似顔絵。資料なしで描いたから、あまりに似てないけど
目が丸くて、エクボができて、いつも黒を着ていたベッキー。
まず紹介したいのは、初代マネージャーのベッキー。ベッキーはマンチェスター出身で、たぶん年齢は私と同じかちょっと上だった…かな?
ご両親はマンチェスターのフォーククラブのオーナーだかで、とにかく子供のころからフォークシーンと密接につながっていた人。
最初に紹介してくれたのは、クライブ・グレッグソンとそのマネージャー:ジョン・マーティン(ギタリストの同姓同名の方とは違います)。ちなみにご存知の人も多いかもですが、クライヴとジョンとは前職のキングレコード時代に知り合ったのでした。懐かしいなぁ。というか、今現在の私の人脈。だいたいメアリー・ルートか、クライヴ・ルートかで繋がっている。
繋がりって本当に大事で、大切に人脈を暖めていると、次の仕事につながるんですよね。本当に人脈大事。当時はインターネットもソーシャルネットワークもなかったから、ひたすら人脈のみだった。
クライヴとジョンとはキングレコードをやめてからも連絡は取っていた。そこにフリーになった私に(フリーというか友人の経営するPR会社で働いていた。だから自由にいろんな仕事ができた)、知り合いのイベント会社からデパートの英国フェアをやるから、そこで演奏するトラッドバンドを紹介してほしいと言われたのだった。で、わたしはまずジョンに連絡をしたのだった。
ジョンって本当にいい人で、クライヴ・グレッグソンとクリスティン・コリスターをやった時も「一緒に日本に来ない?」と誘っても「大丈夫、二人はしっかりしているから。それよりその予算を経費や宣伝に使って」とか言ってくれちゃうくらい素敵な人なのだ。
まったく来てみたら、全然ロードでは役に立たない事務所マネージャーとかエージェントとか、メンバーより手がかかる面倒くせーやつとか、たくさんいる中で、本当にジョンは素敵だった。今、どうしているんだろう。
こちらはグレッグソン&コリスター。
…と思って、facebookを探してみたら、共通の知り合い27人のJohn Martinさんと(しかしおそらくアイリッシュ)、あのギタリストのJohn Martinさんと、共通の知り合い4人のJohn Martinさんらが次々とあがってくるが、どれも該当しない。また会いたいよなぁ。いったいどこにいるかなぁ。Topicあたりに聞けばわかるのだろうか。
で、その英国イベント会場での演奏をやってくれる人、誰かいないかなと仕事をオファーした(ギャラも悪くなかった)私に、ジョンは「僕よりベッキーが適任だよ」「最近大きな交通事故に遭って大変だったから彼女にこの仕事を回したいんだ」「僕よりも広いネットワークでバンドもたくさん知ってるよ」とベッキーを紹介してくれたのだった。
当時はとにかくファックスですよ。ベッキーはいつも私に丁寧なファックスをくれた。そしてそのデパートのイベントのような変な案件でも、本当に真面目に対応してくれた。
で、コーディネイトも完了しつつミュージシャンのスケジュールを押さえたと思ったら、なんということか、その案件が突然キャンセルになっちゃったんだよね。
でもそのイベント会社さんはちゃんとしていて(今でも付き合いがある仲良しの事務所です)「日程まで押さえてもらってたのだから」とキャンセル料をきっちりバンドに払ってくれたんだよね。
そしたらベッキーはいたく感動してくれて、「こういうのでキャンセル料が出ることは英国ではあまりない。本当にありがとう」と丁寧にお礼を言ってくれた。そして、その後、定期的に彼女は自分のバンドの資料を私に送ってくるようになったのだ。
私は私でメアリー・ブラックの事務所に頼まれて、友人のPR会社の片隅でレーベルを運営するようになっていた。
そしたらある日、ベッキーからとあるバンド資料が届いたのだった。それがルナサだった。そして私は気づくのだった。「あれ、これって前にハーコート・ホテルで見たバンドじゃん」と。
実はその前年、私は光田康典さんのゲーム音楽のレコーディングの仕事でダブリンに来ていた。偶然見に行ったライブが「Sean Smyth trio featuring Michael McGoldrick and John McSherry」というグループだった。つまり、のちのルナサである。
当時のメンバーはこんな感じ。この映像は、それより後のオーストラリアツアーの時かな?
