(1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)、(7)、(8)、(9)、(10)、(11)、(12)、(13)、(14)、(15)、(16)からの続きです。
結成から30年、93年年明けのグラミーのミネートを見てメンバーは湧き立ちます。なんと伝統音楽のグループとしては異例の実に5部門でノミネートを受けていたから。「アナザー・カントリー」は3つの部門で賞を競ってきました。最優秀コンテンポラリー・フォーク・アルバム、チェット・アトキンスとともに最優秀ポップ・インストルメンタル、そしてニッティ・グリッティと一緒に最優秀カントリー・ヴォーカル共演。加えて「アイリッシュ・イヴニング」がトラディショナル・フォーク・アルバムで候補になっていました。過去数年で6度候補にあがりながらも受賞を逃していたチーフタンズは今回は「アンプラグド」で9部門の候補になったクラプトン、「アクトン・ベイビー」で候補になったU2と競いあっていたのです。ボノもチーフタンズの大ファンで「俺の夢はジョン・ライドンがチーフタンズとレコードを作ることだ」「パイプが1セットあって…すごいヒットになるぜ…泣き節がきっと止まらない」などと発言していました。
候補が発表されたときチーフタンズはレコード会社のBMGの流通業者会議で演奏するためにロサンゼルスにいたのですが、「ケルティック・ハープ」は3月発売が決まっていたのものの、その次のアルバムについてはまだ何も決まっていませんでした。マネージャーのピートは言います「3枚の共演盤を作ったあと伝統音楽のCDを1枚作って、そのあとは何も考えていなかったんです」
ロサンゼルスにいるチーフタンズに、ザッパの奥さんゲイルから連絡が入ります。BBCテレビが夫をテーマに作っているドキュメンタリーがあるので、それに参加してほしい、と。実は当時ザッパはすでに自分の命が長くないことを知っており、ゲイルはなんとか彼を元気ずけようと毎週金曜日にミュージシャンの社交サロンを開いていたのでした。その日のゲストにはジョニー・ギター・ワトソン、チーフタンズ、ドラマーのテリー・ボジオ、そして中央アジアはトゥバのミュージシャンたちが集められていました。「あぁいう人たちがスタジオに集まったらどうなるか、フランクは試してみたかったんだと思う」カメラが回るうちにチーフタンズが湧き立つような伝統音楽を演奏して、ザッパはそれを幸せそうにながめていたそうです。
またこの年、デレクは念願のインドへの巡礼の旅を実現させています。この旅にパディは家族で付き合うことにし、ガレクはお金持ちの友人を紹介してくれたのですが… 山登りの準備をしてこなかったパディたちは大変なめにあいました。特にデレクはいつものツアーに出る恰好と一緒。いつものジャンパーとスーツ、それにマークス&スペンサーのビニール袋という出で立ち。それでもなんとか目的を達成し、この休暇を満足いくものにしたわけです。(しかし仕事人間のパディはここでも山頂で地元の村民から歌をならい、それを息子がビデオカメラに収録してしたそうです)
そしていよいよグラミーのセレモニーが始まります。出発の前日パディはお気に入りのダブリンのシェルボーンホテルでインタビューを受けていました。「アメリカでは多くの人々がアイルランド音楽はお涙頂戴の[アイルランドの瞳輝く時]とか[お母さんの出身はアイルランドかい]みたいな歌(つまり観光向けのクールではない歌)みたいなものだと思っている。そうじゃないんだ、ということを伝えたいんです。アイルランド音楽は実に素晴らしい音楽であり、チーフタンズはそのことを伝える魔法のような手法を身につけています」
チーフタンズが会場に到着してみると、そこには大勢の取り巻きをつれたマライヤ・キャリーやビリー・レイ・サイラスといった連中が。ダブリンからの飛行機を降りたばかりでくたくたのマットはチーフタンズの他のメンバーとともにパーティに参加しました。みんな候補に上がっている者の証明として赤いリボンのついたメダルを身につけています。この日も働き魔のパディは翌日トム・ジョーンズとレコーディングする段取りを組んでいたというから驚きです(これは次の「ロング・ブラック・ヴェイルに収録されるトラックですね)。
まず始めに「最優秀ポップインストルメンタル」部門が発表されたが、残念ながら「美女と野獣」に破れます。続く「最優秀カントリー・ヴォーカル・デュオ」もマーティ・スチュアートとトラヴィス・トリットの「ウィスキーも効きやしねぇ」に破れます。そして「最優秀カントリー・インストルメンタル」がチェット・アトキンスとジェリー・リーズの「スニーキン・アラウンド」に弾き飛ばされる頃には、チーフタンズにとってはまたしてもグラミーを逃す年になるかのように思われました。目に見えて落込んだパディはプログラムをのぞいてメンバーに言います。「こういう部門でそれぞれ誰と競っていたのか,気づいてなかったよ。ジョーン・バエズ、T・ボーン・バネット、ミシェル・ショックト、インディゴ・ガールズときたもんだ。勝ち目はないね」そして「なぁ、みんな来年はラップのアルバムをつくらなくちゃいけなくなるぞ」と冗談をかましていました。
しかし次の瞬間、すべてが変わります。だしぬけに「最優秀トラディショナル・フォーク・アルバム」の封筒が開けられ、チーフタンズの「アイリッシュ・イヴニング」が受賞したのです!!! パディやった!!!
