(1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)、(7)、(8)からの続きになります。いよいよケヴィン登場。しかしこういしてみると、やっぱりチーフタンズは「ダブリン(ドブリンとも言う)」のバンドなんだなぁ、と思います。
ケヴィン・コネフはダブリンの中心部リバティーズ地区に1945年1月8日に生まれました。(メアリー・ブラックと似たエリア。いわゆる下町な感じですね)お父さんは額縁職人、お母さんは6人の子供をかかえて大騒ぎだったようです。末っ子のケヴィンが二歳の時、お兄さんが病気でなくなり、ケヴィンの一番古い記憶は死んで行く兄の姿だったといいます。家では常にラジオが流れ「家族全員、音楽は大好きだった」そうですが、いわゆる伝統音楽ではなくラジオから流れる流行歌中心で、伝統音楽のことは何も知らなかったそうです。(このヘンもメアリー・ブラックと一緒)
しかしそんなケヴィンが伝統音楽の世界に足を踏み入れるようになったのは友達の影響だったのだそうです。18歳になったケヴィンは印刷会社に勤めるのですが、最初は下働き、そして努力を重ねて印刷技術を身につけると責任ある立ち場をまかされるようになりました。そしてたまたまそこの同僚たちが伝統音楽が大好きな人たちで、週末になるとお金を出し合って車を借りると田舎の方まで伝統音楽を聴きに行ってたんだって。ケヴィンはそんな風にして偶然、田舎の伝統音楽家に出会うのでした。「ただただ美しい音楽のために演奏する献身的な伝統音楽家に対して感じた敬意を、僕はあの日から一度も忘れたことがない。完全にとりこになってしまったんだ」
ケヴィンは週末になると田舎へ足を運び、自分も歌を学びシャーン・ノス(無伴奏の伝統歌唱スタイル)を歌いはじめます。最初のバウロンも3ポンドで購入。またキョールトリ・クーランでのオ・リアダのバウロン演奏を聞き「絶好調の時のリトル・リチャードに負けないくらいロックン・ロールを感じたんだ」と話しています。
ダブリンの伝統音楽シーンの常連となったケヴィンは、パイパーズ・クラブに通いはじめたり、オドノヒューズのパブに入り浸っている間にパディの目にとまったのでした。またケヴィンは自分でフォーク・クラブをプロデュースしたり精力的に活動していました。そこに著名な演奏家であるパディやショーン・キーン、マイケル・タブリディをブッキングしたりもしていたそうです。しかしそういった仕事にはどこか限界を感じていたのも事実です。とはいえチーフタンズのレコーディングに誘われた時、ケヴィンは本当にびっくりしたそう。
そしてレコーディングが始まって数日後、ケヴィンはパディにこの録音だけではなく正式なメンバーにならないかオファーされますが、この時、ケヴィンはパブの椅子から転げ落ちそうになるほどびっくりしのだそうです。「そこまで評価してもらえるのは嬉しかったけど…」「伝統音楽を演奏して、プロとしてお金ももらうことにも道義的な葛藤があった」とケヴィンは話します。「伝統音楽の理想を掲げてきたのに、生活のためにステージで歌うなんて」と。その数年前の自分ならチーフタンズと一緒にやることは絶対になかった、とも。しかしケヴィンは自分が「裏返しの音楽スノッブ」だったということも認めています。「チーフタンズをバカにするのは流行みたいなところもあった。レコードを出しているというだけで、商業主義に身売りした、とみんな決めつけていたんだ」
かーーーっっ、分かる。この感じ、分かる! うーん、この辺はホントに難しい。すべてはバランス感覚だとは思うのだけど… ホントに難しいですね。成功すれば妬みもひがみもある。自分の小さな生活をなりたたせなくてはいけないという葛藤もある… 本当に悩ましいものです。今も昔もレベルは違ってもミュージシャンの悩みは付きません。
そして心を決めたケヴィンが出演した最初の公演は… なんとエリック・クラプトンの前座という、ものすごい公演だったのでした。ケヴィンにとっては、これはダブリンの小さなフォーク・クラブで歌う以外の最初の公演になったのです。
