(1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)からの続き。まだまだ70年代の話が続きますよ。
さて前進するチーフタンズに多忙を極める一方で、パディはクラダをなんとか世界のレコード会社にしようと常に頑張っていました。1975年には南フランスのカンヌで毎年行なわれている音楽の国際見本市ミデムに初出展。世界中からレコード会社が集まる中、その競争の激しさもすごかったと思うのですが、パディは楽器を取り出し、アイルランド・
ブースは踊れや歌えやでおおいに盛り上がったようです。(ミデムって私は行ったことがないのですが、噂によると毎年アイルランドのブースはいつもパブ状態なんだそうです。この伝統はパディが作ったんですね!)また南フランス滞在中ガレクのお母さんがフランスの大きな邸宅をパーティ用に貸してくれたり楽しいこともたくさんありました。ここでもパディは持ち前の社交力を発揮し、多くの人を自分の味方につけることに成功するのでした。ミデムの期間中、パディはそのあとのチーフタンズの運命を大きく左右するジョー・ラスティングに出会います。ジョーはアメリカ人ですでにフェアポートやペンタングルをマネジメントし成功を収めていた男でした。数年前のケンブリッジ・フォーク・フェスティバルでチーフタンズの演奏はすでに確認済みです。ジョーはなんとか自分にマネジメントを任せてくれないかとパディに詰め寄ります。
その場では返事をしなかったパディですが、ジョーが熱心に言ってくるので、どうしたもんかと悩んでいました。交渉はダブリンでも続きました。そして… なんとジョーは「取り急ぎ公演を押さえた」といってパディに連絡してくるのです。それはなんと6,000人のキャパであるロンドンの名門ホール、ロイヤル・アルバート・ホールでの公演でした。その日はセント・パトリックス・デイ。たぶんジョーは、チーフタンズのメンバーに「自分はすごいんだぞ」「これだけやると言ってんだ、オレと契約しなさい」と言いたかったんでしょうね。パディは回想します。「アルバート・ホールを押さえた、と聞いて僕は彼が発狂したのではないかと思ったね」「あそこで演奏できるほど僕らは大物じゃあない」
しかもホールを押さえたのはなんと公演の3週間前。そして、なんと2週間でチケットは完売してしまったそうです。しかも観客の半分はアイルランド系ではなかったというから驚きです(どうやって調べたんだろ/笑。まぁ手応えということだとは思いますが)。確かにジョーはたくさんの媒体をブッキングし、広告を打ち、ラジオや公演の前日に発売になったメロディ・メーカーの記事を仕込むなど、メディアはチーフタンズの事を大プッシュしていたわけですが…それにしてもすごすぎます。また以前からチーフタンズを応援してくれていた人気DJで影響力の絶大なジョン・ピールの力も大きい。当時は本当にラジオや音楽メディアが力があった時代だったのです。ジョン・ピールは公演当日のMCまで引受けてくれました。
この公演の成功はチーフタンズに大きな自信を与えることになります。これはもしかしたらプロとしてやっていけるのではないか…とパディは思ったそうです。最初のレコードからすでに10年が経過していました。
ちなみに当時の公演では今のチーフタンズの公演にあるようなエンタテイメント性は一切なかったそうです。シンガーもいなければ,演出もなし、ゲストもライトもなし…という状況下、インストのダンス・チューンだけで、しかし公演は大変な熱気につつまれ大成功となります。6,000人のファンからアンコールを求められ、ポッツとパディは目に涙を浮かべて抱き合ったんだそう…。うーん、泣ける。
とはいえ、ある意味、ジョーの賭けに負けた形になるチーフタンズなので、パディはここで頭をかかえます。マネージャーが付くとなるともうここからは、この音楽の仕事をすべてに優先させる=つまりはプロになるということになります。安全な給料がもらえる日中の仕事は諦めなくてはいけない。メンバーはデレクをのぞくすべての家族に子供がおり、合計27名の生活がここにかかってくるわけです。果たして自分たちはプロとしてやっていけるのだろうか…。
