リリアン・ヘルマン『未完の女』を読みました #日向敏文 #toshifumihinata


こちらも日向敏文さんの影響で読み始めた一冊。リリアン・ヘルマンの自伝『未完の女』

かっこいい。いちいちかっこいい。歴史が、ある意味一番荒波だった時代の話。その時代を生きた強い女性。

でも強過ぎちゃってつまらないというわけではない。時々弱音を吐き、自分の弱さをも客観的に書く。それも含めて強い。

でも映画『ジュリア』の感想ブログでも書いたとおり、ちょっと芝居がかかってて、どこまで本当なのか疑問!!という視点で読んでみると、なおさら一層面白い。

スペイン戦争や第二次世界大戦時に戦場に行って、爆撃にあった迫力のシーンも、これ作ってないか?と思ったり(ごめんなさい)、兵隊さんたちと缶詰食べたり…というのも、なんだかあまり実感がわかなかった。

確かにそれぞれのシーンは場所が目に浮かぶくらい迫力に描けているのだけれども、それだけに…いや、何より映画「ジュリア」をめぐるエピソードが強すぎるよ、リリアン・ヘルマン!

そういった前提はあるけれど、私が一番面白いと思ったのは、最後の最後に自分に近かった人たちについて書いた章。彼女に本当に近かった三人の人たちの話。

ドロシー・パーカー。そして乳母&料理人のヘレン。旦那であったダシール・ハメット。それぞれがめちゃくちゃ面白い。この章については、リリアン・ヘルマンも正直に書いてるんじゃないか。

それにしてもこの本、なんか構成がよくない。この時代って編集者はどんな存在だったんだろうかと疑ってしまう…とか書いちゃう私も生意気だよね。こんな大変な名著に。…でも「未完の女」と言うけれど、もう少し構成がわかりやすいといいんじゃないかなとも思った。

というか、読者に対して不親切なところがあるかもしれない。そもそもこの本、当時めちゃくちゃ売れたというけど、あんまりエンタテイメント的でないというか…  当時はこういうのでもウけたんだろうか。

そもそも読者にまったく気をつかってない様子なのも、そんな態度も含めて彼女らしい…と言ったらいいのか。

なんだろ。でもその結果、自慢話を聞かされた感がひどい。まぁ、とにかくそういう本なのだった。シルヴィアの本みたいに可愛くない。可愛いところがまったくない。

ちょっとミソジニー的発言かもしれないけど、女の人って、ファッションやらライフスタイルを誇示するタイプならともかく、仕事や本来の生活ではあんまり自分を盛らないもんだと私は理解している。少なくとも私の知っている、仲良くしているワーキングウーマンはみんなそうだ。

彼女たちは、みんな割と現実的だし、自分の仕事に対して盛らない。盛るのは成功した(もしくは一度成功したものの、あまりその後その成功が持続していない)おじさんたちだ。盛るのはおじさん的だ。おじさん的態度だ。

いつだったか、某名門音楽ホールの偉い人(男性)に「野崎さんの企画いいねー うちの大ホールで共催どうかねー」と言われたことがあった。

が、私が「い、いやっ、うちのアーティストなんて大ホールいただいてもお客さん埋められないんで、結果ご迷惑かけちゃうんで無理です」とか言って断ったら、そのホールの偉い人は、「いいねぇー 僕は女性プロデューサー大好き。みんな現実的で正直だもんね、プランクトンの川島さんもそうだけど!」といたく誉められたのであった。

そう、女性プロデューサーは現実的で、盛らない。盛ったところですぐバレるのがわかっているから。

でも、女の人でもすごい成功しちゃうと自分のこと、盛っちゃうのかもしれない。女性の社会進出が進むにつれ、成功している(もしくは成功していると思われている)女たちも、自分のキャリアを盛ってしまうんだろうか。それじゃおじさんたちとあまり変わらないように思えるけど!!

とはいえ、特に私より若い世代には、どうどうと仕事や社会的に地位について、自分で自分を盛れる女性が増えてきたかも。ま、女性蔑視うんぬん以前に、結局人間なんて盛らずにおれない、男も女も関係なくレベルが低い生き物なのかもしれない。

話をおもしろくするために話を盛る人もいる。そういう人は、その嘘にはあまり悪意がないのも特徴だ。加えて、なんども嘘をついて盛っているうちに、自分でも嘘と本当が分からなくなって、嘘をそのままそれを自分の記憶として固定しちゃうわけだ。

リリアン・ヘルマンもそんな感じなのかも。彼女は成功してお金持ちだったし、干されたこともあったけど、たくさん旅をしてインテリだった。

でもそれも含めて、自分のなりたい自分(あくまで自分が生きた時代の中で)「これが私の生き方だ」って、自分の人生を総括してんだから、やっぱすごいわ。すごい人だわ。

この本の最初の方に書かれた大叔父に誕生日にもらった指輪の話とか、めっちゃイカしてる。リリアンは速攻でその指輪を質屋にいれて本を何冊も買ったんだって。

そしてすぐに大叔父のところに行って(ここがリリアンらしい)「あの指輪は本にしました」と自己申告。

大叔父に怒られるかと思いきや大叔父は「お前は根性があって素晴らしい。このファミリーの他の連中ときたら、砂糖水みたいなのばっかりだ」と声をあげて笑ったそうだ。

このエピソードなんか、めっちゃ嘘くさいと思いませんか?