そして76年「ボナパルドの退却」がリリースされました。このアルバムはチーフタンズ初めてのコンセプト・アルバムでした。作品をつらぬくテーマは「イングランドと戦ったナポレオン1世をいかにアイルランドが支援したか」という一般には知られていない史実でした。「歴史書を何度も読み、アイルランド人とフランス人の関係を理解したからこそ、発送できた交響詩」とパディはいいます。
そしてこのアルバムは初めて人間の声を録音したチーフタンズのアルバムになります。3曲の物語歌を聴かせてくれるのは当時17歳のドロレス・ケーン。チーフタンズは長い活動の中で多くの無名のアーティストを紹介する役割を果たしてきたわけだけど、その最初のアーティストはドロレスだったと言えましょう。ゴールウェイ生まれのドロレス、当時はジョン・フォークナーとロンドンに住んでいたのですが「最高の音楽的な声の持ち主だった」とパディはいいます。「すべての偉大な女性シンガーの中で、今でも僕はドロレスが最高だと考えている」
こちらは「ボナパルドの退却」の2年後にクラダから発売になった彼女のソロアルバム。パディに指摘されるまでもなく名作中の名作。傑作中の大傑作です。
そして私が好きなのはこれ。本当に傑作です。「Brokenhearted I wonder...」この時の旦那のジョン・フォークナーとのデュオ作品。ジョンがリード・ヴォーカル担当なのに、ドロレスの声がものすごく耳に残るんですよね。不思議なトラックです。
彼女はそのあとデ・ダナンに加入したり、素晴らしいソロアルバムをいくつか残しますが
アルコールの問題で引退状態に。数年まえにアルコールを克服し、乳がんも克服し、奇跡の「復活」を果たしますが、なかなか第一線には戻れていないようです。
ドロレスのこの曲大好き。ナンシ・グリフィスがバックコーラスを勤めています。泣けますね…
(10)に続く。
チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。
11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール
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ケヴィン・コネフはダブリンの中心部リバティーズ地区に1945年1月8日に生まれました。(メアリー・ブラックと似たエリア。いわゆる下町な感じですね)お父さんは額縁職人、お母さんは6人の子供をかかえて大騒ぎだったようです。末っ子のケヴィンが二歳の時、お兄さんが病気でなくなり、ケヴィンの一番古い記憶は死んで行く兄の姿だったといいます。家では常にラジオが流れ「家族全員、音楽は大好きだった」そうですが、いわゆる伝統音楽ではなくラジオから流れる流行歌中心で、伝統音楽のことは何も知らなかったそうです。(このヘンもメアリー・ブラックと一緒)
しかしそんなケヴィンが伝統音楽の世界に足を踏み入れるようになったのは友達の影響だったのだそうです。18歳になったケヴィンは印刷会社に勤めるのですが、最初は下働き、そして努力を重ねて印刷技術を身につけると責任ある立ち場をまかされるようになりました。そしてたまたまそこの同僚たちが伝統音楽が大好きな人たちで、週末になるとお金を出し合って車を借りると田舎の方まで伝統音楽を聴きに行ってたんだって。ケヴィンはそんな風にして偶然、田舎の伝統音楽家に出会うのでした。「ただただ美しい音楽のために演奏する献身的な伝統音楽家に対して感じた敬意を、僕はあの日から一度も忘れたことがない。完全にとりこになってしまったんだ」
ケヴィンは週末になると田舎へ足を運び、自分も歌を学びシャーン・ノス(無伴奏の伝統歌唱スタイル)を歌いはじめます。最初のバウロンも3ポンドで購入。またキョールトリ・クーランでのオ・リアダのバウロン演奏を聞き「絶好調の時のリトル・リチャードに負けないくらいロックン・ロールを感じたんだ」と話しています。
ダブリンの伝統音楽シーンの常連となったケヴィンは、パイパーズ・クラブに通いはじめたり、オドノヒューズのパブに入り浸っている間にパディの目にとまったのでした。またケヴィンは自分でフォーク・クラブをプロデュースしたり精力的に活動していました。そこに著名な演奏家であるパディやショーン・キーン、マイケル・タブリディをブッキングしたりもしていたそうです。しかしそういった仕事にはどこか限界を感じていたのも事実です。とはいえチーフタンズのレコーディングに誘われた時、ケヴィンは本当にびっくりしたそう。
そしてレコーディングが始まって数日後、ケヴィンはパディにこの録音だけではなく正式なメンバーにならないかオファーされますが、この時、ケヴィンはパブの椅子から転げ落ちそうになるほどびっくりしのだそうです。「そこまで評価してもらえるのは嬉しかったけど…」「伝統音楽を演奏して、プロとしてお金ももらうことにも道義的な葛藤があった」とケヴィンは話します。「伝統音楽の理想を掲げてきたのに、生活のためにステージで歌うなんて」と。その数年前の自分ならチーフタンズと一緒にやることは絶対になかった、とも。しかしケヴィンは自分が「裏返しの音楽スノッブ」だったということも認めています。「チーフタンズをバカにするのは流行みたいなところもあった。レコードを出しているというだけで、商業主義に身売りした、とみんな決めつけていたんだ」
かーーーっっ、分かる。この感じ、分かる! うーん、この辺はホントに難しい。すべてはバランス感覚だとは思うのだけど… ホントに難しいですね。成功すれば妬みもひがみもある。自分の小さな生活をなりたたせなくてはいけないという葛藤もある… 本当に悩ましいものです。今も昔もレベルは違ってもミュージシャンの悩みは付きません。
そして心を決めたケヴィンが出演した最初の公演は… なんとエリック・クラプトンの前座という、ものすごい公演だったのでした。ケヴィンにとっては、これはダブリンの小さなフォーク・クラブで歌う以外の最初の公演になったのです。
そして76年「ボナパルドの退却」がリリースされました。このアルバムはチーフタンズ初めてのコンセプト・アルバムでした。作品をつらぬくテーマは「イングランドと戦ったナポレオン1世をいかにアイルランドが支援したか」という一般には知られていない史実でした。「歴史書を何度も読み、アイルランド人とフランス人の関係を理解したからこそ、発送できた交響詩」とパディはいいます。
そしてこのアルバムは初めて人間の声を録音したチーフタンズのアルバムになります。3曲の物語歌を聴かせてくれるのは当時17歳のドロレス・ケーン。チーフタンズは長い活動の中で多くの無名のアーティストを紹介する役割を果たしてきたわけだけど、その最初のアーティストはドロレスだったと言えましょう。ゴールウェイ生まれのドロレス、当時はジョン・フォークナーとロンドンに住んでいたのですが「最高の音楽的な声の持ち主だった」とパディはいいます。「すべての偉大な女性シンガーの中で、今でも僕はドロレスが最高だと考えている」
こちらは「ボナパルドの退却」の2年後にクラダから発売になった彼女のソロアルバム。パディに指摘されるまでもなく名作中の名作。傑作中の大傑作です。
そして私が好きなのはこれ。本当に傑作です。「Brokenhearted I wonder...」この時の旦那のジョン・フォークナーとのデュオ作品。ジョンがリード・ヴォーカル担当なのに、ドロレスの声がものすごく耳に残るんですよね。不思議なトラックです。
彼女はそのあとデ・ダナンに加入したり、素晴らしいソロアルバムをいくつか残しますが
アルコールの問題で引退状態に。数年まえにアルコールを克服し、乳がんも克服し、奇跡の「復活」を果たしますが、なかなか第一線には戻れていないようです。
ドロレスのこの曲大好き。ナンシ・グリフィスがバックコーラスを勤めています。泣けますね…
(10)に続く。
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チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。
11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール