「バンドにエイド」アーティスト紹介:ルナサ


禅寺で自分たちの煩悩と戦う?ルナサ。

手前からショーン、キリアン、トレヴァー。トレヴァーの隣は当時日本在住だった妹のローナさん。一緒に京都を観光しました。こういう観光ってメンバー間で温度差がある。こういうのが大好きな人と、別に興味ない、部屋でごろごろしたい、って人と。よく業界外の人から言われることに「なんだ、日本に来たならもっと長くいればいいのに」ってのが多いのだけど、これって仕事で出張したことない人、旅を滅多にしない人のコメントで、正直誰もがみんな観光に興味あるわけでもないし、そもそも彼らみたいな職業でいく先々で観光してたら時間がいくらあっても足りないんだよ。よく首相とか要人がやる2泊4日の弾丸海外出張と一緒。それにプロモーターとしては仕事終わったら寂しいけど問題や事故が起こる前にとっとと帰ってほしいというのが本音(笑)

日本語のMCを教える野崎と必死で学ぶケヴィン。だいぶ前の写真だな…でも場所は覚えている。日立だったと思う。


こちらは最近だね。渋谷にて。


ルナサのメンバーはみんなお寿司が大好き。



もうだいぶ前だけどLAUと共演したこともあったっけ…  それにしても彼らの歴史=THE MUSIC PLANTの歴史だと思う。ありがとう、ルナサ。ルナサが私にくれた素敵な時間には感謝、感謝、感謝だ。

ルナサと出会う前、ウチは単なるメアリー・ブラックの日本事務所だった。CD番号RUCD009(ルナサのファースト)より前の番号(RUCD001〜008)はすべてメアリーもしくはメアリーのレコード会社関連の作品だった。輸入事業って、スケールメリットが大事で、こっちのバンドから100枚、あっちのバンドから100枚とか取ってたら全然利益が残らない。そうではなくてとにかく1,000枚以上の荷物にして現地から出荷する。無闇に広げても利益は出ないのだ。だから新しいバンドやCDを手がけることには非常に抵抗があった。でも、結局ルナサの場合はマネージャーに必死で説得され、かつ最終的にダブリン在住のトレヴァーが車でメアリーのオフィスにCDを納品してくれることですべてが解決した。懐かしいなー。そしてルナサのファーストは結構売れた。

その後、某メジャーのレコ社が「ルナサをやりたい」という話になり、私はある意味結婚する息子を送り出す母親の気持ちでルナサを手放したのだった。ところが結局そのレコード会社はルナサのファーストが売れなかったので、もうセカンドはできない、って言ってきたんだわ。その責任感のなさに呆れたが、まぁレコ社ってのはそういうもんだ。だからセカンドからは、またウチに戻ってきた。出戻り息子(笑)

それからずっとCDをうちで出している長くつきあっているバンドだ。メジャーで一度やったことはそれでも彼らの日本のキャリアにおいて結構大きかったのではないかと今では思っている。まぁ、何事も結果論だからね。わからないけどね。

彼らと最初に出会ったのは、前にもここに書いたが作曲家の光田康典さんのレコーディングでダブリンに行ったときのこと。その前年に来日していたジョン・マクシェリーが出るというので、私は日本人の皆さんを伴って、その「ショーン・スミス・トリオ featuring ジョン・マクシェリー&マイケル・マクゴールドリック」というコンサートに出かけていった。行ったらマイケルは不在で四人のバンドだった。ライブは素晴らしかったけど、私は疲れていたので他の日本人と一緒に早めにホテルに戻ったと思う。光っちゃんだけが目をキラキラさせて「このバンド素晴らしい。最後まで聞いてく」と言って最後まで聞いていた。すごいな、光田さん。先見の目、聞く耳あり(笑)

その数ヶ月後、フルックのところでも書いたが英国のマネジメント会社のベッキーが「こんなバンドがあるんだけど、オーストラリアの帰りに日本に寄りたいんだけど…」と言って連絡してきたのだ。そこに入っていたのがルナサのファーストCDだった。「あ、このバンドならルナサって名前になる前に一度見てるよ」と私はすぐさま飛びついた。

その後、ベッキーがバンドのマネジメントを離れ、ロンドンで長く音楽出版をやっていたスチュワート・オングリーがバンドのマネージャーになり、レコード会社もグリーンリネットからコンパスに変わり、今はまた新しいマネージャー(ポールのところで出てきたトム・シャーロックが現在のルナサのマネージャーである)になり、CDは自分たちでリリースするようになったけど、そして彼らの妻・ガールフレンドもあれこれ変わったけど(笑)、日本はずっと私が一緒にやっている。こんなに長く一緒に仕事ができて本当に私は幸せものだ。

ルナサは1996年くらいに結成。97年にファーストアルバム(ライヴアルバム)「Lunasa」をリリース。結成メンバーはショーン・スミス(フィドル)、マイケル・マクゴールドリック(フルート)、ジョン・マクシェリー(パイプス)、トレヴァー・ハッチンソン(ベース)とドナ・ヘナシー(ギター)という編成。アイルランド伝説のバンド「ボシーバンド」の再来と言われたすごいメンツだ。ルナサとはアイルランド語で収穫祭、8月という意味。その後、マイクとジョンが抜けてケヴィン・クロフォードがフルートととして加入。圧倒的な本数のツアーを重ね、初来日は2001年。その後コンスタントに来日を重ねて、大したヒットも出てないのにとにかく継続できている。これは素晴らしいことだ。他のアイルランドの伝統音楽グループと違ってボーカリストはおらず、あくまでインストルメンタルの「サウンドスケープ」で勝負する彼ら。THE MUSIC PLANTで一番売れたCDが彼らのCD。最近の来日は2013年のケルティック・クリスマス。そして2016年のTHE MUSIC PLANTの20周年公演。

「バンドにエイド」のための選曲は私が提案した。彼らは私に好きに選ばせてくれた。この曲はフルートのケヴィンが書いた亡くなった友達にささげられた曲。このコロナ禍で家族や大切な人を失った人の思いに寄り添ってくれますように。

2曲がメドレーになっているのだが、前半がその「Absent Friends」という美しいメロディの曲。そして続くのが「Ivory Lady」というダーモット・モイニハンの曲。彼がピアノ弾きの妹のために書いた。こういうテンポや曲調の違う曲を組み合わせて素敵な1つのセットにするセンスはルナサは飛び抜けている。途中のブリッジ部分のギターも素敵だ。「Ivory Lady」に曲が映るとそこからぱーーーっと視界が広がるように音が広がり、もうどこまでも飛んでいけそうな気分になれる。そしてケルト音楽が陥りがちなスローな曲=ダサいというトラップも、彼らにかかればかっこいい。スローな曲をかっこよく演奏できるというのは、ウチのバンドに対する最大の条件かもしれない。とにかく「おケルト」は嫌いなのだ、「おケルト」は(笑)。

この曲をレコーディングした当時のルナサはギタリストが定まらず、ドナの後釜はポール・ミーハンになるのか、ティム・エディになるのか、迷っていた時期だった。このトラックにはティムがギターで貢献している。ブリッジ部分の美しいアルペジオは彼ならではのセンスだ。とっても美しい。「Se」は好きなアルバムなのだ。

ドナがルナサをやめたのはすごくショックだった。ルナサの初期のサウンドを決めていたのはドナだったし、私はやんちゃなドナが大好きだった。今はすっかり良いパパになってディングルの田舎に住んでいる。一度ダミアン・ムレーンとのデュオで来日させたけど、まぁ、なかなか難しかったかなー。ドナとは今だにfbで繋がっているし、時々ふっと心のこもった個人的なメッセージをくれる時があって、なんかとても嬉しいのであった。いわゆる「業界」からは離れてしまったんだよね。あんなに才能がある人なのに。でも確かにあの性格だとルナサみたいなノンストップのツアーは難しかったかもしれない。伝統音楽業界もいろいろだよな、と考える。このジャンルは長くやっていても楽になれることなんてほとんどない。まぁ、確かにフェスティバルのポスターに大きく名前が載るようになったり、ちょっとした賞や奨学金がもらえたりといいところもあるが、結局のところ、どこにも出口なんてありはしない。だから才能あっても一線から離れたミュージシャンのことを考えると、ほんとうに「気持ちわかるよ」と背中をたたいてあげたくなる。私もいつまでいったいこのゲームに参加し続けるんだろう、と思う。やめる方の人間の方がまともだ。よっぽどバカじゃないと続けられない。

下の写真はルナサとヴェーセンが渋谷に同時に泊まっているレアなチャンスをとらえたもの。THE MUSIC PLANTの20周年公演。タワーの渋谷店の名物店員さんと。ありがとうございます〜


はい、ルナサとヴェーセン、そしてナヌークのエルスナー兄弟の3つのグループが東京にそろった。我ながらすごいチーム。松濤の開花屋さん。





これは松江の美術館にて。この来日時、ウォーター・ボーイズのリユニオン・ツアーで忙しかったトレヴァーが来日できず、代打で来日したアメリカ人のジェイソンはリアノン・ギデンスのバンドの人でアメリカ人。とても良い演奏を聞かせてくれた。確か現在の奥様(日本人の方)とはこの時のツアーで松江で出会ったんじゃなかったかしら。



福岡の神社にて。この時はみんなで足袋をはいて能楽堂で演奏したのだった。あれもスペシャルな公演だったなー


この舞妓さんとの写真は京都にて。トレヴァーの妹のローナさんが「あれは本物の舞妓さんだったのかしら」といつまでも疑っていたのが思い出される。

そして…うっわー 古い写真。2回目くらいの来日の時かしら。なんでみんなで爆笑しているかというと、ケヴィンが持病の痔が悪化したから、ドクターショーンに見てもらおうかと言ったら、ショーンが勘弁してくれ、と言って車の中は爆笑となったのだ。なんかすごく覚えている。昔のツアーのことは、ほんとに覚えてるんだよねー 泣けるよなぁ!!(笑)


しかしルナサはうちのレーベルにすごく貢献してくれた。彼らに出会わなかったら、私は今だにメアリー・ブラックの日本事務所以上の仕事はできていなかった思う。彼らの音楽と熱意には、私の背中を押す強いものがあった。…というか、私が勝手にそれを受け止めて、本当に必死に彼らのために頑張った。あの頃の自分の頑張りを思い出すと、ほんと今じゃ絶対に無理だと思う。今、振り返ってもどうしてあんな力が出たのか不思議である。