このエピソードが本のかなり冒頭に出てきたので、私はもう嬉しくなってしまって「やっぱ、リリアンは嘘つきだ」「自分は他のバカなやつとは違う、こんな一風かわったすごいエピソードがある」と自分のことを盛ってると確信したのだった。

そう思いながら読んでもこの本は抜群に面白い。とにかく痛快なのであった。

それがすべて嘘だったとしても、彼女が子供の頃の親戚の人たちのエピソードはなかなかなものだ。

例えばオールドミスと叔母さん二人の存在も最高だった。

叔母さん二人は、なんというかいーかげんというか、ユーモアのある人たちで、避妊のためには「神聖なる行為の前には氷水をコップに一杯飲みなさい」とか結婚を控えた近所の女の子に適当なアドバイスし、それじゃあ妊娠しちゃうでしょう、と言うリリアンに「相手の男はどうせお金目当てだから、すぐ棄てられるわ。でも何人かの子供だけは彼女の手元に残る」と話す、など(笑)

また、その後リリアンが結婚する時に叔母たちは「氷水の話は忘れなさい、時代は変わりました」と手紙を送ってよこしたらしい…など。

なんか、もー、いちいち、いちいち最高なのである!

何度も書くが、あくまでこれは彼女が自分の強い部分だけ書いている本ではない。「こんな強く見える人でもこんなに弱い部分があるんだ」的、彼女の筆に響く部分もたくさんある。

例えば「アーサー(最初の夫)は私の怠惰ぶりが気にさわったのだ」みたいな自己分析も興味深い。

「そのころの年月については、自分自身についても、他の人びとについても、いつ、どこでというはっきりとした記憶がない。わかっているのはただ、自分が無知なのに賢いふりをし、怠け者なのに勤勉をよそおっていたということだけである」なんて書いちゃってる。

結局は「私にはわかってた」「わかっていながら気分が乗らないからサボってた」みたいなことを書きたいだけじゃんかよ!おいっ!とツッコミたくもなる。

演劇界での成功や著名人と呼ばれる人との出会いについてもヘルマンは「(自分は)屁でも思ってない」ということが、彼女のペンによって、何度も何度も強調される。

ハメットの手紙「君は演劇なんか好きじゃないんだ、自分の部屋に閉じこもって芝居を紙に書いている以外はね」というのもすごいし、それを嬉々として自分の自伝に書く彼女もすごい。

私も「お前は音楽なんか好きじゃないんだ。自分の部屋に閉じこもって自分のやりたい企画書を書いている時以外はね」と言われてみたい!

この感じわかるんだ。私もよくすごい音楽ファンで、音楽をたくさん知っているように思われることが多いのだけど、そんなことは全然ない。

ただ自分が担当した音楽家のことはよく知っていると思うし(知らない人とは仕事しないし)自分なりに知ろうと努力をしてきたつもりでもいる。ただただそれだけだ。

それを指摘されると、逆に嬉しい。私は音楽ファンなんて屁とも思ってないのよ!的なオーラが自分の中から出てしまっているのがわかる。

そんなふうに自分のなかの「リリアン・ヘルマン性」を自分の中に見つけるのだ。「リリアン・ヘルマン性」=「リリアン・ヘルマンをリリアン・ヘルマンたらしめているもの」You see your gypsy!  ( by Stevie Nicks) 

そして、リリアンの恋愛観が、これまた捻くれている。ヘミングウェイはモテモテで、シルヴィアの本にも最高の人物に書かれていたけれど、リリアンも「私はアーネストが好きだった。もし彼に声をかけられたら、女としてアーネストを好きにならずにいることはむずかしかたろう」。

きゃー いちいち憎いね!!

また原稿をめぐるちょっとした際どいエピソードもあって、ヘミングウェイったらリリアンに「僕は君と寝たい。でももう決まった人がいる」みたいなことを言わせて、リリアンはぎゅっと抱きしめるというシーンも❤️ 

シルヴィアの本でもそうだったけど、ヘミングウェイ、いちいちチャーミングだよなぁ! でも、そういうの書くかなぁ!(笑)ま、相手が死んじゃったらそれでいいのか。

それにしても、旅をするのは大変だった時代に、外国へ行き「わが国の外交官はほんとになっとならん」とかバッサリ切り捨てるのもいいし、「フランツ・ヨーゼフ時代のウィーンだったらよくその職務を果たしたかもね」とか嫌味がすごい。嫌味嫌味、あちこちに嫌味を言ってまわる。それ言ってる、あんたはいったい何様?!(笑)

実際、戦争中の記述はすごいものが多いが(食べ物がないとか)ロシア人が貧しい中でパンを買うのにも苦労する中、コンサートを聞くためにも長蛇の列で寒い中長い時間並んだりしているのに感動している様子も描かれていてグッとくる。

みんな飢えているのに「昨年は何百万冊の本が売れたとか、40軒あまりの劇場がすべて満員だとか、凍てつく夜にバレエやコンサートの切符を買おうとして行列する人びとがいる」と戦時中のロシアに住む人々に心を寄せている。

確かにそういう体験をすれば、いったい芸術とはなんだろう、いったい音楽とはなんだろう、いったい人々はなんのために生きてるのだろうって、あれこれ考えずにいられないもんね。

しかし私がこの本で一番好きだったのは…最初に戻るが…最後に自分の人生に関わり合いの深かった三人の人物を紹介するくだりだ。

一人は親友のドロシー・パーカー。親友とはこういう間柄なのかとちょっと震えた。特にベタベタと仲良くしているわけではない。でもお互いのことを思いやり(特にドロシー・パーカーは結構貧しかったらしい)そのことを言葉でストレートに言うべくもなく察したり、おもんぱかったり…。

最後貧さにあえぐ彼女のためにピカソの絵を売り小切手を送った件など、本当に泣ける。

二人目は意外にも彼女のナニーおよび召使だった黒人女性のヘレン。このヘレンの存在はおもしろくて、ヘルマンは「大親友だ」と強調した二人の黒人女性召使をひとりの「ヘレン」というキャラクターに統合している。

最初の召使はサフロニアといって子供のころのナニーだった。とにかく彼女とヘルマンは近い近い存在だった。「彼女と一緒にどこかに消えてしまいたい」と少女だったヘルマンは何度も思ったそうだ。そのくらい二人は近い存在だった。

そしてもうひとりの召使はヘレンという彼女の人生の後期についた料理人召使だった。ヘレンは気位の強い人で、ヘルマンと互角に口喧嘩したりしている。が、この二人もものすごく近かった。

この二人のある意味「召使の黒人女性」をすごく近くに感じていたのも、ヘルマンの孤独な部分や性格をあらわしているようにも思う。そしてその二人の存在をひとりの「ヘレン」として統合しちゃっているところもリリアンのなせる技だ。

黒人の召使とはそうしたもので、ものすごく近く愛情を持っていたけれど、彼女たち二人の存在を決定的なところで軽くみていたのかもしれない。

そして最後の三人目「ダシール・ハメット」も。誰よりも親しく、誰よりも愛した、とヘルマンは書いている。

ハメットに先に亡くなられた時の寂しさも彼女のペンにかかるとすごくリアルである。この感じわかるなぁ。私も何が寂しいって、ツアーが終わると感じる、会話がなくなって寂しいんだ。

私もツアーともなれば、リリアンとハメットの関係性同様、めちゃくちゃミュージシャンたちと近くなる。一気に家族みたいになる。

一方でミュージシャンが帰ってしまえば、なくなってしまって寂しいのはコンサートでも、彼らの存在でもなく、ただただ彼らとの会話なのだ。あの会話がないのが寂しくてしかたがない。近い相手ってこいうことなのかなぁとしんみり思う。

だから、この本に書かれているハメットとリリアンの「あぁいえばこう言う」みたいな会話が、ものすごくいいんだ。彼女もこの本を書きながら、彼との会話を思い出し、慈しんでいたのかなぁとちょっとせつなくなる。

まぁ、そんな強い面も弱い面も全てをふくめて彼女がかっこいいのは間違いなく、この時代の女の人は、そしてリリアン・ヘルマンは、すごいなぁと再び感心する私なのであった…。

リアルに知ってたとして、友達になりたいタイプかって? それはご遠慮したい。でも年が20くらい上くらいの位置で、目標にすべき先輩として君臨してくれていたら、これほどわかりやすい存在はないのかな… 。


この時代のかっこいい女はみんなタバコを吸っている(笑)


日向さんの新譜「Angels in Dystopia」の配信リンクなど貼り付けておきます。Spotify


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CDのアートワークもとっても素敵なので、ぜひCDもよろしくです。