一度はマネジメント契約するといって発表記者会見の直前で話が流れたり,ジョーと電話でどなりあったり… すったもんだのすえ、しかし最終的にチーフタンズはジョーと契約に至ることになります。3年契約。この3年で「普通の仕事の3倍は稼げるよ」とジョーはメンバーにもちかけます。何人かのメンバーは職場に3年だけ離職する、という条件で休職をお願いしたりしました。音楽の仕事が上手く行かなかった時にまたもとの職場に戻れるように、ということですね。ポッツはまた「(音楽を仕事としてやり始めると)お金の安全面だけに走ってしまい音楽的自由が束縛されるのもイヤだった」とも答えています。うーん、ホントにプロになるって難しい。そして真の伝統音楽家でもあるポッツは言います。「アイルランドに暮らす僕にとっては、“なぁ、ショーン1曲聞かせてくれよ”と言ってくれる人がひとりでもいるのなら、ぼくはそれだけで満足できるのさ」
ショーン・キーンによれば、奥さんのマリは夫が郵便局を辞めることに真っ向から反対しましたが、いったん心を決めてしまうと、とても協力的になってくれた、と言います。
「やりたいのなら精一杯やりなさい」と励ましてくれたそう。
さてアルバートホールでチーフタンズを目撃した業界人の中にアイランド・レコードのクリス・ブラックウェルがいました。彼はそののちチーフタンズに自分たちと契約しないかと持ちかけるのです。折しもボブ・マーリー&ウェイラーズ率いるレゲエ・ブームで、アイランドは大ヒットを次々と発表している最中だった。
さて…となるとチーフタンズは長年つきあってきたクラダを辞めることになります。これはかなり苦渋の決断でした。ガレクがあってこそのチーフタンズではあった。ガレクがつないでくれた人脈はすごかった。ガレクとパディ…2人は気まずい雰囲気になりますが、それでもここから先バンドが大きくなるためには、この決断は正しかった、と今、2人ともそう考えています。ガレクは言います。「バンドのお膳立てをしたのはクラダだった。しかしチーフタンズがクラダという会社以上のビックな存在になるためには、自由に飛んでゆく必要があると私も気づいたんだ」
ガレクへの恩義があったパディはクラダに続く4枚の作品に対し版権リリース契約を提示します。そうすることによってクラダは限定的とはいえ内容について口出しできるし、各アルバムの印税も得ることができる。そしてすぐメンバーは「チーフタンズ5」の制作にとりかかるのでした。初めてブルターニュの楽曲も取りあげ、この作品は非常に充実した内容のものになりました。レコーディングは1週間で終わり、ミックスが終えた時、アイランド・レコードとの契約に決められた期限までだいぶ先があった。うん、さすがパディ。余裕のよっちゃんです。ところが…ここで問題が。
ガレクの許可が必要なアルバムのアートワーク。ガレクはガールフレンドのひとりと会うためにアジアを旅行中で連絡をよこさない。期限がせまったパディとリタはガレクの屋敷に赴きガレクとの直談判にのぞみます。そこでガレクが言ったひとこと「もう手遅れだよ」と。これにはパディもパディの奥さんのリタもあきれます。「この契約を守らなかったらパディは即刻クビで私たちには何も残らない」とリタもキレまくる… そこへ助け船を出してくれたのはウエールズの劇作家アラン・オーウェン。「電話で彼に事情を説明しながら泣きたくなった」とリタ。アランは2人に多いに同情し、その場で原稿を書き始め、翌朝までに原稿を仕上げてくれたのでした。
そんなすったもんだも何処吹く風(笑)。チーフタンズと契約できて有頂天になったアイランドレコードは記者会見をひらき「彼等をスーパースターにする」と宣言します。そんな狂乱の夏の終わり、パディはジョー・ラスティングから再び連絡を受けます。ジョーはアルバートホールでの二度目の公演をパディの許可なく映画化する話を進めてしまっていたのでした。ここでも、すったもんだのあげく、ジョーの親族が係ったその映画は録画され完成し一度は上映されたもののあまりのクオリティの悪さにお倉入りに。今、チーフタンズ・ファンのもっともレアなコレクターズ・アイテムになっているそうです。
チーフタンズはその他にもチャリティイベントなどに参加して、エリック・クラプトンやショーン・コネリーなど、さらなるセレブ人脈を広げていきます。そして二度目のロイヤル・アルバートホール公演をかわきりに英国ツアーがスタートするのでした。チーフタンズ5はなんと発売週1週にしてイギリスだけで12,000枚を売り上げるヒットになっていました。ジョーもこのヒットを確固たるものにしようと馬車馬のように働きました。
