シド・バレット再発!

シド・バレットがもう何度目かになるんだけど再発するみたいだ。まだ知らない人は是非! シドは、私も詳しくないけど、サイケ時代のピンク・フロイドの中心人物。クレイジー・ダイヤモンド。そしてロビン・ヒッチコックに多大な影響を与えた人。

前にも載せたことあるインタビューですが、再掲しちゃいます。



「18歳から19歳くらいの時だ。僕の人生はそこまでは割と順調だった。学校でも出来が良かったし、周りとも上手くやってた。でも突然いろんな理由で上手くいかなくなったんだ。自分がとても惨めに感じられた。71年とか72年くらい。何が悪いというわけではない。時代の空気かもしれない。前の世代は第二次大戦があって、僕らにはドラッグがあったし、ウッドストックがあったのだが…。自分に対してなぜかとても惨めに感じていた。そんな時、バレットの2枚目を買って…こいつは僕が感じているすべてを言ってくれている、と思ったんだ。内側が破裂しているケンブリッジのミドルクラス(イギリスでは金持ちのことです)のマザコンの男が、同じく内側で破裂しているミドルクラスのウインチェスター校(これもぼっちゃん寄宿舎校です)にいるちっぽけなマザコンの僕に語りかけてきた」

「僕は音楽をやり始めていた時期で、ディランに傾倒していたのだが、ディランはミネソタからやってきたユダヤ系のチビのカーリーヘアの奴で、地元にいるぺったりした茶色の僕にとっては、あまりにも遠い灯りみたいな存在だった。僕はディランになりたかったのに、自分と彼との間の溝を埋められないでいたのさ。そしてシド・バレットに出会った。バレットが僕にとってはディランとのミッシング・リンクだった」

「60年代、メロディ・メーカーとかに載っていたことを思い出して欲しい。当時の英国は英国のボブ・ディランを求めていた。ロイ・ハーパー、デヴィット・ボーイ、いろんな人たちがいた。僕にとっては英国のディランはバレットだった。同じ激しさ、そしてルックスの良さ、シドはあっという間に破滅してしまったけど…」

「ボブ・ディランは僕がなりたかったもので、バレットはどうしたらそうなれるのか教えてくれたものだと思う。僕のように育った環境を持つものにとって、シドは道筋だった。バレットを経由してそういう世界に入っていったのさ」

「セカンドに針を落とし『Baby Lemonade』が始った瞬間、そして今、プロの音楽家として30年やってきた後に聞いてみると、この作品はいろんな意味で荒削りな部分があったと思う。『帽子が笑う』にしてもそうだけど……。この作品って聞く側の音楽家を2つに分けるよね。何人かの人は「これはひどい」って言う。ビートは外してるし「なんでこんなことやってんだろう?」って。でも他の連中は「これこそ地獄の才能の杯を飲んだ者だ」と評価しピュアなものだと分かるんだ。僕にとっては、このレコードのすべては… すべては本当に正しいように思えた」

「バレットは、ピンクフロイドと素晴らしいアルバムを1枚作り、結局その可能性を駄目にしてしまった。もちろん「もしそのままフロイドにいたら」みたいな議論はあるけど、それでは本当に重要な点を見失ってしまうと思うんだ。彼が彼のように生きなかったら、彼にはなりえなかった。悪いところもあわせ抱かないと、良いところは得られないんだよ」

「シドの2枚のアルバムは気楽に聞けるものではない。『夜明けの口笛吹き』みたいにきちんとプロデュースされてはいない。プロダクションは立派だが『口笛吹き』で得られるものはサウンドであって歌ではないんだ。『バレット』や『帽子が笑う』は、もっとパーソナルな作品だ。『帽子が笑う』の方が、もっと間抜けな感じかも? ソロでアコースティックな曲が多いし… でもあれは、彼が人生に問題をかかえているんだということを、燃やした作品なのさ。子守唄のようなレコードと言って良いのかも…『バレット』はとても暗く、そしてとても真面目なレコードだ。今,聞くとのはとても辛い。ジョン・レノンの『Plastic Ono band』と並ぶ激しさを持っている。全然違う分野のものだけどね。何故か分からないけど、それが僕を捕らえたんだと思う。世間の評判は一番良くないみたいだけどね…。でもあの作品を理解できることは素晴らしいよ」

こちらはデイブ・ギルモアによるシドの話。





シドが亡くなって、13年か…