NHKスペシャル 「私が愛する日本人へ〜ドナルド・キーン文豪との70年〜」を見ました

最近覚えた新しい言葉「北区愛(きたくあい)」。私の住んでいるのは足立区だけど、実はあの津田大介さんも認めた「名誉北区」と呼ばれる足立区新田。だから私も北区大好きなんです!(笑)だいたい北千住とか絶対に行かないし、赤羽と王子大好きだし、心はいつでも北区と一緒にあります。

そしてもちろん北区の名誉区民でもある、この方の大ファンでもあります。日本の文学を次々と世界へ紹介して来たドナルド・キーンさん。戦後、日本文学を次々に英訳。世界にアピールすることに貢献してきました。キーンさんのドキュメンタリー番組ということで、さっそく録画して拝見いたしました。「私が愛する日本人へ〜ドナルド・キーン文豪との70年〜」毎度ながらNHKさん、素晴らしい番組をありがとうございます。下記は番組の内容を私なりにまとめたものですが、私が勝手に勘違いしている部分もあるかもです。すみません。

松尾芭蕉(奥の細道=Narrow Road to Oku)、太宰治(人間失格=No longer human)、三島由紀夫など…そして日本人初のノーベル文学賞受賞の裏にもキーンさんの存在が。キーンさんは現在の村上春樹ブームにいたるまで、日本文化の国際化を成功させてきました。震災後には日本人国籍を取ったことでも知られています。アメリカ生まれの93歳。

そんなキーンさんが生涯をかけて考えてきた日本の魅力とは? 日本人とは何者なのか?

93歳の今も仕事への意欲にあふれるキーンさん。講演会など、今でも大変忙しくされています。番組はキーンさんの半生を綴ったドラマと、渡辺謙さんによるインタビューで構成されていきます。

キーンさん「私にとって太宰治は非常に訳しやすかった。まるで自分が書いているような感じでした。三島由起夫は難しかった。彼は非常に複雑な比喩があって…」

ドナルド・キーンさんを日本を結びつけたのは74年前…1941年太平洋戦争。アメリカ海軍に入ったキーンさんは激戦の島,アッツ島に派遣されました。20歳のキーンさんの勤務は捕虜の日本兵に尋問し文書を解読することでした。日本語はおもしろい、キーンさんは自分の任務にやり甲斐を感じていました。

キーンさんが日本に興味を持つきっかけとなったのは「源氏物語」。ニューヨークの本屋のバーゲンボックスで安く売られていたものを手にいれて読み、すっかりその魅力にはまってしまったのだそうです。1,000年も前に光源氏の物語を生んだ日本とはいったい…?

一方でアッツ島で接触した生身の日本人は…

アッツ島にいた日本軍は全滅しました。みんな手りゅう弾で自決したのです。「手りゅう弾は敵に向かってなげるものだろ? どうして自らの命をそんなに簡単に捨てられるんだ。絶対に間違っている」
再現ドラマの中でキーンさんを演じるのは
川平慈英さん。すごく良かった!

またその4ケ月後、ハワイでキーンさんは日本人に対する見方を大きく変えるものに出会います。それは日本兵が残した多くの日記でした。日本軍は兵士に日記を書く事を奨励していました。(ちなみにキーンさんと兵士の日記についてはこんな新聞記事もあり)そこに書かれていた兵士のお正月のシーン。戦地の島で7人だけ生き残った日本兵の、ささやかなお祝い。「戦地で迎えた正月。13粒の豆を7人でわけ、ささやかに祝う」

手りゅう弾で自決する日本人、そしてまた13粒の豆を分かち合い、ささやかにお正月を祝う日本人とは…いったい。

終戦から8年、日本が復興へ歩み始めたころ31歳のキーンさんは日本文学の研究者として念願の留学を実現させ京都で暮らし始めます。

キーンさん「日本人はなんで桜がそんなに好きなんですか? すぐ散ってしまうしお掃除が大変じゃないんですか?」


下宿屋のおかみさん「長く咲いていたら桜ではありません」「でもとってもきれいでしょう? ウチらはなんでこんなに儚い(はかない)ものに心惹かれるんだろうね」

キーンさん「儚い…」

なんと左のシーンは狂言を演じるキーンさん。日本好きの変わった外国人がいる、と評判になり、日本の文豪たちに会う機会に恵まれるようになります。


川端康成との出会い

キーンさん「先生の『雪国』感動しました。でもこの作品を英語に翻訳しようとすると苦労するなと思いました。例えば冒頭の“国境の長いトンネルを抜けると雪国であった”というところ。主語がありません。私が、なのか、汽車なのか… 最初の1行がすでに難関です」

「他には駒子が帰るといったり帰らないといったりする場面がありますよね? なんというか中味がないというか…いったい二人は何を話しているのか…。曖昧すぎてさっぱり分かりません」

川端さん「“曖昧”ですか。確かにそうかもしれません。キーンさんの言う事は、よく分かります。でもその曖昧さこそ日本的なんですよ」「曖昧さ…余白、余情とでも言うのかな…」「曖昧であるからこそ、逆に表情豊かに受け止められる力。その可能性を私は信じたのです」


再び渡辺謙さんとの対談シーン。

キーンさん「日本的なこと… 日本の絵画のことを考えると昔から日本人は全部は書かないです。山だったら線が1つあるだけで、あとは自分の想像力に任せる。それはとても日本的だ」

渡辺さん「ぼかすんですね」

キーンさん「そうです。それは日本的です。ぼけることは、なんとなく魅力的です」

では日本人の特徴は何か。キーンさんに上げてもらいました。


 あいまい(余情)
 はかなさへの共感
 礼儀正しい
 清潔
 よく働く


礼儀ただしさ:魏志倭人伝のころから、敬語を使うことで社会の礼節が保たれている 上下関係をはっきりする…という特徴

儚さ(はかなさ):日本人の英雄は始めは上手くいくけど最終的にダメになる義経のようなものが多い…とキーンさん。

渡辺さん「確かに忠臣蔵でも新撰組でも何でも最後は悲劇的なヒーローが多いですね」

キーンさん「人間としての弱さがある、それに同情できる、ということでしょう。そういう物の見方は非常に日本的だと思います」

次々生まれる戦後文学に胸を躍らせるキーンさん。日本の文学は今こそ世界に出るべきだ、と確信し、次々と日本の文学を英訳し、出版社に売り込んでいきます。

1948年、ケンブリッジ。終戦まもなく日本語研究を初めて間もないころ。ヨーロッパではまだまだ敗戦国日本に対する偏見と敵意で満ちていました。それを払拭するためにも1人でも多くの人に日本文学を読んでもらいたい… 

そして、いざ出版してみると、これが大変好評で「日本文学は世界に受け入れられる力がある」と確信。「私がやったことの一番の意味、それは日本文学は世界文学であると証明することです」「日本の小説は小説としてすべての人が読めるはず。理解できる。世界的な価値があると思っています」

日本は高度成長時代へ… キーンさんのもとに極秘の依頼が。日本の作家の誰をノーベル賞に選ぶべきか。スウェーデン・アカデミーはキーンさんを日本文化を研究している世界的権威とみとめ意見をもとめたのです。

川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫、西脇順三郎。これに対してキーンさんが回答した手紙が去年はじめて公開されました。キーンさんは谷崎潤一郎がもっとも素晴らしいと回答しました。「谷崎文学という大きな山脈があって、それを無視できなかった」「三島由紀夫は現代最高の作家だが、もし受賞したら日本の一般市民はとても奇妙に感じるだろう」1位に谷崎、2位川端、3位三島…と年功序列を重んじる日本社会にも配慮した回答でありました。


その後まもなく谷崎は亡くなり、日本人初のノーベル文学賞は川端康成に決定。キーンさんのアメリカの新聞へのコメント「川端の受賞は、極めて長い歴史を持つ日本の小説の伝統が世界の文学と合流したことを意味する」

1971年、キーンさんは新たな文豪と出会い意気投合します。司馬遼太郎。司馬さんとの出会いから11年。司馬さんの一言でキーンさんの人生は大きく変わる。司馬さんの一言で、キーンさんは新聞社で働くことになる。ちょうど莫大な貿易黒字で自信をみなぎらせていた日本。バブル経済前のJapan as No1の時期。日本人は道をあやまりつつあるのではないか、と按じていた司馬さん。日本に精通していたキーンさんに、キーンさんならではのメッセージを求めたのです。いったい何を日本人に伝えるべきなのか…

当時のエピソード。たびたび日本人から投げかける奇妙な質問。タクシーの運転手さんとキーンさんの会話。

「日本は食べ物が違うから大変でしょう?」
「お刺身とか食べられますか?」「大好物です」
「納豆は?」「大好きです」

日本独自である食べ物を「食べられない」と言われることを期待している日本人。「日本人は自分たちの特殊性を意識しすぎているように思うんです」

「お刺身は無理でしょうね、と尋ねる人はすべての日本人をつなぐ同志意識を楽しんでいるようである」

「明治以前から日本人は西洋のすべてを吸収することに営々と努力してきたが、西洋に対して日本文化の理解を広める努力を惜しんだようである」

反響は様々。外国人に日本人は理解できない、という投書も。どうすれば日本人にもっと耳を傾けてもらえるのか。司馬遼太郎からの宿題にどう答えるべきなのか。

たどりついたのは、日本人自身の言葉で伝えるある方法だった。次のキーンさんの連載のタイトル。「百代の過客〜日記にみる日本人」

「日本では日記が小説と並んで文学作品として認められている。それだけ中味が濃いんです。他の国は天気の記録とか約束事を書くことが多いのですが、日本人の書く日記にはその時々の考え方や感情が読み取れる」

「日本人というものについて、いいところも悪いところも見つめ直してもらうには大変良い教材だと思います」

「それに日記というのは私とって…日本人と私を結びつけた原点ですから」

「戦地で迎えた正月。13粒の豆を7人で分け、ささやかに祝う」

キーンさんは現代へのメッセージを探して、多くの日記を研究します。たとえば江戸末期アメリカへ行った男の日記。多くの文化的隔たりが会った時代にもかかわらず、それでも真心(まごころ)に変わりはないと共通性に目を向けている。また鋭い社会的視点を持った鎌倉時代の女性の日記など… 

日々膨大な数の日記と格闘する中、キーンさんは戦争中、文豪たちが書いた日記にも出会うことになります。その中の1つがキーンさんも親しくしていた伊藤整が書いた「太平洋戦争日記」。キーンさんが知っている伊藤整の姿は権力におもねることもなく自由を大切にするリベラルな文学者。が、しかし、キーンさんは伊藤整の人柄からは想像することもできない日記を読むことになるのです。アッツ島の日本兵についても伊藤さんは書いていました。「突撃全滅したというアッツ島の兵士たち。なんという一筋の美しい戦いをしたことであろう」

「美しい戦い?」なぜ兵士の死を美しいなどと言えるのか? 日本人はひとたび火がつくと熱狂しやすい面を持っていることは知られているが、あれほど自由を大切にしていた伊藤さんまでがそうだったとは…

キーン「日記ですから権力に従っているふりをする必要などないわけです。だとしたら本心からそう思っていたんでしょう」

キーンさんの担当編集者「でもそういう時代だったんですから」「難しいですね」

一方で谷崎の「疎開日記」 日記の中に戦争の文字はなく、目立っていたのは『細雪』の二文字。
「『細雪』は戦時中に連載が始まっています。しかし5ケ月後に連載中止に追い込まれてしまいます。『細雪』には日本人の戦前のゆったりとした様子が書かれているから、あの時代の空気感とあわなかったのでしょうね」

『細雪』を書いたことのみが、ひたすら谷崎先生の日記に書かれています。谷崎先生は強い意志をもって『細雪』を書き続けたのです。いつの時代も私たちは社会全体をまきこむ大きな渦の中で生きざるをえない。その中でも淡々と自分の信じる道を歩む日本人がここにいた。

「雨が降ろうが、空襲があろうが、『細雪』の出版が許されなくても、自ら仲間にこの小説を配って伝え続けた谷崎先生のメッセージ。それは日本人の本当の美しい部分を忘れるべきではない、というものでした。時代に決して流されることなく自分の信じる道を歩みつづけた谷崎先生。その姿こそ日本人の素晴らしい生き方として私は皆さまに知っていただきたいのです」

「(日本人は)大きな渦の中の人たちと一緒にいることを喜ぶでしょう」谷崎先生の目的は「日本はこういう文化のある国だった」と言いたかったのだ、と。そして彼は「もう以前のような日本はないかもしれない」とも考えている。それを記録して未来の人が「これが本当の日本だった」と分かるように谷崎先生は『細雪』を書いたのだと私は思います」

「家族のこともある、いろいろ問題があるから、そう簡単に自分1人で立ち上がることはできない。相当に勇気が必要だったと思う。多くの人が仕方がないから自分も人と同じことをやろう、と満足してしまうが、それは良くないです。谷崎先生のような人がいたことは日本の誇りだと思います」


その後もキーンさんは日本人に何を伝えるべきか考え続けてきました。2012年、日本国籍を取得。震災後の暗く沈んだ日本人に向け、自分は日本国籍を取り、日本人とともに歩んで行くと宣言しました。

「私は日本を信じます」

今でもキーンさんは日記を研究し続けます。生涯をかけて日本人を考え続けたキーンさん。今、私たちに伝えたいこととは?

「私はだいたいにおいて日本は良い方に来たと思います。しかし自分たちの伝統に興味がないということはひとつの弱点です」


「伝統は時々隠れている。見えなくなる。しかし流れています。続いています。それは日本の一番の魅力です」

ここからは余談。実は私も一度だけドナルド・キーンさんにお会いしたことがあります。アイルランド大使館のパーティで。普段、有名人見かけてもあんまりそんなことしないんだけど、キーンさんには思わずかけより名刺を交換してしまいました。鬼怒鳴門と日本語/漢字で書かれた名刺にとても暖かみを感じました。ドナルド・キーンさん、ありがとう。

そして谷崎も川端も何もぜーんぜんちゃんと読めてない自分を反省したのでした。すみません、学生時代に読んだはずだけどまったく記憶なし。今から読みます! 



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谷崎潤一郎