なので、妙な縁も感じたし、何よりベッキーからの連絡だったから、できることならば、なんとかしてあげたかった。当時、まずやることといえば、資料を翻訳して日本語のバイオを作り、CDをメジャーなレコード会社さんに持ち込むことだった。まぁ、当時はいい時代だったからな…
とはいえ、こんな地味なバンドがそう簡単に日本発売は決まらない。が、ベッキーは諦めない。何度も目張り強く私を説得しにかかった。
私は私で、じゃあしょうがない、少しの量でもいいから、もうこうなったらウチで輸入しようかと思い立ったのだった。実際、CD輸入事業もまずまず好調だったこともある。
ご存知の方も多いだろうが、ウチのCDはほとんどが輸入盤ベースだった。ライセンスでやるには1,000枚以上売れることが必須で、かつ契約書やらなにやら作業が面倒くさい。一方、輸入盤というのは「貿易」だから、まぁ、楽は楽だった。
ただそこで考えなくてはいけないのは、いかに効率よく作業をやるか、ということだった。つまり一度に輸入できる量を増やしコストパフォーマンスを良くし、手間をかけない方が利益は出るというビジネスなのだ。
ルナサと仕事をする前までは、私のレーベルはメアリーの事務所のCDを送ってもらうことで回っていた。これが、ルナサと、メアリーと二箇所に分けてしまうと、どうも効率が悪い。
しかも銀行送金による支払いだって、今みたいにWISEとかないから、当時送金一件は6,000円とか結構高額だった。だから二箇所別々に支払っていては、とてもじゃないけど仕事がなりたたない。イニシャル(初回出荷)はそれでもいいだろう。でもレーベルとしていったんカタログに入れたからには、きちんと在庫を管理して販売し続ける義務がある。
古巣のキングレコードや多くの洋楽レーベルみたいに権利だけ保有し、在庫切らして、かつ他のレーベルは手をつけちゃいけませんというのは悲劇以上の何ものでもなかったから、私はそれだけは避けたかった。
なのでなんとか業務を簡略化しようと、当初メアリーの事務所にお願いし、メアリーの事務所でルナサのCDを入荷してもらい、そこからCDをまとめて輸入しようとトライした。
が、当時メアリーのレコード会社のDara Recordsの輸出部門をやっていたポール・ヘファナンは、私が出会った中でも、もっとも仕事のできない奴の一人だった。というか、アイルランドや英国で、若い人がちゃきちゃき仕事をするのは、当時はあまりなかった。英国なんて、ほんと英国病もいいところだったし… という話はさておき。
とにかく何度話しても全然話が進まない。
まぁ、でも気持ちはわからないでもない。たとえばルナサのCD1枚につき1アイリッシュポンド載っけたとしても彼らにとってはビジネス的うま味があまりないのだ。そんな少額ビジネスのために自分の仕事が増やされたらかなわん…と、ポールの立場もわからないではない。
仕方がないので、会計をまとめるのはあきらめ、それでもせめて輸入通関は一箇所で行おうと、荷物だけは一箇所にまとめようということになった。これにはポールも折れた。
そしてルナサのCDはダブリン在住のトレヴァーがメアリーの事務所に運んでくれることで、なんとか輸入ルートが確保できたのだった。
そうやって、ルナサのファーストの輸入が始まった。CD番号はRUCD009番にした。当時、私のいた会社がRANK UPというPR会社だったから、私が出すCDはRUCDという番号がついていた。(ちなみにこれは今でも同じである)。
しかし008番までは。全部メアリーのレコード会社のCDだった。ルナサはRUCD009番だ。
これには私はとても感謝している。今でこそ、普通にいろんな場所からCDを輸入したりしている私だが、当時はベッキーが押してくれなかったら、永遠にメアリーの事務所とだけ仕事をするにとどまっただろう。そしたら今の成功(成功? 成功って呼んでいいのか? まぁ生活できてるんだから成功かな…)はなかった。
ベッキーはその他、フルックのマネージャーもしていた。だからフルックと知り合えたのもベッキーのおかげだった。
次の投稿に続く。
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