いっやー、毎日数字がニュースの中で踊る中、この本はめちゃくちゃ目ウロコでした。必読! 911のあとにカナダはオタワ在住のジャーナリストさんによって書かれた「人間って基本的に本当にバカでどうしようもないし、何考えてもバイアスが入っちゃってて全然ダメダメ」っていう、そういう本です。コロナ騒ぎが盛り上がってきた頃に、ちょうど読んでいたので、思うところがいっぱいありました。
2014年に出た本だけど、今年読んだ本のプラチナ本はこれになるかも。めっちゃ響きまくった。
911。忘れもしない…私たちはニュースの映像をみて震え上がった。そして、いつか自分もテロリストの行動に巻き込まれ理不尽な死をとげなくてはいけなくなるかもしれないんじゃないか、と恐怖におののいた。3,000人近くの人が亡くなった悲惨なテロ行為。しかし落ち着いて統計を見てみると、実態はそれによって飛行機を怖がり、地上移動にこだわった人たちによる交通事故の方がうんと多かった。テロで亡くなった人の6倍のの死者を生み出したのだ。
現在、平均寿命は飛躍的に延び、犯罪率は下がり、途上国の栄養失調はまだまだ多いながらも80年代に比べると飛躍的に改善されている。実は数字だけ見れば私たちは歴史上、もっとも裕福で健康で長生きな人生を送れている。ところが、なぜ私たちはますます怖がってばかりいるのだろう。これはどうしてだろう、と、まぁ、そういう話。
実は恐怖は売り物になるのだ、ということ。恐怖は儲かるのだ。例えばインターネット上の小児性愛者の数。これは誰も具体的に把握していないのにもかかわらず具体的な「予測数字」をあげ、安全コンサルタントやセキュリティの会社は恐怖を盛り上げる。そればかりではなく政治家も同じだ。メディアも同様。なぜならその方が視聴率があがるから。そして本当に率の高い、例えば糖尿病のリスクや喫煙のリスクは置いてけぼりにされていく。ここまではよくある話。
しかもそれは私利私欲だけではない、ともいう。一つの理由にはカルチャー(文化)があげられる。これらは「確証バイアス」と呼ばれる…ということ。
心理学者たちは脳には2つある、と指摘する。システム・ワンと、システム・ツーだ。(古代ギリシャ人もすでにこれを知っており、これらをディオニュソスとアポロンという神の姿に具現化している)システム・ツーは理性であり、それらはゆっくり動き、証拠を調べる。システム・ワンは感情で理性と違って意識的に認識することはなく、稲妻と同じくらい早い。つまりワンは予感や直感、不安や心配の源に、瞬時になってしまうわけだ。ワンもツーも、それぞれに素晴らしいところもあるし、欠点もあるのだが…
著者は自身がまぎれこんだナイジェリアのとあるスラム街での過ちについても告白している。お財布を盗まれた自分はその中に大切に入れていた子供の写真を取り返したいばかりに知らない男についていき、危険地域に踏み入れる。命を落としてもおかしくなかった。この時、子供の写真はあくまで写真であって、それは子供本人ではない。ワンが写真を返してほしいと願う。ツーは「これはおかしいぞ」と警鐘をならす。システム・ワンとツーはそれぞれ「腹」「頭」とも呼ぶことができると著者は説明する。そして私たちは一人一人は高速道路を疾走する車のようであり、それぞれの車の中に運転がしたい原始人と聡明だが怠け者のティーンエイジャーがいると指摘するのだ。
また著者は原子力に関しても言及している。全部は賛成しかねるが、そこにあるのは「リスク」に対する考え方の違いだ。大きな事故になった場合、死ぬ可能性がある人間の数が大きくなれば大きいほど、事故が起こった時、想像する画面が悲惨であれば悲惨であるほど、人々は「リスクが巨大」と考えがちだ。たとえば飛行機事故。ショッキングな画面。血塗れの人々。逃げるまどう人々。そしてその案件に対する理解がなければないほど、勝手に危険意識は高まる。そこに子供がかかわってくれば、それは実態と関係なく、より深刻になる。復元性の少ない、例えば取り返しがつかないような事故も危険意識を異様に高める。(これらはリストになって紹介されている)
例えば人間は、何かが「大惨事」の「不本意な」「不公平な」ことで起こった時にリスクを非常に大きく「感じる」ということなのだ。その確率が天文学的に低かったとしても。
他にも「良い・悪い規則」と著者が名付けた判断バイアスもある。何かに直面した時に人はそれが「良いことか」「悪いことか」を瞬時に判断する。そしてそれが判断を鈍らせることが往々にしてある、ということ。
