観てきました。結構、音楽業界内で話題になっている映画「バックコーラスの歌姫たち」。期待はMAX。音楽業界のことでなくても、こういう職業意識を考える話は、本でも映画でも大好き。
そして、その期待は裏切られない。いわゆるスターを支えた裏方のバック・シンガーたちの話。本当は自分が歌っているのに名前がクレジットされない悲劇のシンガー。本当は自分もフロントで歌いたい。でもそこまでの6mは遠い。運良くソロアルバムを出すシンガーがいる。エゴがないとフロントには立てない、と言うアーティストもいる。数日前に和田静香がブログで「周りをなぎ倒して行くエゴ」とも言ってた。なるほどね。
実際、音楽ビジネスの隅っこで働いている自分としては、この映画においては、驚くことは1つもなかった。フィル・スペクターがイヤな奴だってのは、もう充分知られた事実だし、何も彼女たちも舞台裏の暴露話をしているわけでもない。フロントの奴、バックの奴、正直、どの人が発言する事について、驚くことは1つもなく、すべて納得で、すべてウンウンとうなずける、そういう話。
配られたプレス資料にのっていた五十嵐正さんのコラムがいい。(こういうキチンとした物を書かせるとタッドは超一流だよね〜)この文章は実際のパンフレットでも読めるのかしら… であれば、絶対に必読である。タッドがここで言うとおり、与えられた役割をきちんとこなす、という美学はホントにどの職業にも言えることだろう。まずは第一の感想がそれ(笑)
そうなのだ。すぐれたドキュメンタリーは、実はそこからグルグル回って,第2の感想、第3の感想が出てくるところが面白いのだ。で、以下が今朝走りながら考えた第2の感想。
私は後になって、スティービー・ワンダーの「楽しいからといって、自分の夢を捨ててはいけない。楽で楽しいことから、一歩踏み出さないとね」というのが、すご〜く気になった。
どの業界でも一緒だと思うのだけど、リスクを取って前に進むやつと、その場に甘んじる奴と、職業態度は2種類に分かれる。それを考えれば、究極的にはバックコーラスであるか、そうでないかは自分が決めることだ、とも言える。ここにおいてバックコーラスとは、文字通りの意味ではなく象徴的な問題だ。心構え、と言ってもいいかも。ただ、もちろん立つ自分が立つステージは、運とか金銭的なこととか、周りの環境、オーディエンスの共感がどのくらい得られるかでだいぶ違ってくる。
だからバック・コーラスがホントに自分のステージでないと思うなら、人からのオファーを指を加えて待っているだけではだめだ。自分の生活費はバックコーラスで稼ぎつつ、ちゃんと小さなライブハウスででも自分で歌うべきだ。自分の看板でお客さんを呼ぶべきだ。たとえばピーター・バックを見てみろ。本当にすぐれたアーティストはメジャーな場とともに、ちゃんと自分の表現活動が自由に出来るマイナーな場もキープしている。(それがどんなに大変なことか、私は分かっているつもりでいる)
そして考えてみれば、ウチなんかもおそらく世界で一番小さな音楽事務所だが、少なくとも私が制作したプロジェクトについては、基本100%自分のものだし、その意味においては私とフロントに立つミュージシャンはあくまで対等だ、とも言える。少なくとも私自身はそう信じている。もっと言ってしまえば自分が「すごい!」と思えるミュージシャンと対等に仕事がしたいから、私はこの仕事をしている。他人に自分の名前が知られるとか知られないとか,そういう問題ではなく、これはやっている本人の自覚の問題だと思う。
もちろん与えられたものをきちんとこなすという美学やストイックさはすばらしいと思うし、おそらく世界中の全人口がプロデューサーでありアーティストだったら、世の中うるさくてしょうがないだろう。黙って役割をこなす人ももちろん必要だ。でもスティーヴィー・ワンダーの「楽している」っていう言い方をしていたのも、ものすごくするどい指摘だと思う。つまりリスクを取る奴と取らない奴。与えられた場所で、自分のある程度の才能が発揮できれば、それはそれで幸せで良い、とする奴。もちろんどのレベルでのいろんな葛藤がある事は間違いないんだけど。でも常にリスクにさらされているフロントマンと、雇われでやってくる彼女たちとは訳が違う、ということも圧倒的な事実なのだ。
私が今の仕事が好きなのは、今の仕事をしていれば、ミュージシャンと互角にリスクをシェア出来るからだ。というか、金銭的なリスクはミュージシャンよりも、どちらかというとプロデューサーである私の側にある。自分の企画で、自分がファイナンスの責任をおっている以上、それは当然のことだ。一方「自分の看板を常にキープする」というリスクについてはミュージシャンも音楽事務所のプロデューサーも同じくらい負っていると考えられるだろう。これも重要。
でもここでまた、和田静香がブログで言っていたように、果たして自分は誰かをなぎ倒して進んできたのだろうか、と思う。少なくとも同業者には親切にしてきたつもりだ。自分が出来る範囲で人を紹介し、応援もしてきた。今ではそのほとんどが消えてしまったけど(笑)。でも一方、確かにこの事務所をスタートしてから、今までに断ったアーティストといったら、1,000越えたかもしれないよな、と思う。いや、間違いなく越えているだろう。一時は週に最低でも2コは売り込みが来ていた時期があった。となると1年で100コ、10年やってりゃ1,000は軽く越える。今ではそこまで多くはないけど…。
そしてそれを冷たい,という人はいるかもしれない。あいつに頼んだのにあいつは断ってきやがった、と。でもそれが自分の看板に対する責任ということなのだ。リスクを取らない奴にそれは分からないと思う。私がリスクを取るのが好きなのは、成功しても失敗しても、結果、自分だけの筋肉を得られるからだ。それは経験という筋肉だ。それはホントにお金には変えられない。だから私は誰がやっても同じ結果をたたき出すアーティストではなく、誰にも知られていない新しいアーティストをやりたい、と常に考えている。
バックコーラスから抜け出したかったら、ある意味自動的にやってくる仕事を断ってでも自分の足の上に立ち、自分のイメージをしっかりと作って行かないといけない。そのリスクを取れるか取れないか、ということなのだと思う。
そして、また、自分が今いる場所をなげく人もいる。「ここまでこれたのは周りのおかげだ」と感謝する人。「運さえよければ私も」「私の方が歌は上手かったのに」「心を込めて歌えば通じると思ったのに」という不運をなげく人。まさに人生いろいろだ。でもエディ・リーダーだってユーリズミックスやってたんだしさ… ホントいろいろだよ、いろいろ。
ってな感じで、以上、第2の感想。果たして第3の感想が出てくるかどうか? 映画としては「リベラーチェ」の方が圧倒的で楽しさもピカイチだったが、こっちは私たちみたいな職業について常に問題意識をかかえる人間は観なくちゃ行けない映画だと思う。公開は12月とまだ先のようだが、ぜひ公開されたら皆さんにも見に行ってほしいと思う。
そして、その期待は裏切られない。いわゆるスターを支えた裏方のバック・シンガーたちの話。本当は自分が歌っているのに名前がクレジットされない悲劇のシンガー。本当は自分もフロントで歌いたい。でもそこまでの6mは遠い。運良くソロアルバムを出すシンガーがいる。エゴがないとフロントには立てない、と言うアーティストもいる。数日前に和田静香がブログで「周りをなぎ倒して行くエゴ」とも言ってた。なるほどね。
実際、音楽ビジネスの隅っこで働いている自分としては、この映画においては、驚くことは1つもなかった。フィル・スペクターがイヤな奴だってのは、もう充分知られた事実だし、何も彼女たちも舞台裏の暴露話をしているわけでもない。フロントの奴、バックの奴、正直、どの人が発言する事について、驚くことは1つもなく、すべて納得で、すべてウンウンとうなずける、そういう話。
配られたプレス資料にのっていた五十嵐正さんのコラムがいい。(こういうキチンとした物を書かせるとタッドは超一流だよね〜)この文章は実際のパンフレットでも読めるのかしら… であれば、絶対に必読である。タッドがここで言うとおり、与えられた役割をきちんとこなす、という美学はホントにどの職業にも言えることだろう。まずは第一の感想がそれ(笑)
そうなのだ。すぐれたドキュメンタリーは、実はそこからグルグル回って,第2の感想、第3の感想が出てくるところが面白いのだ。で、以下が今朝走りながら考えた第2の感想。
私は後になって、スティービー・ワンダーの「楽しいからといって、自分の夢を捨ててはいけない。楽で楽しいことから、一歩踏み出さないとね」というのが、すご〜く気になった。
どの業界でも一緒だと思うのだけど、リスクを取って前に進むやつと、その場に甘んじる奴と、職業態度は2種類に分かれる。それを考えれば、究極的にはバックコーラスであるか、そうでないかは自分が決めることだ、とも言える。ここにおいてバックコーラスとは、文字通りの意味ではなく象徴的な問題だ。心構え、と言ってもいいかも。ただ、もちろん立つ自分が立つステージは、運とか金銭的なこととか、周りの環境、オーディエンスの共感がどのくらい得られるかでだいぶ違ってくる。
だからバック・コーラスがホントに自分のステージでないと思うなら、人からのオファーを指を加えて待っているだけではだめだ。自分の生活費はバックコーラスで稼ぎつつ、ちゃんと小さなライブハウスででも自分で歌うべきだ。自分の看板でお客さんを呼ぶべきだ。たとえばピーター・バックを見てみろ。本当にすぐれたアーティストはメジャーな場とともに、ちゃんと自分の表現活動が自由に出来るマイナーな場もキープしている。(それがどんなに大変なことか、私は分かっているつもりでいる)
そして考えてみれば、ウチなんかもおそらく世界で一番小さな音楽事務所だが、少なくとも私が制作したプロジェクトについては、基本100%自分のものだし、その意味においては私とフロントに立つミュージシャンはあくまで対等だ、とも言える。少なくとも私自身はそう信じている。もっと言ってしまえば自分が「すごい!」と思えるミュージシャンと対等に仕事がしたいから、私はこの仕事をしている。他人に自分の名前が知られるとか知られないとか,そういう問題ではなく、これはやっている本人の自覚の問題だと思う。
もちろん与えられたものをきちんとこなすという美学やストイックさはすばらしいと思うし、おそらく世界中の全人口がプロデューサーでありアーティストだったら、世の中うるさくてしょうがないだろう。黙って役割をこなす人ももちろん必要だ。でもスティーヴィー・ワンダーの「楽している」っていう言い方をしていたのも、ものすごくするどい指摘だと思う。つまりリスクを取る奴と取らない奴。与えられた場所で、自分のある程度の才能が発揮できれば、それはそれで幸せで良い、とする奴。もちろんどのレベルでのいろんな葛藤がある事は間違いないんだけど。でも常にリスクにさらされているフロントマンと、雇われでやってくる彼女たちとは訳が違う、ということも圧倒的な事実なのだ。
私が今の仕事が好きなのは、今の仕事をしていれば、ミュージシャンと互角にリスクをシェア出来るからだ。というか、金銭的なリスクはミュージシャンよりも、どちらかというとプロデューサーである私の側にある。自分の企画で、自分がファイナンスの責任をおっている以上、それは当然のことだ。一方「自分の看板を常にキープする」というリスクについてはミュージシャンも音楽事務所のプロデューサーも同じくらい負っていると考えられるだろう。これも重要。
でもここでまた、和田静香がブログで言っていたように、果たして自分は誰かをなぎ倒して進んできたのだろうか、と思う。少なくとも同業者には親切にしてきたつもりだ。自分が出来る範囲で人を紹介し、応援もしてきた。今ではそのほとんどが消えてしまったけど(笑)。でも一方、確かにこの事務所をスタートしてから、今までに断ったアーティストといったら、1,000越えたかもしれないよな、と思う。いや、間違いなく越えているだろう。一時は週に最低でも2コは売り込みが来ていた時期があった。となると1年で100コ、10年やってりゃ1,000は軽く越える。今ではそこまで多くはないけど…。
そしてそれを冷たい,という人はいるかもしれない。あいつに頼んだのにあいつは断ってきやがった、と。でもそれが自分の看板に対する責任ということなのだ。リスクを取らない奴にそれは分からないと思う。私がリスクを取るのが好きなのは、成功しても失敗しても、結果、自分だけの筋肉を得られるからだ。それは経験という筋肉だ。それはホントにお金には変えられない。だから私は誰がやっても同じ結果をたたき出すアーティストではなく、誰にも知られていない新しいアーティストをやりたい、と常に考えている。
バックコーラスから抜け出したかったら、ある意味自動的にやってくる仕事を断ってでも自分の足の上に立ち、自分のイメージをしっかりと作って行かないといけない。そのリスクを取れるか取れないか、ということなのだと思う。
そして、また、自分が今いる場所をなげく人もいる。「ここまでこれたのは周りのおかげだ」と感謝する人。「運さえよければ私も」「私の方が歌は上手かったのに」「心を込めて歌えば通じると思ったのに」という不運をなげく人。まさに人生いろいろだ。でもエディ・リーダーだってユーリズミックスやってたんだしさ… ホントいろいろだよ、いろいろ。
ってな感じで、以上、第2の感想。果たして第3の感想が出てくるかどうか? 映画としては「リベラーチェ」の方が圧倒的で楽しさもピカイチだったが、こっちは私たちみたいな職業について常に問題意識をかかえる人間は観なくちゃ行けない映画だと思う。公開は12月とまだ先のようだが、ぜひ公開されたら皆さんにも見に行ってほしいと思う。