またパディはこの時期、マイク・オールドフィールドとも親交を深めます。名作「チューブラ・ベルズ」に続く作品「オマドーン」でマイクはパディのパイプを欲しがったのでした。バースのリアル・ワールド・スタジオで初めて会ったマイクはパディにアイリッシュ・ウイスキーをよこしたのだそうです。パディいわく「僕は仕事中は飲まないんだが、マイクは礼儀だと思ったんだろうな…」と。パディは、ちょこっとウィスキーをなめて、マイクの歓迎に応えたのでした。マイクは何度かギターを演奏し「これにパイプが欲しいんだよね」と言うので、パディが適当にパイプを鳴らしていたところ「オッケー。今のテイクでいい」とあっという間にオッケーが出たらしく、 近くの店で打ち上げをしたそうです。
ダブリンに戻ったチーフタンズは、年末のおおがかりなアメリカ・ツアーに備えて充電期間に入っていたのですが、ここにまたキューブリックから電話がかかってきます。今度は25分にもおよぶトラックを新しく録音したいと。パディはメンバーに連絡をとりますが、貴重な家族との時間をロンドンでのレコーディングにうばわれるわけにはいかないとメンバーの大反対にあいます。こんな風にパディの人生の半分は、音楽ビジネスとメンバーとの板挟み状態なのでした。キューブリックは「この映画は君たちを有名にするよ」と頑張りますが、メンバーの意志もそれを伝えるパディも意志が固い。最終的にはロンドンでのレコーディングは家族付き。観光の時間も設けて遊びに来てもらって良いという結論で落ち着きます。しかし皮肉なことにこれだけの予算を使って行なわれたレコーディングの音源が、使われることはなかった…。というのもその曲が使われる予定だったシーン自体がカットされてしまったから。なんか残念ですよね…
しかしこんな風にパディのバンド・リーダー人生、ずっと外部の要求とバンド内の調整…ひたすらその連続だったのでした。
さぁ、次回はいよいよチーフタンズの本格世界進出が始まりますよ。(8)に続く。
チーフタンズの公演チケットは10月9日の「秋のケルト市」でも購入いただけますよ。アイルランドの音楽、文化、カルチャー、食が集合したイベントです。アイルランドのガイド・ブックを最近出版された山下直子さんのトークショウ他、豊田耕三さんのホイッスル・ワークショップなど盛りだくさん。是非ご来場ください。詳細はここ。
チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。
11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール
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その場では返事をしなかったパディですが、ジョーが熱心に言ってくるので、どうしたもんかと悩んでいました。交渉はダブリンでも続きました。そして… なんとジョーは「取り急ぎ公演を押さえた」といってパディに連絡してくるのです。それはなんと6,000人のキャパであるロンドンの名門ホール、ロイヤル・アルバート・ホールでの公演でした。その日はセント・パトリックス・デイ。たぶんジョーは、チーフタンズのメンバーに「自分はすごいんだぞ」「これだけやると言ってんだ、オレと契約しなさい」と言いたかったんでしょうね。パディは回想します。「アルバート・ホールを押さえた、と聞いて僕は彼が発狂したのではないかと思ったね」「あそこで演奏できるほど僕らは大物じゃあない」
しかもホールを押さえたのはなんと公演の3週間前。そして、なんと2週間でチケットは完売してしまったそうです。しかも観客の半分はアイルランド系ではなかったというから驚きです(どうやって調べたんだろ/笑。まぁ手応えということだとは思いますが)。確かにジョーはたくさんの媒体をブッキングし、広告を打ち、ラジオや公演の前日に発売になったメロディ・メーカーの記事を仕込むなど、メディアはチーフタンズの事を大プッシュしていたわけですが…それにしてもすごすぎます。また以前からチーフタンズを応援してくれていた人気DJで影響力の絶大なジョン・ピールの力も大きい。当時は本当にラジオや音楽メディアが力があった時代だったのです。ジョン・ピールは公演当日のMCまで引受けてくれました。
