを取り出し子供達と交流するような場面もあったそうです。チーフタンズの滞在中の行動は中国当局によって分刻みで計画されていたそうで、上海に戻って来た時は、メンバーはもうくったくたにクタビレていたそう。

最後の日の夜、上海の市長が北京ダックを始めとする15品ものコースを用意し、お酒が次々とつがれていきました。マットの回想「宴会が始まってまもなく気がついたんだが、もう1杯お酒がほしければ、何かのために乾杯しようと言わないといけないルールがあった。乾杯をすれば次の乾杯にそなえて全員のグラスに酒がつがれる」「僕らは中国のフルート奏者のために乾杯し、文化交流局のために乾杯し、頭に浮かんだありとあらゆる中国の何かに乾杯した」「最後の最後にネタが尽きて、とうとうショーンが立ち上がって言ったんだ。乾杯を発明した人に乾杯しよう、と」

中国の人たちもこの日は大変な量のお酒を飲み、本当に最後の夜は温かい気持ちになったのだそう。英語なんかひと言も分からないのに、デレクに一生賢明話しかけてくる重役もいたそうで、宴会が終わりホテルに戻る時、パディは涙ぐんでメンバーの肩をたたいたという。「やったぜ、みんな。おれたち、やったんだよ」

84年、チーフタンズはバンドの21回目の誕生日を祝いナショナル・コンサート・ホールで大きいなコンサートをひらきます。ここにはマイケルやポッツも参加したのでした。パディ・モローニ、この時、47歳。地球のほぼ全域にアイルランド音楽を広め、チーフタンズをアイルランドの名物にした。世界の指導者や映画スター、ロックンローラーたちと親しく付き合い、それでもその出自と習慣を守り慎ましく暮らしていましたが、世間はそろそろそうは見てはくれなくなります。有名人と見られることはなかなかのプレッシャーでした。

またアメリカツアーの間、パディはナショナル・ジオグラフィックのアイルランドの馬のドキュメンタリーのための52曲をかきおろします。この頃、飛行機のゲロ袋にまで曲を書くというパディ伝説が生まれます。(日本でも箸袋に曲を書いてましたねぇ…パディ)常にパディの頭は音楽でいっぱいだったのでした。

そしてチーフタンズのコンサートのエンタテイメント化が進んだのも、この頃になります。マイケル・フラッタリーやジーン・バトラーを起用したのもこの頃でした。リバーダンスでの彼らの成功まで、まだあと10年あるという早さです。…すごすぎる…



しかしこの頃からフラッタレー、軽やかさが違いますね。跳躍の高さとしなやかさも。

そしてデレク・ベルとのステージ・ジョークなどが定着したのもこの頃でした。チーフタンズのツアーは評判になり、ますます会場は大きくなっていくのでした。

85年になるとその2年ちかく前に収録された「チーフタンズ・イン・チャイナ」が発売されます。この頃、パディはアイルランドの雑誌のインタビューでこうも話しています。

「チーフタンズが食べて行くためにはもはやアイルランドだけで演奏しているわけにはいかない」その理由を説明するためにパディはグループの21周年記念のドキュメンタリーが、なぜBBCで放送されてRTE(アイルランド国営放送)で放送されないのかと逆にインタビュアーに聞きかえしたそう。「1年のうち半分以上、海外で過ごさないと利益が出ないんだ」

また自分たちがこんなに頑張っているのにアイルランドはまったく自分たちを応援してくれないと感じていたそうです。

この頃メンバー間でアメリカに移住しようかという説すら浮上したのだそうです。結局それは実現にならなかったけど。10年たって、パディは「移住しなくて良かった」と話しています。僕がコンサートのオープニングでダブリンは世界最高の街、と言うとき、僕は本気でそう思っている。僕はウィックロウの山々を歩きながら充電するのが大好きなのさ」

そんなパディは音楽産業の喧噪から逃げるためにフランスのブルターニュ地方に家を買うことになります。ここでの暮らしがチーフタンズの新作「ケルティック・ウェディング」と形づけられることになります。この頃、チーフタンズは新しいレコード会社を探していたのですが、BGM傘下のレーベル(ここの社長はジェイムス・ゴールウェイのマネージャーだった)とワールドワイドな契約を結ぶ事になりました。

ここではのちに「ジェイムス・ゴールウェイ&ザ・チーフタンズ・イン・アイルランド」が発売になります。こんなドキュメンタリーもあるんだ! 知らなかった。


 
ベルリンだったっけ、ジェイムスがいるオーケストラは。でもこのジェイムスの訛りがなんかいいわ…(笑)やっぱりアイリッシュだわ。

次回チーフタンズは… あのロック界のレジェンドとの共作アルバムに着手します。今までの登場人物とは格が違いますよ。お楽しみに。(14)に続く。


チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。

11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール 
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール