藤原てい「流れる星は生きている」を読みました。


読む前から、これは絶対に名著だと分かっていた。新田次郎を読んでいると言っていたら、この本を偶然2人の友人から同時に強力にレコメンされた。信頼できる友人なので絶対に間違いないと確信したし、あらすじを聞いただけですごいだろうな、と思った。今回のグリーンランド出張には、この本と植村直己の「青春を山に賭けて」を持って行った。グリーンランドでは、物価が高くて、ネットも死ぬほど高いし、フェスティバルで待ち時間も長いから読書が進む。結果、文庫本2冊と青空文庫の「北極のアムンセン」を読破。それぞれ感想文をアップしていこうと思う。今、帰国のフライトがスタックしたシシミウトの空港でこの感想文を書いている。狭い空港はフライトの遅延とキャンセルで、ちょっとした難民キャンプ状態だ。が、この本の過酷な旅に比べたら、2日に及ぶ長時間の東京までの旅もなんてことない。

本当はコペンハーゲンの空港のホテルで一泊する予定だった。久しぶりにバスタブのある場所でゆっくりお湯に浸かりたかったのに。それがホテルなしの状態で、経由地のグリーンランドの国際空港で7時間待ち、さらにコペンハーゲンの空港で10時間待ちしなくてはいけない結果になった。

で、この本をさっき読み終わった。いや〜〜、3冊とも良かったが、本作がやはり圧倒的だった。というか、今まで読んだどの本よりもパワフルですごい本だった。戦争が終わって満州からの想像を絶する子連れ帰国に挑んだお母さんの物語。まだ1歳にならない赤ちゃん、2歳の次男、5歳の長男を連れての決死の道のり。自分1人でも大変なのに、服はボロボロ、オムツも汚れ、食べ物もなく、飢えと寒さ、そして暑さと戦いながら、本当に何もかもが想像を絶する。特に山を越えて歩いていくところなどは、もう手に汗握るどころではない。子供を抱いて必死で川を渡り38度線を越えるところなどは、いや〜本当にハラハラドキドキなんてもんじゃない。どうか、どうか、どうにか助かってと読みながら、心から思いながら必死で読んだ。

この作品は、戦後大ベストセラーとなり、その成功が夫である新田次郎氏に本を書くように促したのだという。すごいなぁ。というか、とても「すごい」とかいう単純な言葉では片付けられないほどの本ではあるのだけど。これを読むと、自ら「生きてる意味を感じるために」わざわざ好きで行う探検家の冒険本など足元にも及ばない。(とはいえ、やはり探検家本はそれをわざわざやるところが最高にバカで魅力的なのであるが!)

とにかく生きるか死ぬかの、緊張の連続だ。やっとホッとしたと一息ついては、またこれでもかと災難が襲いかかる。が、そうしたものすごい緊張の中に、ふとした瞬間に音楽が著者の人生にシンクロするところが、これまたあまりに美しく心を打つ。そして夫の生死を占いのようなものにかけるのは、必死で生きている自分をも夫をも侮辱することだ、と思い直すシーンなど、とても感動的なのだ。そして帰国が近くなると「このまま帰国しても大丈夫だろうか、夫のいない未亡人となって嫌な女になるのだろうか」とか、考える下りは妙に実感がこもる。結論をここに書いても読むのにはまったく支障はないからあえて書くが、最後の最後に「もう死んでもいいのだ」と故郷の両親の腕の中で倒れていくシーンには涙が止まらなかった。この「もうこれ以上は生きられない」ってのが、すごい。私たちは普段は生かされているという自覚もなく生きている。「必死で生きろ!」という緊張感はまったくなく、あったかいお布団や、ぬるめのお風呂の中でぬくぬくしている。そんな感じの中でノラクラ生きて、つまらないことに悩んだり怒ったりしている。究極的に「生きろ!」と突きつけられた経験すらないから、それを感じるために海外から音楽家を呼ぶなどという大それた仕事をしたり、極地を探検したり、グリーンランドみたいな変な場所に旅に行ったりする…

後書きによれば、最終的に子供たちも全員助かり、みんな無事に成人し家庭を持つことになる。が、長男はあまりこのことを話そうとはせず、覚えていないはずの次男は川が怖い感覚があると話し、赤ちゃんだった娘さんは「自分だったら絶対に無理」と自分の子に話しているのだそうだ。著者は子供たちの前でも、夫とも引き上げの時の話はあえてしない、という。この本は実は著者が病気がちだった頃、子供たちが後で読めるようにと遺書として書き始めたのだそうだ。何かあった時、この本が彼らの生きる励みになれば、と。しかし著者は生き延び、この文章は本として発表された。

自分でこの大変な経験を忘れたくない、という感覚も分かる。レベルは違うが、私がこのブログを書くのも自分で自分のその時々のことを忘れたくないからだ。どんな状況だろうと自分はベストを尽くし、負けてしまいそうになりながらも頑張ってんだ、という誇りもあるが、実際はそればかりではない。思い出すのもトラウマな嫌なこともたくさんある。でも人に見せる以上に自分で覚えていたいのだ。後悔もすべて含めて自分の人生だから。

そして今、著者は立派に頑張った子供たちをまぶしそうに見つめ、「お母さんはこんなに頑張った」と言うこともなく、子供たちのの輝かしい人生を見送ってあげようと、厳しく自分を律している、とも書いている。(すべて後書きより)

そして、著者のように戦争時のものすごい極限の状態をシェアしてくれる人がいるにもかかわらず、今の日本にはこれを過去のものとはできない危うさがある。戦争は、このように誰の上にも極限の選択を迫り、本来失わなくていいような人間性を奪っていく。今ほどこの本が読まれるべき時期はないかもしれない。とにかくとにかくものすごく感動した。まだこの本を読んだことない人は絶対読むように!  

というか、本当に今ほど「どうやって生きるか」と言うことを考えなくてはいけない時期はないかと心から思う。何をやるにも相当な覚悟が必要な嫌な時代になってしまった。再び戦争へ突入するかもしれない危うさ、そして誰もがまっとうな判断力や、まっとうな人間性や寛容な心を失いかけている中で、この本が教えてくれることは本当に大きい。

生きるか死ぬかをかけているという意味では探検以上の探検であり、私が北極に惹かれるのも同じ理由だ。だから絶対に「あり」だと思うのだ、「極地」というコンセプト!(またそれかよ、と言われそうだが)

「あの戦争が何を教えてくれたか、言うことできない。それを言ってしまうとあの戦争を肯定してしまうことになるからだ」…とか言ってたのってオシムだったけ?   もちろん、そうだ。もちろんそうなのだが、誰もがが、そのことを真剣に考えなくなった時、ぬるま湯のお風呂とお布団天国で眠る時、大事なことは簡単に忘れてさられてしまうのだと思う。

そしてこの「母親」という存在の凄さだ。とにかく驚きの連続だ。お母さんってなんてすごいんだろう!  実は私が今回のグリーンランドの旅で一番感動したのは、すごい景色より犬ぞりよりナヌークのエルスナー兄弟のお母さんだった。この事はまたゆっくり書きたいが、あそこンチはお父さんも最高のキャラクターなのだが、お母さんはさらに素晴らしい。あの立派な息子たちを育てた、まさにこの母!という感じだった。でもナヌーク兄弟のお母さんも言ってた。あんまり彼らが自分の息子だということは人には言わないんだって。お母さんって、すごい存在だな。本当にすごい。私は自分では母親になることはなかったが、たくさんのミュージシャン息子、娘に囲まれて相当幸せだと思っているし、彼らのキャリアを手伝うことで、お母さん以上の何かを彼らから得ている。が、本当のお母さんと比べたら、単なるいいとこ取りでしかない!   そういう意味では1番得している、とも言える。

そんな風に状況はまったく違うのにこの本は妙に今回の旅とシンクロしてしまった。とにかく絶対に読んでみてください。絶対に後悔しません。ただし外で読む時は注意が必要。シシミウトの空港で泣けて泣けてしょうがなかった。