このパディの後ろ、アルバートホールですよね… |
ちなみに当時の公演では今のチーフタンズの公演にあるようなエンタテイメント性は一切なかったそうです。シンガーもいなければ,演出もなし、ゲストもライトもなし…という状況下、インストのダンス・チューンだけで、しかし公演は大変な熱気につつまれ大成功となります。6,000人のファンからアンコールを求められ、ポッツとパディは目に涙を浮かべて抱き合ったんだそう…。うーん、泣ける。
とはいえ、ある意味、ジョーの賭けに負けた形になるチーフタンズなので、パディはここで頭をかかえます。マネージャーが付くとなるともうここからは、この音楽の仕事をすべてに優先させる=つまりはプロになるということになります。安全な給料がもらえる日中の仕事は諦めなくてはいけない。メンバーはデレクをのぞくすべての家族に子供がおり、合計27名の生活がここにかかってくるわけです。果たして自分たちはプロとしてやっていけるのだろうか…。
一度はマネジメント契約するといって発表記者会見の直前で話が流れたり,ジョーと電話でどなりあったり… すったもんだのすえ、しかし最終的にチーフタンズはジョーと契約に至ることになります。3年契約。この3年で「普通の仕事の3倍は稼げるよ」とジョーはメンバーにもちかけます。何人かのメンバーは職場に3年だけ離職する、という条件で休職をお願いしたりしました。音楽の仕事が上手く行かなかった時にまたもとの職場に戻れるように、ということですね。ポッツはまた「(音楽を仕事としてやり始めると)お金の安全面だけに走ってしまい音楽的自由が束縛されるのもイヤだった」とも答えています。うーん、ホントにプロになるって難しい。そして真の伝統音楽家でもあるポッツは言います。「アイルランドに暮らす僕にとっては、“なぁ、ショーン1曲聞かせてくれよ”と言ってくれる人がひとりでもいるのなら、ぼくはそれだけで満足できるのさ」
ショーン・キーンによれば、奥さんのマリは夫が郵便局を辞めることに真っ向から反対しましたが、いったん心を決めてしまうと、とても協力的になってくれた、と言います。
「やりたいのなら精一杯やりなさい」と励ましてくれたそう。
さてアルバートホールでチーフタンズを目撃した業界人の中にアイランド・レコードのクリス・ブラックウェルがいました。彼はそののちチーフタンズに自分たちと契約しないかと持ちかけるのです。折しもボブ・マーリー&ウェイラーズ率いるレゲエ・ブームで、アイランドは大ヒットを次々と発表している最中だった。
さて…となるとチーフタンズは長年つきあってきたクラダを辞めることになります。これはかなり苦渋の決断でした。ガレクがあってこそのチーフタンズではあった。ガレクがつないでくれた人脈はすごかった。ガレクとパディ…2人は気まずい雰囲気になりますが、それでもここから先バンドが大きくなるためには、この決断は正しかった、と今、2人ともそう考えています。ガレクは言います。「バンドのお膳立てをしたのはクラダだった。しかしチーフタンズがクラダという会社以上のビックな存在になるためには、自由に飛んでゆく必要があると私も気づいたんだ」
ガレクへの恩義があったパディはクラダに続く4枚の作品に対し版権リリース契約を提示します。そうすることによってクラダは限定的とはいえ内容について口出しできるし、各アルバムの印税も得ることができる。そしてすぐメンバーは「チーフタンズ5」の制作にとりかかるのでした。初めてブルターニュの楽曲も取りあげ、この作品は非常に充実した内容のものになりました。レコーディングは1週間で終わり、ミックスが終えた時、アイランド・レコードとの契約に決められた期限までだいぶ先があった。うん、さすがパディ。余裕のよっちゃんです。ところが…ここで問題が。
ガレクの許可が必要なアルバムのアートワーク。ガレクはガールフレンドのひとりと会うためにアジアを旅行中で連絡をよこさない。期限がせまったパディとリタはガレクの屋敷に赴きガレクとの直談判にのぞみます。そこでガレクが言ったひとこと「もう手遅れだよ」と。これにはパディもパディの奥さんのリタもあきれます。「この契約を守らなかったらパディは即刻クビで私たちには何も残らない」とリタもキレまくる… そこへ助け船を出してくれたのはウエールズの劇作家アラン・オーウェン。「電話で彼に事情を説明しながら泣きたくなった」とリタ。アランは2人に多いに同情し、その場で原稿を書き始め、翌朝までに原稿を仕上げてくれたのでした。
そんなすったもんだも何処吹く風(笑)。チーフタンズと契約できて有頂天になったアイランドレコードは記者会見をひらき「彼等をスーパースターにする」と宣言します。そんな狂乱の夏の終わり、パディはジョー・ラスティングから再び連絡を受けます。ジョーはアルバートホールでの二度目の公演をパディの許可なく映画化する話を進めてしまっていたのでした。ここでも、すったもんだのあげく、ジョーの親族が係ったその映画は録画され完成し一度は上映されたもののあまりのクオリティの悪さにお倉入りに。今、チーフタンズ・ファンのもっともレアなコレクターズ・アイテムになっているそうです。
チーフタンズはその他にもチャリティイベントなどに参加して、エリック・クラプトンやショーン・コネリーなど、さらなるセレブ人脈を広げていきます。そして二度目のロイヤル・アルバートホール公演をかわきりに英国ツアーがスタートするのでした。チーフタンズ5はなんと発売週1週にしてイギリスだけで12,000枚を売り上げるヒットになっていました。ジョーもこのヒットを確固たるものにしようと馬車馬のように働きました。
またパディはこの時期、マイク・オールドフィールドとも親交を深めます。名作「チューブラ・ベルズ」に続く作品「オマドーン」でマイクはパディのパイプを欲しがったのでした。バースのリアル・ワールド・スタジオで初めて会ったマイクはパディにアイリッシュ・ウイスキーをよこしたのだそうです。パディいわく「僕は仕事中は飲まないんだが、マイクは礼儀だと思ったんだろうな…」と。パディは、ちょこっとウィスキーをなめて、マイクの歓迎に応えたのでした。マイクは何度かギターを演奏し「これにパイプが欲しいんだよね」と言うので、パディが適当にパイプを鳴らしていたところ「オッケー。今のテイクでいい」とあっという間にオッケーが出たらしく、 近くの店で打ち上げをしたそうです。
ダブリンに戻ったチーフタンズは、年末のおおがかりなアメリカ・ツアーに備えて充電期間に入っていたのですが、ここにまたキューブリックから電話がかかってきます。今度は25分にもおよぶトラックを新しく録音したいと。パディはメンバーに連絡をとりますが、貴重な家族との時間をロンドンでのレコーディングにうばわれるわけにはいかないとメンバーの大反対にあいます。こんな風にパディの人生の半分は、音楽ビジネスとメンバーとの板挟み状態なのでした。キューブリックは「この映画は君たちを有名にするよ」と頑張りますが、メンバーの意志もそれを伝えるパディも意志が固い。最終的にはロンドンでのレコーディングは家族付き。観光の時間も設けて遊びに来てもらって良いという結論で落ち着きます。しかし皮肉なことにこれだけの予算を使って行なわれたレコーディングの音源が、使われることはなかった…。というのもその曲が使われる予定だったシーン自体がカットされてしまったから。なんか残念ですよね…
しかしこんな風にパディのバンド・リーダー人生、ずっと外部の要求とバンド内の調整…ひたすらその連続だったのでした。
さぁ、次回はいよいよチーフタンズの本格世界進出が始まりますよ。(8)に続く。
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チーフタンズの公演チケットは10月9日の「秋のケルト市」でも購入いただけますよ。アイルランドの音楽、文化、カルチャー、食が集合したイベントです。アイルランドのガイド・ブックを最近出版された山下直子さんのトークショウ他、豊田耕三さんのホイッスル・ワークショップなど盛りだくさん。是非ご来場ください。詳細はここ。
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チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。
11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール