前回からの続き。
ルナサのファースト・アルバムだけど、左の写真は当時のライナー。こういうのを折り込んで、帯をつけて日本仕様ということで販売していた。
当時のことだから、なんだかんだで1,000枚くらいは売れたかもしれない。それなりに良いセールスで、私もハッピーだった。その後バンドのオーストラリア公演が決まり、ベッキーから「オーストラリアの帰りに日本によりたい」というメッセージが入る。
当時、私は来日公演なんて作ることもあまりできず、とにかくひたすらCDを売っていたから「うーん、インストア公演でもやるかぁ」くらいに思っていた。それに下品な話だけど、個人にしては相当儲けてもいたから(かつ普段の生活にはそれほどお金がかかるタイプでもないので)予算を確保するのは難しくなかった。
だからなんだかんだで日程を組んでオファーを送っていたのだが、しばらくしたらベッキーから「とあるプライベートな理由で、申し訳ないけどこの話はなし」と連絡が入る。
それについては、書かないでおくが、あまりにもどうしようもない理由だったということは書いておきます。ちなみにルナサの次のアルバム『otherworld』の1曲目はそういう理由で書かれた曲です。(なんのことだかわからないと思いますが、まぁ、察してください)
なんだよ、こんなに頑張ってツアー(といっても3日くらいの短いもの)作ったのに…と私はプリプリしていただが、まぁ、バンドと仕事をしていると、そういうこともあるんだなというのを痛くも学んだのだった。こんなのは今から思えば、ぜんぜん序の口です。
その後、しばらくして、都内の大型CDショップでルナサのファーストが面だしされたり、視聴機に入ってもりあがっているのを見たレコード会社:メルダックのH川さんが、このファーストをライセンスでリリースしたいという話を持ちかけてきた。
H川さんと私の付き合いは長く、彼が昔三菱系の某代理店にいたころからの付き合いだった。当時からメアリー・ブラックとか、結構応援していただいていたし、メルダックに勤務されてからは、95年にメアリー・ブラックの『サーカス』のリリースなどを通じて親交が深かまったりしていた。
というか、そもそも今もそうだけど、H川さんは私がやっていることに常に注目していてくれている、ありがたい存在なのだ。
確かにあのファーストは1曲目からレッド・ツェッペリンみたいでめちゃくちゃかっこいい。H川さんがやりたがるのもわかる。
実はさっきファイルを整理してたら、ベッキーに送ったオファーのファックスが出てきたよー(笑)これによると、条件も実は悪くない。当時の外国原盤のCDに対する普通のロイヤルティと、まずまずのアドバンス(印税前渡金)を提案してくれている。
そして、話がどっちが先でどっちが後か忘れてしまったが、私はH川さんをつれてダブリンに出張した。そこでH川さんとルナサのメンバーとベッキーを引き合わせた。
この時点で私は結構たくさんの知り合いがダブリンにいたのだが、当時から私は自分がダブリンに来たからといって、やたらめったらバンドを呼び出すことはしなかった。別に友達じゃねーし、くらいのノリもあった。
でも今回はH川さんが一緒だし、H川さんの出張理由を明確にするためにも、バンドにはミーティングに出てきてもらう必要性があったのだ。
待ち合わせ場所は、よく覚えてないけど、おそらく当時の定宿のブルームズホテル(先日「世界街歩き」に出てきたペイントされたホテル!)のバーだったと思う。
そこで初めて私もメンバーにきちんと挨拶したように記憶している。トレヴァーとドナはその前にシャロン・シャノンのバンドのメンバーとして空港か何かで挨拶したことがあったから、すでに「日本でアイルランド音楽やってる人」という認識を私に対してもってくれていたと思う。一方、ショーンとケヴィンはこの時が初めてだったんじゃないだろうか。
ケヴィンは当時からジョークを連発し、めちゃくちゃ愛想を振りまいていた。ショーンは「ケヴィン、落ち着け、落ち着け」と言いながらも同じように騒いでいたけど、私は、なんというか、その様子をながめ、こいつら中学生みたいなグループだなぁ、と思った。(この印象は今でもあまり変わらず)
ベンチみたいなシートに大の男が4人でぎゅうぎゅうに座り、なんだか彼らはとても可愛かった。私はバンドの事情はよくわかっておらず「ところでジョンはいないの?」と言ったのを覚えている。(というのもジョン・マクシェリーと私は当時すでにしっかり面識があったから、ジョンに会いたいとちょっと思っていたのだ。ちょっと前にクールフィンのメンバーとしてジョンは来日していたから)が、今、思い返せばジョンはもうバンドから半分抜けていただのだと思う。
ベッキーをH川さんに紹介すると、ベッキーは律儀にも「よかったらヨーコにも仕事をあげてください」とH川さんに言ってくれた。
というか、H川さんの方からもパーセンテージどうかと言われたのだけど、私はこんな小さなディールの間に入って、数%もらったところで、大した利益にならないのはわかっていたし、そんな予算が出せるのであれば、ルナサのCDに対して宣伝や視聴機にお金をかけてほしかったので、それは丁重にお断りした。
それよりこんな小さな契約に巻き込まれて、自分の時間が取られるのはよくないと思っていた。こういう仕事の方針は、結構若いころから私はしっかりしていたと思う。「何をやらないか」の方が「何をやるか」よりも重要。つまりは、そういうことだ。当時からクールだったよな、若いころのオレ(笑)
ベッキーには「大丈夫よ、私は結婚する息子を見送る母親の気持ちでいるから」と伝え、H川さんには「これから契約が進むのだろうけど、とにかく直接やってください、こちらには連絡してこないで」と伝えた…
…のをはっきり覚えているのだが、どうやらこのファックスを見る限り、英語があまり得意ではないH川さんに変わって、私はこうやってディールをまとめたりしてあげたらしいのだから、笑える。結局全然クールじゃないじゃん! やっぱり数%でももらっておいた方がよかったのだろうか。
でもこの時点で、自分は本当にルナサの手を離した…と思っていたのも事実。もうこのバンドはメルダックにあげたのだから、私が出る幕はない。ところがどっこいそんなふうにはならなかったのだから運命って不思議。
それにしてもベッキーはすごく良いマネージャーだった。それに私たちはすごく仲良しだった。もういつの時期だったか忘れちゃったけど、ベッキーがベルファーストに住んでいたから、ベルファーストのアルタン+シャロン・シャノントリオみたいなコンサートを一緒に見にいったことがあったっけ。シャロンのトリオはこの時、シャロン+トレヴァー+ドナ。
ルナサは、トレヴァーとドナのリズム体のスケジュールをシャロンと取り合いしていたのだから、ベッキーとしてはいろいろ気に食わない(笑)。それをベッキーは隠そうともしなかった。シャロンのマネージャーのジョン・ダンフォードは、ベッキーの天敵でもあった。私もジョンについては、当時は食えないやつだ、くらいに思っていたので、二人して話がよくあった。
よくベッキーはルナサのことを「my band」と呼んでいた。そんなところもすごく好きだった。今でもルナサのことを「my band」と呼べるのは、ベッキーだけじゃないかくらいに思っている。
続きは明日のブログに書く。
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