いや〜、刺激的なタイトルである。ついつい引かれてポチってしまって読み始めた…
のだが…
難しい。難しすぎる。作者の言っていることは言葉では入ってくるのだが、うまく理解が進まない。
装丁が綺麗な本だ。これがカバーを向いたところ。わたしはだいたいこうやってカバーを取って、お風呂の中で読む。なので、こういう綺麗な装丁の本は嬉しくなってしまう。
…のだが…
難しい。この本はすごく難しかった。そもそもアインシュタインの言うことがしっかり理解できていなければ、この本を読む資格はないのかもしれない。そもそもわたしなんぞはアインシュタインがなんて言ってたのかもよくわからない… 相対性理論ってやつだよね… なので、そこがまずつまずきの一歩なのであった。とほほほほ…
でもそれほど長くないので諦めずに読み進めた。筆者の方も努力されていて(笑)、数式が一箇所だけ出てくるのだが、その時にも「ごめんね、ごめんね、こんなのが出てくるのはここだけだから、許してね」という態度が、ちょっと微笑ましい。訳がいまいちなのかな。そもそも原文がイタリア語だから、メンタリティー的にあわないのかも。英語だったら、どんなに下手な訳でもなんとなく理解が進むんだが。が、そもそもイタリア語がわからない私が何を言えただろう。結局のところわたしの頭が悪いのだ。でも何度も読んだらすごく理解が進んで面白い本なのはほぼ間違いない予感がある。いずれにしても、最後の方はわからないながらもすごく楽しめた。よく福岡ハカセが言ってた記憶が人間を人間たらしめている、といったような哲学的になってきたところで俄然面白くなってきたよ。
というのもわたしみたいな文科系脳はいくら「時間についてはアインシュタインも言ってたでしょ、こうなのよ」と言われても「だって、時間は流れていくよ。そう感じるよ」としか答えられないのである(爆)
最初から説明していくと… 著者によればこの世界は「出来事の連続」で出来ているという。「時計のカチカチなる規則正しい音で構成されているのではない」と。時間とはあくまで人間の生み出すもので、本当は存在していない、というのだ。
例えば何万光年離れた場所で起きていることは、例えば同じ時刻(チクタク時間)に起こってもまるで意味をなさない。というのはそもそも遠く離れた人が何をしているかなんて、こちらがすごいカメラを使うなどして見れたとしてもその画像がこちらに届くまで何万年もかかってしまうからだ。わたしたちの「現在」は宇宙にまでは広がらないんだよ、と。うーん、言われてみればわからないでもないが、納得できない(すでにバカ)
でもわたしたちはニュートンからこっち、時間という、それ自身が流れる絶対時間が存在すると考えてきた。その方が現代の生活や考え方にとって便利だからだ。ニュートンが登場するまではアリストレスの考え方(出来事との関係で「いつ」を判断する手がかり)が主流だったんだって。
そうなると「時間をめぐる考え方で、この世界をよりよく理解するのに役立つのはどっちなのか」ということに突き当たる。で、ここ数百年はニュートンの説が支持され、そしてそれは近代物理学を構築する上で非常に役に立ってきた。でもこれを統合したのがいわゆる相対性理論のアインシュタインの考え方なんだって。
そう言われても、その、ここ数百年使われてきたニュートンの考え方ってやつは、わたしの頭の中から離れられない。でも時間ってあるよ?、確かに流れているよ、いう頭の固い方(私のような)のために、世界は「物ではなく出来事でできている」という考え方がまず必要なのであった。本の前半、中盤ではそれを延々と筆者は説いてくれるのだが、わたしにはさっぱり理解が進まない。
ただ確かにそう言う風に考えることによって、附に落ちることはたくさんある。例えば誰かが死んでしまって悲しい、ということがある。でもそれはその人が不在なのだから悲しいのではない愛着があり、愛しているからこそ悲しいのだ。愛がなければ、不在によって心が痛むこともない・だからこそ不在がもたらす痛みですら結局は善いもの、美しいものなのだ。なぜならそれは人生に意味を与えるものを糧として育つのだから…とこの本は言う。うん、なるほど、面白くなってきた。(でも科学者が書く本にこういうことが書いてあるのって、面白くないですか! やっぱり科学って哲学なのだわ…)
そして先日ドイツ料理本でも紹介したヒルデガルド・フォン・ビンゲンが出てくるのも興味深い。そして後半はエントロピーということをよく理解していないと理解が進まないかもしれない。(エントロピー=不確実性、運動状態の混沌性みたいな感じか?)
そしてやはり面白かったのは「記憶」というものの存在だ。自分のアイデンティティーの基礎となるもの。これが必須であり時間をめぐる本での議論がひきおこす原因。それが人間の記憶なのだ、ということ。これ福岡ハカセがイシグロとの対談で言ってたよね。人間一人一人は連続する幾つもの瞬間におけるバラバラな過程の寄せ集めではないのだ、と。(だから過去は後ろにあり未来は見えていない、と感じる)それを統合しているのが記憶なのだ、と。
例えばアウスグティヌスは例えばそれがあるからこそ人間は音楽を楽しめるのだ、ということを説明している。一つの音の意味は、その前の音、そしてそれに続く音によって与えられているわけだ… うーん、なるほどね。
またハイデッガーは「時間はそこに人間存在がある限りにおいて時間化する」とも説いているそうだ。
ちょっと難しいけど、ここは重要な部分なので、そのまま引用しておこう。
自分たちが属する物理系にとって、その系がこの世界の残りの部分と相互作用する仕方がが独特であるために、また、それによって痕跡が残るおかげで、さらには物理的な存在としてのわたしたちが記憶と予想からなっているからこそ、わたしたちの目の前に時間の展望が開ける。
生まれることは苦である。老いは苦である。病は苦である。死は苦である。
意味嫌うものとの出会いは苦である。愛するものとの別れは苦である。望むものを得られないのは苦である…
なぜ苦なのかというと、自分たちが持っているもの、愛着をもつものを失う定めにあるからだ。
始まったものは、必ず終わる。わたしたちは過去や未来に苦しむのではなく、
今この場所で、記憶のなかで、予測のなかで苦しむ。
時さえなかったなら、と心から思い、時間の経過に耐える。つまり時間に苦しめられる。時は悲嘆の種なのだ。
時間は、本質的に記憶と予測でできた脳の持ち主であるわたしたちヒトの、
この世界との相互作用えあり、わたしたちのアイデンティティーの源なのだ。
そして苦しみの源でもある。
すごくないですか! いや〜、ほんとすごい。
わたしは、ここの部分が筆者の読者に伝えたいことなのだと受け取った。なるほどねー、あ〜、でも頭使ったわー。ほんとわたしは頭が固い。最後の方は読んでいて楽しかったけど。このあとははもっとポップな本を読もう…と思ったり。
とか…書いてたら、2つ興味深い記事。文春のGW特大号に載っていた福岡ハカセのエッセイに高層マンションの話題が出てきて、ここでも高いところに住んでいると寿命が縮まるという話題が。もっとも一生住んでも1秒にならないくらいの違いらしいんだけど、この本を読んだあとだけに、妙に響く。それにしてもアインシュタインってすごいんだね。なんかわかりやすいアインシュタイン本でも手にいれて読んでみようかな。それを読んだ後にこの本を再読したらめっちゃ面白いかもしれない。
そして、こんなネットの記事も。ポーランドの女性翻訳家の話でちょっと文章が読みにくいんだけど、興味深い内容。確かに違う言語って世界を広げる。わたし自身も英語をしゃべってる時と日本語しゃべってる時の自分の性格が違うのは自覚している。となると人の人生は130歳にも200歳にもなりうる。
こうして考えていくと確かにチクタクチクタク言う絶対時間は人間が勝手に考え出したもので、本当は存在しないものだという筆者の考え方には納得がいく。つまりそれをポジティブに捉えたとしたら、人は時間にとらわれず、自由に生きるべき。この本はそういう考え方をささえてくれる。が、果たしてどうやったらそんな風に生きることができるのか。この本が言うとおり、人間にはアイデンティティー(=記憶&予測)が必要で、それを取るか、自由を取るか… そういうことなのかもしれない。過去や未来の予測に囚われすぎないように、ってことだと思うけど、それはすごく難しいことだ。面白い「チェコのことわざ。「覚えた言語の数だけ、何通りもの一生を生きる」:人生は覚えた言語の数だけ並存する。だからいま136歳 https://t.co/EwRh5rtgL3— 野崎洋子 (@mplantyoko) May 4, 2020