そして報道のありかた。「例えばバングラディッシュで洪水が続き何千人も死亡したと考えられる」とか「ペルーでバスが横転。35名死亡」とか、この手のニュースはまったくもって聞き流されてしまう。まず、それが遠く離れた場所の人たちであるということ。そして中身。
そういえば、ちょっとこの本とはずれるけど、このアメリカのニュース映像、めっちゃ評価されてたよね。このくらい具体的に見せないと、物事のインパクトは伝わらないぞ、と言うことなんだ。「命を守る行動をしてください」と連呼したところで、人々がやることはたかが知れてる。
こうでもしないと私たちはバカだから、ちゃんと認識しないということなのだ。まさに「一人の死は悲劇だが、何百万人の死は統計」(by スターリン)
話がそれた…そもそもいろいろなことを伝える言葉にもバイアスが多く存在している、と著者は指摘している。言葉を持つことによって人は人とコミュニケーションをとるようになったのだが、チンパンジーがお互いグルーミングで信頼を確認しあうのと比較してみたら、「話す」という手段を手にいれたことで人間は同時に多くの人とコミュニケーションが取れるようになったし、メリットはとても多い。が、同時にそれによる弊害もある、と。チンパンジーのように何時間も時間をかけてグルーミングしていた方が人間界はトラブルが少なかったのではないかとも思わせる。(笑えるよね…)
心配しなくてもいいと言ってくれているのがお医者さんなのか、タバコ会社のセールスマンなのか、それによっても大きなバイアスがかかる。科学者や専門家の意見はリスク判断に一定の役割をはたすことは間違いはないが、専門家と素人の意見の不一致が続いていることでもわかるように、科学者や役人がのぞむほどの影響力はない。(怖いねぇ… まさに今の現状)
また人間はどうしても自分の考えをサポートしてくれる裏付けを指示してしまう、という「確証バイアス」も無意識下で働いている。例えば死刑が正しい制度なのか否かという本を、死刑論者、死刑反対論者、両方のチームに同じ本を読ませたところ、結局どちらも自分たちの考えを強化したにすぎなかったという実験結果も出ている。「人間はいったん一つの見解を受け入れてしまうと、その見解を指示しその見解に賛同するあらゆるものを引き寄せる」そしてより多くのより重要性の高い事実が置き去りにされてしまう危険もあるのだ。
リスクに関する判断、「腹」という無意識の力、そして周りの人々。そして共同体内にある「文化」も重要だ。(こちらは社会学者の領域だけど)
いずれにしても、これらはすべての広告が感情に重きをおいているのことで誰もが確信することだと思う。だいたいは具合が悪いところから始まって、これを飲めば劇的に病気が治る、そしてあなたの生活もハッピーみたいな流れでCMは作られる。このパータンのCMが本当に多い、それは効果があがるから。恐怖を植え付け、そしてこれさえあれば幸せになれる、と誘導する。
そして「利益」を追求しているのは企業ばかりではなく、事前団体・NGOたちも恐怖を利用して会員数を増やし、寄付を増やし、メディアにおける印象を良くし、政治的影響力を強めることを目的としている、と筆者は指摘する。しかしそこにあるのは個人の利益ではなく「公益の増進」だ、と。だって、それが彼らの存在理由なのだから。
例えばカナダの五人に一人の子供が飢えている」というTシャツを来た男性の、そのTシャツのメッセージの出どころを探ると、実はこのデータが不確かなものだとわかったり。(実際は飢えているではなく「家庭が貧困」ということらしい。また数字も本来は六人に一人が正しいらしい…等々)
そして著者は科学者の言葉にも言及していく。科学の言葉は非常にわかりにくい。科学的であればあるほど断定した言葉では説明できない。ちなみに科学雑誌や論文の世界では95%そうであれば、それは確立した事実だと言って良いという定義があるのだそうだ。
例えば地球の温暖化の大部分は、人間の活動のせいだという「強力な証拠がある」「温室効果ガスの増加のせいである可能性が非常に高い」科学者の声明はこのへんが限度なのだ。(難しいーーーっっ!)でも政治家やジャーナリストが欲しい言葉はこういう言葉ではないのだ。条件抜きに科学者が「確実」と声明を出していたら、その科学者は科学者ではなく活動家として話している、と思わなければならない。(あぁ、さらに難しい!)
ちなみに「可能性がある」という表現は66%以上の確率がある時に使う表現なのだそうだ。(あぁ、ややこしい)実際、現在80年代と違って気候変動については、その終わりはホーキング博士らが警鐘をならした文明の危機にはならない可能性もあるというのだ。
そしてジャーナリストやメディアなど伝える側が読むのは科学のデータではなく、あくまでその機関が出したプレスリリース(プレス資料)だという事実も、一つの落とし穴だ。プレスリリースは意図をもって書かれる。もっとも科学的データを直接読み解くことは一般の人にとっては時間的にも、頭脳的にもとにかく難しい。だから書かれる。そしてそこには誰かの意図がかならず介入し、それを伝えるメディアは、不安を売り込むあらゆる組織(企業から慈善団体まで)として、その役割は大きい。
次なる章「活字にするのにふさわしい恐怖」では、メディアのトリックについて詳細に書かれている。「西ナイルウィルスによって病気になった人のうち、どれくらいの人が死亡すると思いますか?」という質問をすると一般の人は、この質問の分母がまったく設定されていないのにもかかわらず「ほぼゼロ」「わからない」と答えたのだという。このような状況を著者は「分母盲目」と呼ぼうと著者はいう。メディアは日常的に「何名死亡」というが、「何名のうちの」とは付けない。(今のウィルス報道とか、まさにこれ! 各都道府県の人口をいちいち見ないと、その深刻さがきちんと認識できない)
例えば「見ず知らずの人間によって殺される英国人の数は8年間で1/3増えた」と見出しをつけたTimesという新聞がある。実際は被害者の総数が99人から133人に増えたということで、この記事を見たほとんどの人が「怖い」と思うだろう。しかしこの社説でのべられていないのは、この数字が6,000万人の英国人の人口の上にある、ということ。これはよ〜くよく考えれば0.0001パーセントから、0.0015パーセントにあがったことを言っているのであって、統計上まったく意味のない小さな数字であることがわかる。先の西ナイルウイルスの死亡者数も、例えば食べ物による窒息者数と比べて比較でもしないかぎり、どういう実態なのか正しく把握することは不可能だ、と著者は指摘する。
しかしどうしてジャーナリストたちは、このような見出しを付けたり、このような記事を書くのか。著者はその答えはメディアの利益の追求以上に、実体は「ジャーナリスト自身がそこに同情し、心を動かされているから」だと説く。そして、これはジャーナリストが人間である以上避けられないバイアスなのだ、と言う。そうするのは彼らが人間だからだ、と著者は断言する。あぁ、人間ってほんとバカ。
またニュースになるためには、何人の人が特定の病気によって死ななければならないか調べた調査によると、なんと1つのニュースになるために8,571人の人が喫煙によって死亡しているのにもかかわらず、クロイツフェルト・ヤコブ病(いわゆる狂牛病)による死者はわずか0.33人しか必要なかったのだ、という。うーん。このバランスの悪さよ…
また面白いことにロードレージとよばれる日本でも一時話題になっていた「あおり運転」についても記述あり。また「サメによって海辺で殺される」ということなども。それはここには詳しくかかないが…(あぁ、まさにこれ、日本の報道にも言えることだよ…全世界共通なんだね)
そして原則の原則として「行われなかった犯罪」はニュースにならない。ここ大事。
ちなみにニュースや報道だけではない。映画の世界でも同様だ。「映画の20%が犯罪映画であり、映画の約半分があきらかに犯罪だと思われる内容を含んでいる」という事実でも感じることができる。うわー そうかーそんなに多いのか。
癌の死亡者数についても同様だ。「今日、米国の学童はほかのどの病気よりも癌でなくなる可能性が高い」という記述がある。例えば62年まではジフテリアのような病気が子供に多くの死をもたらしていた。膨大な数の子供が癌で死亡しているのではなく、膨大な数の子供がほかの病気で死亡しなくなったからなのだ、と。一方でレイチェル・カーソンのように科学物質や薬などは否定的に取る人が多いが、実はそれらによって多くの病気が撲滅されているという事実もある。
また癌の死亡者数が延びているのは、単純に高齢化社会の賜物である、と。すべての人が100歳まで生きるようになったらおそらく一生の間で癌になる確率はほぼ100パーセントになるだろう、と著者は言う。そしたら「癌がすべての人を襲う」とメディアはいうのだろうか?(笑)
そして最後の方になると著者は「テロにあって死ぬ確率」について説明しはじめる。911のテロの巨大さ、理不尽さは私たちにあまりに多くのショックをもたらした。が、冷静に考えてみようと。
(ここでさらに数日前に読んだ絲山秋子さんが書いていた「アクシデントを心配してもしょうがない」というクラゲの考えを思い出す。そうだ、そうなのだ…)
とにかく米国の都市がキノコ雲につつまれ破壊される確率はいったいどのくらいあるのだろう? それを計算する方法は不可能だ。なぜならそれは起きたことがないから、数値計算に用いる数字が存在しないから。データが存在しないので、できることはせいぜい核兵器の製造と利用の可能性に関する複雑な事実を調べて「主観的判断を下している」だけである。と。
911の時、ホワイトハウスは「落ち着いてください」とは言わなかった。また「雷に打たれて死ぬ確率の方が大きいのです」とも言わなかった。ブルームバーグは「椅子に座ったまますべてのことを心配することなどできない。つまらないことはやめろ、と言いたい」と指摘したものの、心臓発作(多くの人にとって重大なリスク)と雷のうたれることとテロリストの攻撃による死亡を一緒にすることによって、本質的に確率を無視していたし、マケインが唯一「呪われたエレベーターに乗ればいい。呪われた飛行機に乗ればいい。せいぜい高波にさらわれる確率と同じくらいだ」と発言したが、それは2004年に書かれた本の中だけで公の場でそれをいうことはなかったと言う。うーん、リーダーたちも心得てますな。
911のテロのあとアメリカは戦争に突入するが、敵はオサマ・ビン・ラディンではなく、サダム・フセインだった…とにかく「世間は恐れていた。直感が恐れろと言い、ブッシュ政権が恐れろと言った」そこにすべての「確証バイアス」がかかった。反対にビン・ラディン側にとっては、彼が「世界の敵」に昇格することは、まさに望んだところだった… まんまと罠にはまったんだね…
そして! 現行のテロ対策の予算の妥当性を考えたら、子供にかける「はしかのワクチン」代などたいしたことがなかったのに、現在はしかによって約30人の子供が1年間に死亡している。ポリオもウィルス撲滅まで追い詰めたが、2003年に予算が底をつき、現在27ケ国で急激に息をふきかえしつつあるという。これ問題じゃない?
そんなわけで史上もっとも安全な位置にいる人間が、恐怖におののくようになるにはこんなにたくさんの理由があるのだ、ということをこの本は指摘している。恐怖の刷り込みから人間は逃れることはできない…
うーん、人間ってバカだし、冷静じゃない。まさに原始人なのにこの情報化社会を泳ぎ切ろうとしているわけで、もうすでにバランスが悪い。だから私たちはこんなに不幸せな気持ちになるのかも。
それにしても面白い本だった。訳もすごくよかった。この本に書かれているキーワード(例えば「腹」「頭」)がそれぞれ英語でなんというのか、想像しながら読んだりした(笑) 余裕があれば原書も読みたいところだ。
ちなみに後書きによれば、著者は2008年の金融リスク(いわゆるリーマンショック)についても、実は言及していたのだという(長くなりすぎるということで本作からは削除されているが)。すごいね。
さて、コロナ禍はいったいどんな風に着地するんだろう。最近自分で製作したカラフル・マスクたち。皆さんも、どうぞご無事で…