(1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)、(7)、(8)、(9)、(10)、(11)、(12)、(13)、(14)、(15)、(16)、(17) 、(18)からの続きです。この本から紹介するチーフタンズの物語の最終章になります。
「ロング・ブラック・ヴェイル」は大ヒットし、今までで一番売れたチーフタンズのアルバムとなりました。アメリカの新聞はこぞってこの作品を絶賛し、2週間のうちにビルボードのチャートで24位まではねあがり、イングランドで2万、日本でも1万(最終的には2万くらい売れたって聞いたことあります。このジャンルではすごい大ヒット)売れていました。
ローリングストーン誌「チーフタンズは知らず知らずのうちに30年以上もワールド・ミュージック・ブームの予言者として活躍し、世界中をまわりながらナッシュヴィルから北京にいたる地元の音楽とアイルランドの音楽が相容れるものであることを強くアピールしてきた」
ニューヨークポスト紙「チーフタンズのチーフ、パディ・モローニとそのバンドがどんな魔法を使って共演者たちから最高の演奏を引き出したのか、まったく想像すらつかないのだが、とにかく彼はそれを成し遂げている」
そして1959年に[ロング・ブラック・ヴェイル]を書いた当人のマリジョン・ウイルキンからの賛辞「あれを聞いた時、誰もそばにいてほしくないと思いました」「いにしえのケルトのメロディをスティングが歌うのと並んで、あの歌を聴いた時、私はただ座り込んで泣いていました。私にとっての文化的な遺産が1グラム残さずあのメロディから流れ込んできたのです」
とはいえアイルランドでは伝統音楽純粋主義者からの厳しい批判もあったようです。チーフタンズはポップスのスターたちの客を前にして、後部座席に引っ込んでしまった、と。
「しかし彼らにはもっと成功してほしい。検閲はもうたくさんだ。音楽の核心部分が生き延びるためには、保護されたり隔離されたり、あるいは集中治療室に入れられなければならないというのなら、結局生き延びることなどできないと私はこれまでも公言している。音楽のコアは開かれた市場で風に耐えなければならないし、チーフタンズがオープンな市場を見捨てることはないと確信している」と、とある音楽ジャーナリストは話しています。
またチーフタンズは、この年、オクラホマのチョクトー部族連合から名誉酋長の名誉を受け取ることになります。これはアメリカ・インディアンの諸部族以外には贈られたことのない名誉な賞で、150年前、この部族がジャガイモ飢饉の援助資金として175ドルをアイルランドに送ったことまで遡るそうなのです。素敵ですね。
そして大統領ビル・クリントンはセント・パトリックス・デイのホワイトハウスにチーフタンズを招待するのですが、残念ながらこの日はニューヨークでマリアンヌ・フェイスフルとのコンサートが入っており、チーフタンズは招待を断ります。なんとマリアンヌとはこれだけ仲良しなのに一緒のコンサートは初めて。
そして4月までに「ロング・ブラック・ヴェイル」はアメリカでゴールド・ディスクとなり65万枚を売り上げ、どうやら100万枚になりそうな勢いでした。パディは言います。「頑固な保守主義者は僕らが気に入らないようだが、100万人の新しい友達が出来た」「世界の主な指導者たちはティン・ホイッスルを覚えてパーティをすればいいんだ。そうすれば世界はもっと楽しいところになる」(これ、この前の来日時のトークショウでも言っていましたね。トランプもプーチンもティン・ホイッスルを吹けばいいんだって)
そしてパディはまた次の作品に向けて準備をはじめます。次の作品は「ケルティック・ウェディング」のブルターニュに続くガリシアでのレコーディング企画でした。カルロス・ヌニェスが当然企画の手伝いをしたわけですが、本来スタジオには20人しかミュージシャンを呼んでないのに150人近く集まってしまい大パニックに。そしてその数ヶ月後、今度はロサンゼルスで、ロス・ロボスとリン ダ・ロンシュタットとともにレコーディングを始めます(これはまたのちのアルバムに収録されることになります。こうやって出来る時に録音を少しずつ進めておくんですね。さすがパディ)
その後も「ブレイブハート」のサントラに参加したことから、プレミアショウに出演したり、ドン・ヘンリーの結婚式に参加したり、ひたすらチーフタンズは大忙し。ジャクソン・ブラウンらとも旧交をあたためたり…。「アップテンポのアイリッシュ・ジグは心配事を綺麗に洗い流してくれるんだ」とヘンリーはいいます。「あの音楽にはどこか原始的なところがあって、人の心の奥深いところに触れて来る。それだけではなくチーフタンズがこれだけ長い間生き残ってきたのは、演奏する音楽の質が高いこと、時を超越しているからだと思う。そしてやり手のパディ・モローニのエネルギーとねばり強さも一役買っていることに間違いはないと思う」ここでもチーフタンズはまた新しい映画や音楽関係者と人脈を広げることになっていくわけです。
そしてサラ・マクラクランとのツアーも楽しいものになりました。サラは特にデレクが大好きで、コンサートでの最後のデレクのソロの時にこんないたずらをしかけたそう…。「デレクはいつもあの同じ赤いセーターを着ているでしょ? だから彼がピアノソロを弾いている時、20人くらいのクルーが出て行って同じ赤いセーターで踊るの。彼には大受けだったわ」そしてチーフタンズの仕事ぶりはものすごいとサラも言う。「あの人たち狂ってるわ。私はまだ27歳だけど、あのツアーでくたくたになった。あんなにすごいのは音楽が好きで好きでたまらないからじゃないかしら。あのエネルギーは信じられない」
パディはこの時点で57歳。しかしペースを落とそうという気はまったくない様子。
そしてパディはまたグレイトルフル・デットのギタリスト、ジェリー・ガルシアに電話をかけてガリシアのアルバムに参加してくれないかと持ちかけるのです。このアルバムには「サンティアーゴ」というタイトルがついていました。ガルシアのお父さんはガリシア人で、母親はアイルランド人だということをパディは聞いていたのです。ジェリーは入院中だったのだけど、次の土曜日には連絡をくれる約束になっていました。「で、僕はジェリーにやってもらう曲を作りはじめたんだ。そしてその2時間後、ジェリーが亡くなったという電話をもらった。まったく不思議だ。ジェリーズ・チューンというタイトルをつけてトリビュートとして演奏したんだよ」
この頃までには「ロング・ブラック・ベイル」は160万枚売れ、アメリカではプラチナ・アルバムになろうとしていました。その後もWBOチャンピオンのテーマ曲になったり、パバロッティのチャリティ公演に出演したり,その合間をぬってロリーナ・マッケニットをつれて日本にやってきたり、とにかくバンドは大変な忙しさでした。
96年はチーフタンズがもっとも成功した年の1つで、「ロング・ブラック・ベイル」はタイムとニューヨーク・ポストの2紙で年間ベストアルバムに選ばれます。また「ベルズ・オブ・ダブリン」はアメリカでゴールドを獲得。再びチーフタンズはグラミーにノミネート。
この時のノミネートはヴァンとの「Have I told you lately」で最優秀ポップ・ヴォーカル。そして「ロング・ブラック・ベイル」が最優秀コンテンポラリー・フォーク・アルバム、そして映画「くまのプーさん」のサントラが再優秀児童向けアルバムを受賞したのでした。
パディは受賞できるとしたら「くまのプーサン」だけだと思っていたそうです。というのもヴァンとのトラックのライバルは、マイケル・ジャクソン、ジャネット・ジャクソン、ボーズⅡメン、マライヤ・キャリーというすごいメンツが並んでいたから。名前を呼ばれてパディは何のことだかまるで認識できなかったそうです。マネージャーのサムが立ってたって!!と叫ぶのを聞いて我にかえった。すっかり舞い上がってしまったパディは考えていたスピーチも忘れ「ええと、ぼくはアイルランドという小さい島の出身です。そしてこの受賞はアイルランド人のためにいただきます」とだけ、言ったそう。翌朝の新聞は有頂天で「チーフタンズ、ジャクソンズをうち負かして受賞」というタイトルが踊ったそうです。ポップス部門で受賞したのは本当に仰天したよ、とはパディ。いや〜、ホントにすごい!!!
以上で、この本に載っている部分のチーフタンズの物語は終了です。このあとは簡単にその後、さらなら20年を1回分にまとめました。ここまで読んでくださった皆さん、ありがとう。さぁ、ツアーが始まります。プランクトンの皆さんと一緒に現場に行くのが楽しみ。みんな、がんばろうね!!
チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。
11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール
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「ロング・ブラック・ヴェイル」は大ヒットし、今までで一番売れたチーフタンズのアルバムとなりました。アメリカの新聞はこぞってこの作品を絶賛し、2週間のうちにビルボードのチャートで24位まではねあがり、イングランドで2万、日本でも1万(最終的には2万くらい売れたって聞いたことあります。このジャンルではすごい大ヒット)売れていました。
ローリングストーン誌「チーフタンズは知らず知らずのうちに30年以上もワールド・ミュージック・ブームの予言者として活躍し、世界中をまわりながらナッシュヴィルから北京にいたる地元の音楽とアイルランドの音楽が相容れるものであることを強くアピールしてきた」
ニューヨークポスト紙「チーフタンズのチーフ、パディ・モローニとそのバンドがどんな魔法を使って共演者たちから最高の演奏を引き出したのか、まったく想像すらつかないのだが、とにかく彼はそれを成し遂げている」
そして1959年に[ロング・ブラック・ヴェイル]を書いた当人のマリジョン・ウイルキンからの賛辞「あれを聞いた時、誰もそばにいてほしくないと思いました」「いにしえのケルトのメロディをスティングが歌うのと並んで、あの歌を聴いた時、私はただ座り込んで泣いていました。私にとっての文化的な遺産が1グラム残さずあのメロディから流れ込んできたのです」
とはいえアイルランドでは伝統音楽純粋主義者からの厳しい批判もあったようです。チーフタンズはポップスのスターたちの客を前にして、後部座席に引っ込んでしまった、と。
「しかし彼らにはもっと成功してほしい。検閲はもうたくさんだ。音楽の核心部分が生き延びるためには、保護されたり隔離されたり、あるいは集中治療室に入れられなければならないというのなら、結局生き延びることなどできないと私はこれまでも公言している。音楽のコアは開かれた市場で風に耐えなければならないし、チーフタンズがオープンな市場を見捨てることはないと確信している」と、とある音楽ジャーナリストは話しています。
またチーフタンズは、この年、オクラホマのチョクトー部族連合から名誉酋長の名誉を受け取ることになります。これはアメリカ・インディアンの諸部族以外には贈られたことのない名誉な賞で、150年前、この部族がジャガイモ飢饉の援助資金として175ドルをアイルランドに送ったことまで遡るそうなのです。素敵ですね。
(c) The Chieftains Web Site |
そして4月までに「ロング・ブラック・ヴェイル」はアメリカでゴールド・ディスクとなり65万枚を売り上げ、どうやら100万枚になりそうな勢いでした。パディは言います。「頑固な保守主義者は僕らが気に入らないようだが、100万人の新しい友達が出来た」「世界の主な指導者たちはティン・ホイッスルを覚えてパーティをすればいいんだ。そうすれば世界はもっと楽しいところになる」(これ、この前の来日時のトークショウでも言っていましたね。トランプもプーチンもティン・ホイッスルを吹けばいいんだって)
そしてパディはまた次の作品に向けて準備をはじめます。次の作品は「ケルティック・ウェディング」のブルターニュに続くガリシアでのレコーディング企画でした。カルロス・ヌニェスが当然企画の手伝いをしたわけですが、本来スタジオには20人しかミュージシャンを呼んでないのに150人近く集まってしまい大パニックに。そしてその数ヶ月後、今度はロサンゼルスで、ロス・ロボスとリン ダ・ロンシュタットとともにレコーディングを始めます(これはまたのちのアルバムに収録されることになります。こうやって出来る時に録音を少しずつ進めておくんですね。さすがパディ)
その後も「ブレイブハート」のサントラに参加したことから、プレミアショウに出演したり、ドン・ヘンリーの結婚式に参加したり、ひたすらチーフタンズは大忙し。ジャクソン・ブラウンらとも旧交をあたためたり…。「アップテンポのアイリッシュ・ジグは心配事を綺麗に洗い流してくれるんだ」とヘンリーはいいます。「あの音楽にはどこか原始的なところがあって、人の心の奥深いところに触れて来る。それだけではなくチーフタンズがこれだけ長い間生き残ってきたのは、演奏する音楽の質が高いこと、時を超越しているからだと思う。そしてやり手のパディ・モローニのエネルギーとねばり強さも一役買っていることに間違いはないと思う」ここでもチーフタンズはまた新しい映画や音楽関係者と人脈を広げることになっていくわけです。
そしてサラ・マクラクランとのツアーも楽しいものになりました。サラは特にデレクが大好きで、コンサートでの最後のデレクのソロの時にこんないたずらをしかけたそう…。「デレクはいつもあの同じ赤いセーターを着ているでしょ? だから彼がピアノソロを弾いている時、20人くらいのクルーが出て行って同じ赤いセーターで踊るの。彼には大受けだったわ」そしてチーフタンズの仕事ぶりはものすごいとサラも言う。「あの人たち狂ってるわ。私はまだ27歳だけど、あのツアーでくたくたになった。あんなにすごいのは音楽が好きで好きでたまらないからじゃないかしら。あのエネルギーは信じられない」
パディはこの時点で57歳。しかしペースを落とそうという気はまったくない様子。
そしてパディはまたグレイトルフル・デットのギタリスト、ジェリー・ガルシアに電話をかけてガリシアのアルバムに参加してくれないかと持ちかけるのです。このアルバムには「サンティアーゴ」というタイトルがついていました。ガルシアのお父さんはガリシア人で、母親はアイルランド人だということをパディは聞いていたのです。ジェリーは入院中だったのだけど、次の土曜日には連絡をくれる約束になっていました。「で、僕はジェリーにやってもらう曲を作りはじめたんだ。そしてその2時間後、ジェリーが亡くなったという電話をもらった。まったく不思議だ。ジェリーズ・チューンというタイトルをつけてトリビュートとして演奏したんだよ」
この頃までには「ロング・ブラック・ベイル」は160万枚売れ、アメリカではプラチナ・アルバムになろうとしていました。その後もWBOチャンピオンのテーマ曲になったり、パバロッティのチャリティ公演に出演したり,その合間をぬってロリーナ・マッケニットをつれて日本にやってきたり、とにかくバンドは大変な忙しさでした。
96年はチーフタンズがもっとも成功した年の1つで、「ロング・ブラック・ベイル」はタイムとニューヨーク・ポストの2紙で年間ベストアルバムに選ばれます。また「ベルズ・オブ・ダブリン」はアメリカでゴールドを獲得。再びチーフタンズはグラミーにノミネート。
この時のノミネートはヴァンとの「Have I told you lately」で最優秀ポップ・ヴォーカル。そして「ロング・ブラック・ベイル」が最優秀コンテンポラリー・フォーク・アルバム、そして映画「くまのプーさん」のサントラが再優秀児童向けアルバムを受賞したのでした。
(c) Chieftains web site |
以上で、この本に載っている部分のチーフタンズの物語は終了です。このあとは簡単にその後、さらなら20年を1回分にまとめました。ここまで読んでくださった皆さん、ありがとう。さぁ、ツアーが始まります。プランクトンの皆さんと一緒に現場に行くのが楽しみ。みんな、がんばろうね!!
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チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。
11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール