グレゴリー・ケズナジャット『鴨川ランナー』を読みました 素晴らしい!


 何百回も書いてますが、フィクションは普段読みません。でもこの本はすごかった。『開墾地』に続くケズナジャット文学。というか、実際には、こっちの方が先に出ていた本なわけだけど、素晴らしい作品でした。『鴨川ランナー』。

2作収録されている。「鴨川ランナー」と「異言」。どちらもすごくリアルだった。っていうか、言葉の使い方が絶妙というか、いやー まいったね。

著者はアメリカ人で、日本語がネイティブではない。それなのに、すごい、この日本語。言葉の力がすごい。言葉であらわせないことなんかないんじゃないかと思ってしまう。とにかく…なんだろ、言葉の使い方がすごいのだった。

そして書かれているエピソードが、これまたなんとも!

っていうか、もうケズナジャットさんがアメリカ人だということを忘れている。まさに越境のケズナジャット!

実は私には日本在住の外国人の友達はほとんどいない。まぁ、いるとしたら大使館関係の外交官くらいか。ルナサのトレヴァーの妹さんが東京に住んでいた時は、時々ご飯に行くくらいには仲が良かったけど、そのくらいだ。今やその彼女も帰国してしまった。

実は意図的に日本に在住の外国人とは付き合わないようにしている部分もある。その理由については偏見になるので、ここには書かない。

それと同時に海外から来日した外国人を連れて歩いている時の日本社会のリアクションは、なんともいえないものがあると普段から思っている。六本木のポッシュな場所ですら、外国人をたくさん連れた私は妙に歓迎される。みんな白人男性に甘いんだよなぁ。

ホテルのロビーでは添乗員さんと呼ばれ、学校などにアウトリーチで行けば通訳さんと呼ばれ…  まぁ、いいんだけどね。

バーのカウンターで、ミュージシャンとしゃべっていると、隣から英会話練習したい親父が話かけてきたり。インバウンドさんがこれだけ多くなったというのに、東京は本当にへんな街だ…と時々思う。

ロンドンや海外に行くと、適度に無視されるのがここちいい。適度にほっといてくれるのが気持ちいいのだが、東京ではそうはいかない。

あとブーと二人で行った渋谷のバーでの「お姉さん、外資系?」には笑ったな。そのまま否定せず外資系ってことにしておいても良かったかも。っていうか、音楽の仕事をしてる、っていうのは、あんまり初対面の人には言いたくないものだ。それが外国人でも日本人でも。

あとは東京で仲良くしている外国から来た人という意味では、スウェーデン語の先生がいる。この先生、個性的で面白い。今はあまり会っていないが、すごくいい人だ。彼は7ヶ国語をあやつり、夏目漱石を普通に読み、読みながら知らない漢字をノートに書き出す。

「虱、って文字知ってる? 風のここがない文字を虱(しらみ)って読むんだよ、すごくない?」とか、

私がヴェーセンの「来日公演ちらし」を渡せば「いいよねぇ、来日公演って、なんか潔くない? 4文字で表せるんだよ、すごくない? 英語だとなんていうの? Japan Tour だけど、それもなんか違くない? 来日公演、やっぱこれだよね(すべて日本語で彼はしゃべってます)」と、ものすごい感激していた。

語学オタクってこういうものか、と私は面白く感じていた。

あとはピーター・バラカンさん。当然のことのようにピーターさんと私はメールは日本語だが、よく考えたらピーターさんは英国人なのだ。いつか、ずいぶん前の話だが、なにかの時にピーターさんがメールのインラインでの返信に「さようでございます」と返信してきたことがあった。あれには、なんか妙に感動した。「さようでございます」素敵な言葉だ。

語学ができる人ってすごい。語学を自由に操る人はたくさんの人生を一度に生きていると思う。私ですら自分が英語を喋る時と、日本語を喋る時、自分の性格が全然変わるのは自覚している。私の英語ですらそうなんだから、何か国語も話せる人はどんな感じなんだろう。うーん、すごいよなぁ。

まぁ、でもそれはさておき、ケズナジャット文学も、もう二冊目ともなれば、ケズナジャットさんが日本語のネイティブスピーカーではないというのをまったく忘れて読んでしまう。

というか、こんな言葉を操る人、滅多にいない。だからといって「これは立派な日本文学だ」と言ってしまうのも、なんか抵抗がある。この言語と言語の間に漂う感じが、彼の持ち味でもあるのだし…。

私は言葉が好きだ。インスタグラムがどうも苦手なのも、You Tubeの動画を自分ではアップする気になれないのも画像や視覚、動画で伝えることが苦手だからだ。私は、言葉の方が好き。だから絶対的に発信するならブログだし、Twitterだ。是枝監督の映画ですら、本で読んだ方が素晴らしいとさえ思う。

だからケズナジャットさんの本は、読んでいて、むちゃくちゃ気持ちいい。

それにしてもあれこれのエピソードがいい。あぁ、こういうの、あるでしょ、こういうことみたいなことがたくさん書かれている。

「鴨川ランナー」は、最初「安房鴨川ライナー」と空目してしまった、そうなの、私は房総人(笑)。違う、違う。鴨川は安房鴨川ではなく、京都の鴨川だ。そしてランナーは、走る人。

「きみ」と外から見た視線で、自分のことを書いた(と思われれる)内容。「きみ」はアメリカから日本にやってきて、日本語を苦労しながらも習得していく。

そして続く「異言」は、その続編みたいなところもある。一緒に住んでいる彼女との距離、子供のころの唯一といっていいが強烈な宗教体験、バイト先の結婚式の神父役。すべてこれは実体験に基づいているんだろうか。とにかくリアルな描写がすごい。

特に2作目の「異言」の完成度は圧巻だ。研ぎ澄まされた物語の中に圧倒的な真実がある。誰か作家の方が言ってたように(多分、角幡さんの言葉)、ノンフィクションは真実を積み上げて何かを書く、フィクションはいきなり真実を書く。そして、この本は、まさに真実を書いていると私は感じる。

人は環境にあわせて変わっていくものなのだろうか。そして本来の自分ではない言葉を発し、それによって自分をとりかこむ世界を構築しているのだろうか。そうやって、著者が…じゃない…主人公が大切にしている何かが少しずつ削られていくような気持ちがしないでもない。でもそれが生きるということであり、現実なのだ。

帯に書かれた金原ひとみさんの朝日新聞での評が的確すぎて震える。「言葉とは、むしろ言葉ではあらわせないものを表すために存在しているのだ」…本当にそうだ。さすがだよなぁ、彼女。

金原さんの本は実は一冊読んだだけで、他は全然読んでないんだけど、こういう時、彼女の言葉はすごいと思う。

そして宮下奈都さんにのいうとおり「喚起させるものがあまりにも多い」も共感。ケズナジャット文学は、喚起させるものがあまりに多すぎて、スイスイ読む感じの本では全然ない。

鴻巣友季子さんの「世界の歪み」というのも、言い当てててる。そう世界は歪んでいる。そこに立ち尽くす「きみ」。

いやー すごいよ、ケズナジャットさん。早くも次の作品が待ち遠しい。

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