ヘルシンキで食べたサラダ |
「幸せそうに見える女性が許せなかった」という、電車内無差別殺人を企てた男性の供述に震え上がった女性が多いようだ。
私も人から見れば幸せそうに見えるんだろうなぁ。確かにこの自由は何ものにも変えがたい。たまに街にでればサラリーマンの人たち以上に美味しいランチを食べ、サラリーマンの人たちがいけない時間に映画に行き、昼間から銭湯に行き、人が仕事をしている時間に土手を走り、好きなミュージシャンと仕事ができる。
確かに私をしばるものは何もない。強いていえば、今は身体が弱いことくらいか。ま、でも体の中は大自然。自分がコントロールできるものじゃないからね。
大きなテレビもいらないし、化粧もしないから、生活のランニング・コストが低いのが自慢です。
加えて自分の才能やらキャパシティやら何やら考えた上で、おそらく自分が与えられたものの中で一番バランスの良いベストな生活が我ながらキープできていると思う。まぁ、でもそれも人生に対する期待値が低いから、なせているのだ。
実際は、女ひとり寂しく、なんでも一人でできてしまう寂しい「お一人様」で、犬は飼いたいけどそれは無理だし… ていうか、現状だって自分の商売、あがったりだし! いったい老後どうなるんだろうという不安も考え出したらキリがない。
だが、私は幸せだ。実際幸せそうにも見えると思う。
が、それが人を嫌な気分にさせているのもわかる。そもそもこんなブログも書いてて、知らない間に敵を作ったり人をいやな気持ちにさせているのも事実だろう。私だって、いつ背後から刺されるか分からない。
こういう電車の中の事件みたいな極端な例は、何かとニュースになりがちだけど、実際、殺してやりたい心の中で思うことと、それを実行することの差はとても大きいのだ。
普通の人は、その一線を超えない。超えないのが普通なのだ。超えた人は、よほど運が悪いか、悪循環にハマってしまったかのどちらかだと思う。
そういやこの犯人。警察につかまり事情聴取される中で「こんなに話を聴いてもらえるのは初めて」という告白をしていたようで、これって、凶悪不差別殺人をやる人によくあるパターンだから、なんかその辺にこういった問題の解決策があるようにも思われるけど…
でも、こういう人についての考察、そしてその解決方法は、えらい学者の先生などに解説いただくとして、私が今日ブログに書きたいのは、「では私たちはそういう世界でどう生きるのか」ということだ。
私の結論は、こう。そういうことで殺されてしまったりすることは交通事故にあうようなもんだと思うしかない。
でも普段、交通事故なんか心配しないでしょう? 誰もが外へ出れば、理不尽な理由で死ぬ可能性はいくらでもあるっていうのに。
でも、だからこそ! 殺される側としては、だからこそ、そうやって理不尽な事故みたいなことで死ななければならないのだとしたら「死ぬ直前まで人生を楽しもうじゃないの!」ということでいいんじゃないかと思うのであった。
こんな「事故」に「私たちの人生を邪魔されるわけにはいかない」。(映画「ビル・カニンガム&NEW YORK」参照)こんなことによって、ビクビク生きるわけにはいかない。私にとっては楽しく生きられないのであれば、生きている意味がない。
酒井順子さんの「負け犬の遠吠え」に描かれた、歌舞伎や伝統芸能の応援に精を出す女性たちを表現した「いや汁」を思い出した。こんなに世界中の気持ちが沈む今日、私たち、独身女性はいや汁を出しながら、街を闊歩している。
それは自覚しなければならない。でも人の目を気にしてどうする。それによって人生の楽しみを失ってどうする。これからもヌメヌメと「いや汁」出し続けるナメクジにように生きていこうじゃないの。
酒井順子さんの名著。勇気がもらえる。最高ですよ。