とはいえ、まさか自分が好きな音楽で生活できるようになるとは全く思ってなかった。90年ごろメアリーの音楽と出会ったのだが、当時私はキングレコードというレコード会社に勤務するサラリーマンだった。まわりはおっさんばかりだった。とはいえ普通レコ社に就職というとレコード店周りの営業から始まって、そこから制作関係の方にまわるのが常だったから、最初から洋楽の宣伝という部署につけたのはやっぱりラッキーだったとしかいいようがない。というか、女なのにデスク仕事だけではなく外回りの仕事につけたのはラッキーだった。勝間和代さんもいつか言ってたが、女が社会で認められるためには外に評価がある仕事をした方がいい。ラジオや雑誌の人たちにささえられて、私は頑張ることができた。
最初は音楽業界にびびっていたが、20代でよくあるように仕事を始めて1年もたって慣れてくると「仕事ってやればやるほど損するな」「おじさんってどうしてあんなに仕事ができないんだろ」「会議とか意味ねー」と周りを馬鹿にする嫌な性格の女になっていった。そして会社を辞めたのだが、その時は「もう二度と音楽の仕事などするもんか」と思っていた。
しかしレコ社を辞めてからも遊びに行っていたメアリーのツアー先のどっか(アメリカだったかな)で、酔っぱらったメアリーが何の気無しに「ヨーコがやめてから私は日本に行けてない。また行きたいわ」とさらっと言った。私はそれをとても重く受けとめて、彼女をまた日本に呼ぼうと決意したのだ。すぐに彼女の「Official Representative」になり、私はあちこちと交渉を始めた。
そして95年、彼女は『サーカス』というアルバムでまた来日することができた。レコード会社も移籍し、プロモーターもプランクトンさんになった。来日記念の『ワンダーチャイルド』というコンピレーションCDを出し(このCD、すでに廃盤なのだが、うちに数枚在庫あり)、このタイミングで、メアリーのマネージャーでレコード会社の社長でもあったジョー・オライリーが「旧譜も自分たちで販売しよう。売れたら後から払ってくれればいいから」といって、CDをどーんとウチに送りつけてきた。そうなのだ。日本のレコ社にライセンスでCDの権利を預けると初回が捌き終わったあとは在庫を切らしても製造中止になり権利だけが宙にうくという最悪な結果になることが多かった。そうして送られてきたのが旧譜『No Frontiers』そして『By the time it gets dark』の2枚だ。輸入にかかわる経費、そしてライナーや帯の印刷費は「ワンダーチャイルド」の契約で得たちょっとした利益でまかなった。これがTHE MUSIC PLANTのスタートなのだ。最初は友達の会社の片隅でちょこちょこやっていたのだが、半年もたつとそれは事業として回り出した。そして私は独立できた。だからメアリーとジョーには今だに足を向けては寝られない。
メアリー・ブラックは、今65歳。お孫さんもいるが、本人すごく若くて元気。ツアーからは引退を宣言したものの、けっこうまだまだヨーロッパ公演は行っている。
よくアイルランドというと「エンヤ」が引き合いに出され、エンヤの方が人気あるんじゃないんですか?と言われるが、なんと説明したらいいのか、メアリーの人気はそもそも質がまるで違う。地元での人気というのは、そういうことでは説明できない。
エンヤはロンドンのレコード会社と契約して世界的な成功を収めた。それは大変なことなのだが、メアリーは地元で自分でCDを出し、オファーはたくさんあったもののついにメジャーと契約をすることはしなかった。地元のテレビに出て、地元の歌番組で歌う。雑誌や新聞を広げれば、そこに彼女の取材記事が載っている。彼女の、とても貧しかった子供時代の話に共感するおばちゃんたちも多い。アイルランドのホテルに泊まると朝食のレストランでは彼女のCDがかかり、ウェイトレスはそれにあわせて曲を口ずさむ。カラオケにいけば人々は彼女の持ち歌を歌う…という、そういう立場のアーティストなのだ。
コンサートには老若男女がそろい、彼女のポイント劇場での公演の連続ソールドアウト記録はたぶん誰にもやぶられていないと思う。アイルランドみたいな小さい国で動員の成功を得るのは老若男女全部に受け入れられないとダメなのだが、ヴァン・モリソンでもダブリンでそんなに人は集められないだろう。日本で言ったら誰にあたるんだろう。だからエンヤとはだいぶ人気の質が違うのである。
「バンドにエイド」のための選曲は大好きな「Don't Say Okay」か、はたまた同じアルバムから「I say a little prayer」(小さな願い)かとも考えたけど、結局これにした。私はいつもこの曲に戻ってくる。私の人生のサウンドトラックだ。最新作のオーケストラ版も考えたが、シンプルなアレンジのオリジナル・ヴァージョンにした。最新作の過去の曲のオーケストラ版から取ろうかな、と考えていた時、ジョニ・ミッチェルのカバーである「Urge for going」が最後まで候補に残ったが、最終的にはマネージャーで旦那様のジョーが「好きに決めていいよ」と言ってくれて私が決めた。結局89年のオリジナル・ヴァージョンに。CDで聞くと、意外に聞いているのがドーナル・ラニーのシンセサイザーの味付けだ。デクラン・シノットというやはり元ムーヴィングハーツのメンバーがこの頃のアイルランド音楽業界を支えていた。デクランのプロデュースはやっぱりメアリーのサウンドに他とは違うシャープな何かを与えていたと思う。気難しい感じの人だったが、日本では始終ご機嫌がよく本当によくしてもらった。
この曲の歌詞は本当に不思議で読むたびに印象がかわる。Warmer for the sparkっていうフレーズが好きだ。最初このクラウドファンディングのアルバムのタイトルにしようかとも考えたくらいだった。でも結局煮つまって、ピーターさんに相談することにした。それはよかったと思っている。自分一人で考えていても広がらない。
歌詞対訳はもちろん染谷和美さんにお願いしたのだが、染谷さんは私の発注だけでも三度くらいこの曲を訳しているはずだ。THE MUSIC PLANTのレーベルスタートのカタログの1番はこの『ノー・フロンティアーズ』だった。そのあと紙ジャケットでリリースした時が2回目。3回目は最後の来日公演にキングレコードから出したベスト盤で、それも染谷さんにお願いした。「染やんがオッケーなら再利用でもいいんだよ」と染谷さんには声をかけたのだが、染谷さんは発注のたびに丁寧な新しい訳を出してくれた。
コロナ禍でこの曲を聴くと、いろいろ考えることが多い。不思議な歌詞だ。この曲を書いたジミー・マッカーシーは背が低く、しかし印税のおかげで超お金持ち。毎日大好きな乗馬をし、ものすごい豪邸に一人で住んでいるのだと言う。結婚するならあいつがいいと、いつもメアリー・バンドの連中にからかわれる。なるほど検討してみようかな。