信じられない、というようにパディが他のメンバーを率いてステージに上がりグラミー賞を受け取ります。マイクの前にたつとパディはやおらゲール語で話しはじめ、コンサートでやるいつものジョークを披露しはじめました。そして英語で「今のはありがとう、と言っただけです」と言い直します。そして続いてすぐに「アナザー・カントリー」が「最優秀オンテンポラリー・フォーク・アルバム」部門を受賞し2つ目の受賞となるわけです。
ステージを降りながらも、お祝いを言う人々にもみくちゃにされるチーフタンズだったのですが、その時にケヴィンに声をかける若者がいたそう。その人は「ぼくらはチーフタンズが大好きなんだ」と。振り向くと1人しかいなかったので「僕らとは?」と聞くと、若者は「僕とマイケル」と答えたのだという。1時間後、マイケル・ジャクソンが「デンジャラス」で受賞した時、その若者もステージにあがったのをみて、ケヴィンは本当にびっくりしたそう。(なんとマイケル・ジャクソンもチーフタンズのファンだった!?)
授賞式の後、意外としけた祝賀ビュッフェでプラスティックのフォークとナイフで食事をしながら(パディはこういう事、よく覚えてますね!!)チーフタンズは翌日のレコーディングのことを考えていました。「明日は早く起きてザッパのスタジオへ行き、トム・ジョーンズとレコーディングをしないといけない」(さすがパディ、仕事魔です…。グラミー受賞翌日だからって休んでません)
当日担当したエンジニアによると、当初ザッパはこのレコーディングには興味をしめしていなかったのだそうです。何より具合が悪かったし、自分はスタジオを貸すだけで、あくまでこの企画においては外部の人間だと。コントロール室でザッパはアイルランド人のジャーナリストを相手におしゃべりをしていましたが、チーフタンズについて自分が感じていることを「記録に残して」おきたいと言い出します。
ザッパは熱弁をふるいます。「連中がやっている音楽のすべてが好きだ。この街にくるたび毎回ここでレコーディングしている」「U2はポスト・モダン・ロッカーとか言われているが、いったいそれはどういう意味かい?」「ケルト文化に直接つながる産物、チーフタンズの音楽はそういうことだ」(うううう、泣けますなぁ!)
あれこれぶちまけてしまい機嫌がよくなったザッパは、スタジオをのぞきはじめます。そしてスタジオの中であれこれ提案も初めてしまい、アレンジの変更を指示したりしたそうです。「最初興味がないとか言ってたのに、可笑しかったね。最終的に出来たものに大いに貢献してくれた」トム・ジョーンズも病気で死にそうになっているザッパが録音に立会っているのをみて驚いたと言います。「彼は死ぬ寸前だった。具合が悪いのは見てわかったし、実際、途中で抜けて病院に向っていったね」録音は3テイクであっという間に終ると、ザッパの奥さんが用意してくれたビールでやっとホッとしたチーフタンズはトム・ジョーンズとともにパーティを始めます。それがあまりも楽しくトムは飛行機をのがしてあやうくその日のウチにニューヨークに帰ることが出来なくなりそうだったと言います。
さてグラミー受賞のあとパディは本格的にチーフタンズにアメリカのマネジメントを付けようと動き出します。長年チームを組んだ宣伝担当のチャールズ・カマーの推薦で、パディはヴァンクーヴァーを拠点としてたマインド・オーヴァー・マネジメントと出会います。
スティーヴ・マクラム、サム・フェルドマン、そしてブルース・アレンという共同経営者たちはブライアン・アダムス、kdラングなどと係ってきました。このチームとチーフタンズは3年のマネジメント契約を結びます。そしてスティーヴとパディはチーフタンズの次作である「ロング・ブラック・ヴェイル」のためのブッキングに着手していくのです。
ちなみに、このスティーブはチーフタンズと一緒に日本に来たことがあるんですよ。写真、載せちゃえ。これは新宿にダブリナーズさんがオープンした時のキャンペーンでチーフタンズのポスター撮影があった時のもの。チーフタンズ、そして代理店の皆さん、カメラマンの皆さんに混じって私もちゃっかり写っています(白いシャツ)。パディがしっかり私の腰に手を回して来たのを覚えてますよー(笑)。
そして真ん中で偉そうにしているのがスティーブさん。隣りはプランクトンの川島恵子社長。恵子さんいわく「スティーブってこういう時、(自分が真ん中に座っちゃって)パディに全然気を使わないのよねぇ…」「でもジョニ・ミッチェルとの共演とかそういうのは絶対にハズさないんだからさすがだわ…」(なんかすごく覚えているこの撮影シーンとこの会話)
さてハリウッドボウルでの大きな公演を成功させ、チーフタンズはまっすぐロンドンに飛び、ローリングストーンズの30周年記念パーティおよびミックの50歳のパーティへの出演を受けて演奏しました。ここでミックとストーンズはチーフタンズの次のレコーディングに協力することを承諾してくれます。そして当時ミックが借りていた美しいキルデアの邸宅にパディは呼ばれました。ここでミックたちは「ヴードゥ・ラウンジ」を録音するかたわら、チーフタンズのトラックもどうするか話し合いに応じてくれたんですね。パディはミックにアイルランドのレベルソング(英国支配への抵抗を題材にした愛国的な歌)を歌ってほしかったのだけど、ミックはそれをいやがり結局曲は「ロング・ブラック・ベイル」に落ち着いたんだって。この曲はミックが昔からお気に入りの曲で、当時ザ・バンドが「ミュージック・フロム・ビック・ピンク」でカヴァーしているヴァージョンが好きだったんだそう。
さていよいよ名作「ロング・ブラック・ヴェイル」へ。チーフタンズは誰もが知っているバンドへと躍進するのです。
(18)に続く。
チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。
11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール
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候補が発表されたときチーフタンズはレコード会社のBMGの流通業者会議で演奏するためにロサンゼルスにいたのですが、「ケルティック・ハープ」は3月発売が決まっていたのものの、その次のアルバムについてはまだ何も決まっていませんでした。マネージャーのピートは言います「3枚の共演盤を作ったあと伝統音楽のCDを1枚作って、そのあとは何も考えていなかったんです」
ロサンゼルスにいるチーフタンズに、ザッパの奥さんゲイルから連絡が入ります。BBCテレビが夫をテーマに作っているドキュメンタリーがあるので、それに参加してほしい、と。実は当時ザッパはすでに自分の命が長くないことを知っており、ゲイルはなんとか彼を元気ずけようと毎週金曜日にミュージシャンの社交サロンを開いていたのでした。その日のゲストにはジョニー・ギター・ワトソン、チーフタンズ、ドラマーのテリー・ボジオ、そして中央アジアはトゥバのミュージシャンたちが集められていました。「あぁいう人たちがスタジオに集まったらどうなるか、フランクは試してみたかったんだと思う」カメラが回るうちにチーフタンズが湧き立つような伝統音楽を演奏して、ザッパはそれを幸せそうにながめていたそうです。
またこの年、デレクは念願のインドへの巡礼の旅を実現させています。この旅にパディは家族で付き合うことにし、ガレクはお金持ちの友人を紹介してくれたのですが… 山登りの準備をしてこなかったパディたちは大変なめにあいました。特にデレクはいつものツアーに出る恰好と一緒。いつものジャンパーとスーツ、それにマークス&スペンサーのビニール袋という出で立ち。それでもなんとか目的を達成し、この休暇を満足いくものにしたわけです。(しかし仕事人間のパディはここでも山頂で地元の村民から歌をならい、それを息子がビデオカメラに収録してしたそうです)
そしていよいよグラミーのセレモニーが始まります。出発の前日パディはお気に入りのダブリンのシェルボーンホテルでインタビューを受けていました。「アメリカでは多くの人々がアイルランド音楽はお涙頂戴の[アイルランドの瞳輝く時]とか[お母さんの出身はアイルランドかい]みたいな歌(つまり観光向けのクールではない歌)みたいなものだと思っている。そうじゃないんだ、ということを伝えたいんです。アイルランド音楽は実に素晴らしい音楽であり、チーフタンズはそのことを伝える魔法のような手法を身につけています」
チーフタンズが会場に到着してみると、そこには大勢の取り巻きをつれたマライヤ・キャリーやビリー・レイ・サイラスといった連中が。ダブリンからの飛行機を降りたばかりでくたくたのマットはチーフタンズの他のメンバーとともにパーティに参加しました。みんな候補に上がっている者の証明として赤いリボンのついたメダルを身につけています。この日も働き魔のパディは翌日トム・ジョーンズとレコーディングする段取りを組んでいたというから驚きです(これは次の「ロング・ブラック・ヴェイルに収録されるトラックですね)。
まず始めに「最優秀ポップインストルメンタル」部門が発表されたが、残念ながら「美女と野獣」に破れます。続く「最優秀カントリー・ヴォーカル・デュオ」もマーティ・スチュアートとトラヴィス・トリットの「ウィスキーも効きやしねぇ」に破れます。そして「最優秀カントリー・インストルメンタル」がチェット・アトキンスとジェリー・リーズの「スニーキン・アラウンド」に弾き飛ばされる頃には、チーフタンズにとってはまたしてもグラミーを逃す年になるかのように思われました。目に見えて落込んだパディはプログラムをのぞいてメンバーに言います。「こういう部門でそれぞれ誰と競っていたのか,気づいてなかったよ。ジョーン・バエズ、T・ボーン・バネット、ミシェル・ショックト、インディゴ・ガールズときたもんだ。勝ち目はないね」そして「なぁ、みんな来年はラップのアルバムをつくらなくちゃいけなくなるぞ」と冗談をかましていました。
しかし次の瞬間、すべてが変わります。だしぬけに「最優秀トラディショナル・フォーク・アルバム」の封筒が開けられ、チーフタンズの「アイリッシュ・イヴニング」が受賞したのです!!! パディやった!!!
ステージを降りながらも、お祝いを言う人々にもみくちゃにされるチーフタンズだったのですが、その時にケヴィンに声をかける若者がいたそう。その人は「ぼくらはチーフタンズが大好きなんだ」と。振り向くと1人しかいなかったので「僕らとは?」と聞くと、若者は「僕とマイケル」と答えたのだという。1時間後、マイケル・ジャクソンが「デンジャラス」で受賞した時、その若者もステージにあがったのをみて、ケヴィンは本当にびっくりしたそう。(なんとマイケル・ジャクソンもチーフタンズのファンだった!?)
授賞式の後、意外としけた祝賀ビュッフェでプラスティックのフォークとナイフで食事をしながら(パディはこういう事、よく覚えてますね!!)チーフタンズは翌日のレコーディングのことを考えていました。「明日は早く起きてザッパのスタジオへ行き、トム・ジョーンズとレコーディングをしないといけない」(さすがパディ、仕事魔です…。グラミー受賞翌日だからって休んでません)
当日担当したエンジニアによると、当初ザッパはこのレコーディングには興味をしめしていなかったのだそうです。何より具合が悪かったし、自分はスタジオを貸すだけで、あくまでこの企画においては外部の人間だと。コントロール室でザッパはアイルランド人のジャーナリストを相手におしゃべりをしていましたが、チーフタンズについて自分が感じていることを「記録に残して」おきたいと言い出します。
ザッパは熱弁をふるいます。「連中がやっている音楽のすべてが好きだ。この街にくるたび毎回ここでレコーディングしている」「U2はポスト・モダン・ロッカーとか言われているが、いったいそれはどういう意味かい?」「ケルト文化に直接つながる産物、チーフタンズの音楽はそういうことだ」(うううう、泣けますなぁ!)
あれこれぶちまけてしまい機嫌がよくなったザッパは、スタジオをのぞきはじめます。そしてスタジオの中であれこれ提案も初めてしまい、アレンジの変更を指示したりしたそうです。「最初興味がないとか言ってたのに、可笑しかったね。最終的に出来たものに大いに貢献してくれた」トム・ジョーンズも病気で死にそうになっているザッパが録音に立会っているのをみて驚いたと言います。「彼は死ぬ寸前だった。具合が悪いのは見てわかったし、実際、途中で抜けて病院に向っていったね」録音は3テイクであっという間に終ると、ザッパの奥さんが用意してくれたビールでやっとホッとしたチーフタンズはトム・ジョーンズとともにパーティを始めます。それがあまりも楽しくトムは飛行機をのがしてあやうくその日のウチにニューヨークに帰ることが出来なくなりそうだったと言います。
さてグラミー受賞のあとパディは本格的にチーフタンズにアメリカのマネジメントを付けようと動き出します。長年チームを組んだ宣伝担当のチャールズ・カマーの推薦で、パディはヴァンクーヴァーを拠点としてたマインド・オーヴァー・マネジメントと出会います。
スティーヴ・マクラム、サム・フェルドマン、そしてブルース・アレンという共同経営者たちはブライアン・アダムス、kdラングなどと係ってきました。このチームとチーフタンズは3年のマネジメント契約を結びます。そしてスティーヴとパディはチーフタンズの次作である「ロング・ブラック・ヴェイル」のためのブッキングに着手していくのです。
ちなみに、このスティーブはチーフタンズと一緒に日本に来たことがあるんですよ。写真、載せちゃえ。これは新宿にダブリナーズさんがオープンした時のキャンペーンでチーフタンズのポスター撮影があった時のもの。チーフタンズ、そして代理店の皆さん、カメラマンの皆さんに混じって私もちゃっかり写っています(白いシャツ)。パディがしっかり私の腰に手を回して来たのを覚えてますよー(笑)。
そして真ん中で偉そうにしているのがスティーブさん。隣りはプランクトンの川島恵子社長。恵子さんいわく「スティーブってこういう時、(自分が真ん中に座っちゃって)パディに全然気を使わないのよねぇ…」「でもジョニ・ミッチェルとの共演とかそういうのは絶対にハズさないんだからさすがだわ…」(なんかすごく覚えているこの撮影シーンとこの会話)
さてハリウッドボウルでの大きな公演を成功させ、チーフタンズはまっすぐロンドンに飛び、ローリングストーンズの30周年記念パーティおよびミックの50歳のパーティへの出演を受けて演奏しました。ここでミックとストーンズはチーフタンズの次のレコーディングに協力することを承諾してくれます。そして当時ミックが借りていた美しいキルデアの邸宅にパディは呼ばれました。ここでミックたちは「ヴードゥ・ラウンジ」を録音するかたわら、チーフタンズのトラックもどうするか話し合いに応じてくれたんですね。パディはミックにアイルランドのレベルソング(英国支配への抵抗を題材にした愛国的な歌)を歌ってほしかったのだけど、ミックはそれをいやがり結局曲は「ロング・ブラック・ベイル」に落ち着いたんだって。この曲はミックが昔からお気に入りの曲で、当時ザ・バンドが「ミュージック・フロム・ビック・ピンク」でカヴァーしているヴァージョンが好きだったんだそう。
さていよいよ名作「ロング・ブラック・ヴェイル」へ。チーフタンズは誰もが知っているバンドへと躍進するのです。
(18)に続く。
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チーフタンズ来日公演の詳細はこちら。
11/23(祝)所沢市民文化センターミューズ アークホール
11/25(土)びわ湖ホール
11/26(日)兵庫芸術文化センター
11/27(月)Zepp Nagoya
11/30(木)Bunkamura オーチャードホール
12/2(土)長野市芸術館メインホール
12/3(日)よこすか芸術劇場
12/8(金)オリンパスホール八王子
12/9(土)すみだトリフォニー大ホール