北海道大学『レナード・バーンスタインの生きた世界と残したレガシー』前半「PMFにみる世界と芸術」レポート


決まってからずっと楽しみにしてた講演!!!

というわけで札幌レポートの続きです。ついに北海道大学にやってきました。実は北海道大学に来るのはこれで2度目なんですが、何回見ても大きな大学だよなぁ。まるで森みたい! 


講堂の入り口はレニーの写真が並べられていました。この写真本当に素敵。若い演奏家たちを前にバーンスタイン、本当に嬉しそう。


まず講演の第一部は「PMFにおける未来と芸術」というタイトルで吉原真里さんの司会で『親愛なるレニー』の主要登場人物の一人である橋本邦彦さん、そして音楽ジャーナリスト・評論家林田直樹さんが登壇されました。

今回も録音はせず、自分の汚い手書き文字のみが頼りで、このブログを書いてますので、誤解やよくわかってない部分があると思います。なのであくまで文責:野崎でお願いいたします。間違いなどがあったらすみません。会場にいらした方のご指摘もお待ちしています。

ちなみに橋本さんはこの講演のため、シドニーからはるばるやってきてくださったのでした。(ま、吉原さんもホノルルからやってきたのですが)

まず『親愛なるレニー』の著者である吉原さんからバーンスタインのプロフィールの簡単な紹介がありました。

バーンスタインは作曲家、指揮者、ピアニストとして大変な才能を持っていただけではなく、核兵器廃絶、AIDSなどの問題に時間もお金も注いだ平和主義者でもあった、と。また同時に優れた教育者でもあった、と。

そしてこの札幌でのパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)は、晩年のバーンスタインの最も重要なプロジェクトだった、と。

橋本さんは、このPMFの第1回目にバーンスタインのアテンドとして札幌に来られて、その後2010年の13回目までは芸術監督のアテンドなどで毎年参加されていたそうです。「14年ぶり、まるで浦島太郎です」とお話しされていました。

一方の林田さんは完全に毎年というわけではないけれど、長い間このPMFを取材されてきたそうです。またバーンスタインの考え方に大きく共鳴する一人です、ともおっしゃっていました。橋本さんが手がけたソンドハイムの翻訳などについて、以前橋本さんに取材したこともあるとのこと。

まずなぜPMFが札幌で、という話題になりました。

バーンスタインは日本で合計7回ツアーしているけれど、中国に行ったことがなかった。その時点でアイザック・スターンなどはすでに中国に行っていたので、バーンスタインも行きたかった、ということがあったようなのです。

またプロジェクトが立ち上がった当初から普通の演奏旅行ではなく、教育事業をからめたものにしたかったのだそうです。でも中国でやることがまとまりかけた89年6月に天安門事件があり、プロジェクトはストップしてしまいます。

しかしとにかくタングルウッドのような企画をアジアで、とバーンスタインの強い希望により日本の企業がスポンサーとして手をあげました。

この企業は野村證券。実は野村は中国でやるかも、と言った時点で、すでにスポンサーとして立候補していたのだそうです。

89年、時はバブルのまっただ中。野村證券は空前の収益を得ていたわけです。そしてプロモーターや代理店の旭通の大変な努力をした。

当時はとにかくスポンサーがよくゲットできた時代。マスコミがスポンサーから距離を置き独立した権力を持っていた時代。放送局はとにかく広告がとれた時代であったわけです。

当時、代理店の仕事、メディアの仕事は、スポンサーを断ることだったと言うくらいだったんですよ、と林田さんの解説。

(確かにメアリー・ブラックがPENTEX、チーフタンズがパナソニックのスポンサーのもと初来日したのもこの頃)

バーンスタインのマネージャーだったハリー・クラウトのインタビューによって林田さんが知ったところによると、バーンスタインは野村の社風がとても気に入ったのだそうです。

いわゆる証券会社としてはメガバンク系ではなく、独立系で、営業スタイルとしても人中心の会社だったということ。そして田淵義久社長とバーンスタインは実際にあって会合し、意気投合したのだそうです。

さてPMFの初年度の90年。橋本さんはすでにシドニー在住だったわけですが、日本のレップということで、この仕事に駆り出されることになりました。

橋本さんによるとすでにかなり前から(開催地が中国だった時から)、こういう企画があるからスケジュールをあけておいてくれ、という話はバーンスタイン側からはあったのだそうです。

「とにかく僕が担当したのは雑用、ロジスティックなどでした」と橋本さん。移動の手段や距離感のチェック、3度の食事、ホテルのチェックなどなど。

ちなみにあらゆることの下見のため札幌の某高級ホテルのスイートルームにスタッフ、橋本さんで宿泊したそうなのですが、お風呂がジャグジーで、お互いの部屋に電話して「おい、今、風呂に入っているんだけど、ハワイの波のBGMがあるよ」と(笑)。

「おお」とみんなでスイッチオンして楽しんだそうですが、後で調べたら「あそこは高級連れ込み宿なんですよ」との情報が(爆)。そんなエピソードに、講演会場内も大爆笑となりました。ちなみに今、そのホテルは今は普通のビジネスホテルに変わったそうです。

バーンスタインが亡くなったあとも田淵社長と旭通の小林さんは、毎年開会式にも訪ねてきてくれているだそうです。いやー 本当に音楽がお好きなんでしょうね。素晴らしいなぁ。

ちなみに橋本さんの極秘情報によると、スポンサーや「ウエストサイドストーリー」などの上演権には非常に厳しいチェック体制をしいていたバーンスタインなんですが、とある(今話題の)日本の大手芸能事務所が「ウエストサイドストーリー」を上演したがったということがあったのだそうです。が、それには許可が降りなかった。いわゆるバーンスタイン側の身体検査にこの事務所は通らなかった、ということなんだと思われます。さすがですよね。

とはいえPMF、あの当時はバブルの絶頂期で、果たして教育の重要さなどの理解が追いついていたとはとても言えなかったそうです。またなぜ札幌でやるのかということについても、あまりよく認知されていなかったんだって。うーむ。

しかし札幌は当時72年の冬季第1回オリンピック以来、いわゆる大きな国際的行事がなかった。世界・食の祭典というイベントを打ち立てるも、これは歴史的大失敗に終わっていた。

当時の板垣武四市長はPMFの話が来た時、これは絶対に今の札幌に必要な国際的行事だと直感したのだと思う、と林田さんは説明します。とにかくものすごく強い意志で、ほぼ突貫工事の第1回のPMFを実現させた、と。

一方の橋本さんはとにかく一行のお世話係。バーンスタインが癌だったのは知っていて主治医を連れてきていたのだけど、それが鍼師だったのにはとても驚いたのだそうです。でもニドムの環境は最高で、バーンスタインがだんだん元気になっていく様子が感じられたのだそうです。

また若い子たちを目の前にすると、バーンスタインは水を得た魚のように元気になっていくんですよ、とも。

橋本さんのお話では、バーンスタインは若い子たちに対して本当に気をつかっていたし、いつも心を寄せていたのだそうです。

たとえばチケット代が高く若い子には難しいということを知ると、じゃあ学生たちのための公開リハをやろうと提案してきたそうで、そしてそのチケットは子供でも買える値段にしたがったのだそうです。すごいですよね。

後にPMFに来るようになったベルリンフィル側は、俺たちは絶対にリハを公開しないと主張していたのだけれど、最後はバーンスタインの意思を理解して公開するようになりました。こういうところも、本当にすごい。

橋本さんによればバーンスタインは人に教えたいって気持ちがすごくある人で、一つアムステルダムの素敵なレストランでのエピソードを教えてくれました。

アムステルダムの、運河のそばの素敵なレストラン。そこはいわゆる映画スターやロックミュージシャンなどがやってくるセレブな場所だったそう。そんなわけで一行がレストランで食事をしていると、スタッフがこれにサインしてくれ、とバーンスタインに分厚いノートとペンを差し出してきたのだそうです。

バーンスタインはそれを受け取ると自分がサインするだけでなく、前に書いたスターのこの英語の綴りが違うとか言って、他のページに書き足したりしちゃってた(笑)

それが一つや二つではなく何ページに渡ってそんなことをしているので、橋本さんは「あれ、あとでスタッフが見てびっくりするんじゃないか」と心の中でヒヤヒヤしたそうです。「本当に学校の先生と同じなんですよ」と微笑ましそうに語る橋本さんが印象的でした。またこのエピソードには会場のお客さんも大爆笑していました。

とにかくバーンスタインにとっては学生たちに教えることが生きがいだったのそうです。

また橋本さんはPMFの最中、ずっとニドムのことにかかり切りだったそうです。なんとスタッフは総勢何人かいたそうなんですが、英語をしゃべれるのは橋本さんたった一人(笑)

ホテルの交換手も英語があぶなっかしく、国際電話が変な時差でかかってくると、すべて橋本さんに回された、と。それこそ朝食のオーダーから何から橋本さんは必死で対応していったのだそうです。

ちなみにニドムではバーンスタイン一行がくるということでフランス料理のシェフを雇って準備していたのだそうです。が、一行が到着し最初に食べたいと言ったのは「和食」(ここでも会場は大爆笑。橋本さんの話し方もすごく上手なんだもの・笑)

そこで慌てたニドムでは苫小牧までお寿司の出前を頼んだとか…。「和食のシェフがいないって言ってくれたらよかったのに」と橋本さん。他にもスーパーへの買い出しなども橋本さんはお手伝いされたんだそうです。

続いて林田さんのお話。第1回のPMFが終わり、バーンスタインが亡くなり、90年の大晦日12月31日。ニューヨークの教会での追悼式に参加した板垣市長は「札幌はPMFを永遠に続けます」と宣言されたのだそうです。

これは正直かなりおおきな話で、教会でみんなの前で宣言することの重みは契約書にも等しい、と。あら、Eternallyって言っちゃったよ!と。

でもその気持ちですよね。その後札幌の市議会で、市長はなぜそれを言ったかの議事録などもウェッブに上がっているそうですが…。林田さんいわく、とにかく市長はこれは札幌にとって良いことだと強く強く確信したのではないか、と。

すでに故人となった市長のこんなお話を、林田さんは満子夫人から聞いたとのことです。本当に板垣市長は素晴らしい人で。札幌の礎を作った人。本当に札幌愛に溢れる人だったと。

たとえばこんなエピソードがあるそうです。お中元だかお歳暮だかに市長にミネラルウォーターを届けた人がいたのだそうです。そしたら市長は激怒。「これは洗濯物に使え、札幌の水道水の方が数倍うまい、札幌の水は素晴らしいんだ!」と。

PMFはいっときの熱狂ではない、と。クラシック音楽には詳しくない自分がいる。しかしこれは大切なものだと市長は直感的にわかっていたのではないかと林田さん。うーん、熱いですね。でもなんかわかる。そうなんですよ、直感的にわかる時ってあるんですよね。

そして今回、コロナ禍以来4年ぶりに林田さんはキタラのホールでPMFオーケストラのコンサートに行き、世界中から多国籍の多くの若者が集まって一つの音楽を奏でている様子を久しぶりに見て、改めて感激したのだそうです。

ここでお互い言葉も通じないミュージシャン同士があつまりコミュニケーションを取り、一つのオーケストラになっていく。そして彼らが5年後、10年後になって、世界の中心となってまた札幌に、今度はさらに若い人たちを教えにくる。

青春の一コマをここで体験できることは本当に重要。60歳、70歳の時の一夏とはまったく(笑)違う。ここでの思い出を一生持って生きていうことになる。多くのミュージシャンがここでの経験を人間として人生を変えるような経験ができたと熱く語っているのだそうです。

こういった経験は本当に宝物!!!

そんなわけで、バーンスタイン亡きあとの第2回目は本当にピリピリしていたのだそうです、関係者全員おおきな重圧感を感じていた。でもPMFの組織員会もすごく頑張って、素晴らしかった。

ここで、某指揮者さんの面白エピソードも満載で、会場は爆笑の渦に… (このかたの名誉もあると思うので、お名前とその内容は内緒にしておきます)

でもそういった問題があった時に、組織委員長があえて頭をさげて場を納めたり、本当に素晴らしかったのだそうです。改めて大変な人格者だと、今でもとても尊敬していると橋本さんは話されていました。

橋本さんはまたバーンスタインの娘さんのジェイミーが書いた音楽を弾ませるものなーにの翻訳に関する楽しい「バナナ・チョコ」のエピソードなども披露されました。

バーンスタインはとにかく音楽のジャンルを超えた楽しさをみんなに伝えようとしていたんですよ、と。

そういえば映画「TAR」でバーンスタインのYoung People's Concertのエピソードが流れます。音楽って何? 言葉にできないものを音楽で表すんだよ、と。予備知識はいらない。感じればいい、と。


ウィーンフィルは必ずザルツブルグ音楽祭と、このPMFには毎年参加してくれているのだそうです。ウィーンフィルの人たちはバーンスタインの音楽家としての原点を確認しに来るんですよ、とてもそれは大きいことです、と林田さん。

(そういえば、ウィーンフィルで首席チェロを長く務めたマティアスのパパが書いた本のバーンスタインの部分を思い出した)

とにかく続けていくのは本当に大変。この素晴らしい音楽祭に世界のいろんなところから、若い音楽家が集まる、そしてそれがロンドンでもロサンゼルスでも東京でもなく、経緯はともかく今もこの札幌で行われていること、その意義を噛み締めてほしい。

ここで吉原さんから提言。たとえばこの素晴らしい音楽祭が長く続いていくために、たとえばアイヌや開拓、そしてロシアとの交渉といった日本の中でも固有の歴史を持つ、他の国、都市にはない北海道の歴史を打ち出していくのはどうか、と。

バーンスタインは音楽だけでなくリベラルアーツ教育というものにすごく力をいれていた。とにかく今後のPMFにも大きく期待します、と。

この素晴らしさに感激しっぱなしではなく、とにかく長く応援し、続けてください。たとえばチェロ以外は立って演奏とか、新しいことをやっていこうとする力。そして自分の知っている過去のレガシーを次に伝えようとする使命。過去から掴んだ大事なものを強い意志をもってつなげていく。PMFがそうやって機能していくことが大切。

いろいろ現状は厳しい。日本の経済も厳しい。「そんな中でトップレベルの音楽というだけでは生き残っていけない。それよりも「札幌ならではのもの」「札幌にしかできないこと」の追求を…という提言があり、前半は終了しました。

休憩中はずっとレニーの映像が会場に流れていました。それを見るだけでも、なんだかウルウル。