短期集中連載「ワールド・オブ・マズルカ・フェスティバルをたずねて」 ヤヌシュ・プルシノフスキが牽引する農村マズルカ・リバイバル 2

ヤヌシュはワルシャワの北の町ムワヴァ(Mlawa)に生まれ、そこで歌手の両親から地元の伝統音楽について学んだ。もともと異文化に興味を持っており多くの楽器を習得、20歳か21歳の頃には演奏家として身をたてていこうと決意したという。しかしこの頃彼が演奏していたのは、ラテン・アメリカの音楽やバルカン半島の音楽だった。また一時はクラカワ(ポーランド南部の世界遺産の町)に住み、そこでユダヤ音楽のレパートリーをたくさん演奏していた事もあったようだ。

その彼がワルシャワの南にポツリと取り残されたように存在していた農村マズルカに出会ったのは、90年代に入ってから。イラストレーターで民俗音楽研究家のアンジェイ・ビュニコフスキ(Andrzej Bienkowski)が撮影した農村マズルカの映像を見て、まるで雷に打たれたようなショックを受けたのがきっかけだという。ヤヌシュは、仲間を誘ってワルシャワにダンス・ハウスのプロジェクトをスタートさせ、これが現在の「ワールド・オブ・マズルカ・フェスティバル」の母体となって、すべてが大きく回転しはじめた。また当時、学校の先生をしていたヤヌシュは、家族ごと大きな交通事故に巻き込まれそうになり「こんなことをやっている場合ではない」と教職を手放し、音楽の道1本でやっていくことを決意したそうである。

私と、同じくワルシャワに取材に来ていたローパ・コタニ(BBC)は幸運にも、ヤヌシュを開眼させるきっかけとなった画家のアンジェイにもインタビューする機会が与えられた。現在72歳のアンジェイは画家の仕事で訪れたワルシャワ郊外の小さな村で、偶然農村マズルカに出会ったという。アンジェイは話す。「マズルカとはなんだ?と人に聞かれたら、いつも“それは奴隷の音楽だ”と答えているんだ」と。「これらの農村のミュージシャンの音楽の中に僕はブルーズを見いだした。まるでジミ・ヘンドリックスみたいじゃないか」

なぜ今までこれらの音楽が90年代まで発見されなかったのか。アンジェイによると農村同士が非常に孤立した状態だったということが理由の1つだという。そして、音楽自体があまりにプリミティブで原始的で(ヤヌシュの言葉を借りれば同時にとても洗練されてもいたのだが)、ハンガリーやジプシー、ユダヤの音楽のようにキャッチーな物ではなかったからだとも分析している。

アンジェイとBBCのローパ
またfROOTS誌にこの種の音楽に関する寄稿が多いアンドリュー・クロンショウ氏によるとポーランドがある程度大きな国であったことも関係しているのではないか、という分析だった。(ポーランドの人口は現在3,000万人、また面積は31.2万㎢。アイルランドや北欧の国々とはサイズ感がまるで違う) 加えて農村の音楽師たちは冠婚葬祭の需要がなければ、すぐに演奏を辞めてしまう。そしておそらくロシア風やジユダヤ風の音楽、そしてポップミュージックなど商業的な音楽があまりに市場において強かったことも理由の1つと考えられる。本来ならばアイルランドや北欧のように、農村マズルカの演奏者の中から段階を踏んで、ある程度現代的/商業的なプレイヤーが出て来ても良さそうなものだが、ポーランドでは、それが起こりえなかったのではないか。

またアンジェイによれば、こういった音楽家たちを農村では「村の恥部」として隠したがる。音楽がかっこいいものとなったのはつい最近の話で、農村では音楽は「無教養」「貧困」の象徴であった。

 またポーランドの文化の輸出を担当するインスティテュートのアジア担当の女性はこうも話してくれた。ポーランドでは芸術が非常に強くイデオロギーと結びついていた時代があったのだ、と。そういったイデオロギーにフォーク・ミュージックは非常に結びつきやすかった。そして89年の民主化以降は、そういった時代のことを必死で忘れようとする努力の時代がポーランドにおいて続いていく。やっとそんな必死さから落ち着き、ポーランドが自信を取り戻したのは2004年のEU加盟の時だったと彼女は分析する。それまではヨーロッパの文化に追いつこうと必死で自国の文化に高い評価を与える事自体、音楽ばかりではなく建築、デザインにいたるまで、ありえなかった、と。 そもそも第2次戦争中壊滅的な被害を受けたポーランドでは、楽器という楽器はすべて失われてしまっていた。

50年代に伝統音楽の採集に取り組む動きはあったものの、それらがラジオなどでかかることは一切なく、70年代にラジオ局に勤務していた女性の話によると、ラジオでよくかかっていたのはロシアやポーランドの流行歌、もしくは『演出された嘘のフォルクローレ(Fakelore)』であり、それらは伝統音楽の名を貶めこそすれ、高めるものではなかったのだという。そして多くの人は、何も知らずにそれらのコマーシャルな音楽を「ポーランドの伝統音楽」だと受け止めていたのだという。(この辺は映画『COLD WAR』に詳しい

 ところが、時代の流れが変わった。2010年代の今、農村マズルカは伝統音楽を演奏する若者たちの間に非常にクールで格好良いものとして一気に広まることになる。世界的にも「コマーシャリズムには汚染されていない本物の音楽を探そう」といった機運が高まっていたことも影響しているかもしれない。

アンジェイは言う。「画家の仕事で儲けたお金でなんとか農村マズルカを記録した音楽のCDを出したりしたのだが、全然売れなくってね。ちっとも商売にはならなかった。だが、それらの記録がヤヌシュたちの活動につながった」若者たちはみな楽器を手に取り農村に集まると、農作業を手伝うかわりに農村の音楽家たちに教えを乞うのだった。

ヴェーセンのミカエル・マリーンもこう証言している。「今,俺の生徒たちはみんな楽器をかかえてワルシャワに向っている」 

それにしても献身的なヤヌシュやアンジェイたちの活動には心を打たれる。農村に通い、もう引退したという老人たちを説得し、再び彼らの手に楽器を取り戻すと「3週間後にまた来るから」と彼等を励ます。そして復活さえた彼らを町へ招待し、その素晴らしさを「本物をもとめている」若いミュージシャンたちに伝える。老人たちはその音楽家としてのキャリアの最後の最後にちょっとしたセレブリティの気分を味わうことが出来たのだ。そんな地道な活動を延々と実践してきた。アンジェイやヤヌシュが、復活させたミュージシャンは合計1,500人、復活した音楽グループは80にも及ぶという。しかしながら「そしてその半分はもうすでに亡くなってしまったんだよね。僕らが捉えたのは最後の最後に存在したキラメキだった」とヤヌシュは語る。「僕はまだすべての曲を習っていないし、まだまだ習いたいと思っている」

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<ヤヌシュ・プルシノフスキ・コンパニャ来日公演>
6月8日(土)武蔵野文化会館小ホール SOLD OUT
6月9日(日)北とぴあポーランド&ショパン祭 with 高橋多佳子
6月11日(火)名古屋 宗次ホール
6月12日(水)安来 アルテピア
6月13日(木)神戸 100BANホール
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