フィル・スペクターが亡くなった。作品の良さと本人の最悪度の距離があまりに大きな人の典型。いったい何人のミュージシャンが彼のマッド度に悩まされてきただろう。が、出来上がった作品はどれも素晴らしいものだ。特にこういう多重な細部まで行き渡ったサウンドは後に続くミュージシャンに多大な影響を与えた。
才能って、人格とは別のものだと思うな。何人かのミュージシャンを見ていていつも思うのだけど、その多くが自分の才能を持て余している。持って生まれてしまった才能。自分は普通に生まれたかったのに。
音楽は人間よりも大きいものだ。自分のキャパシティよりも大きなものを背負ってしまった人の人生は、もうそれだけで破綻している。 それを前提に考えないとダメだよね。
なんか近頃では有名俳優が不倫して芸能界から追い出されたり、犯罪ならともかく謝罪会見うんぬんとかありえないよ。迷惑をかけたのは、正規のパートナーと有名俳優の有名な部分にお金を払ったスポンサーだけで、一般の市民はその人に一文も払っちゃいいない。彼らが更生するときに使える唯一の持ち物であるかもしれない才能すら奪っちゃって、いったいこれからどうするのさ…と思うのよね。それって死刑と一緒だと思う。その人の立ち直る権利まで奪ってどうする?
とはいえ、普通の人の視線をもってすれば、才能とその持ち主を切り離すことは難しい。たまーに、自分のミュージシャンが第3者と話しているところを見ていると、その第3者がミュージシャンを人間扱いしていないのがよくわかる時がある。神様だと思ってくれているのは有り難いのだが、それは現実ではない。そういう誤解によってミュージシャンはとても傷つく。でもって、ファンであればあるほど、才能のある人には、人間的にもすばらしくあってほしいと願ってしまう。確かにそういう神業を実現できる人も多い。また音楽業界も広いから、才能がないのに「人がいい」だけで生き残れる…という立場が存在するのも、これまた確かだ。が、少なくない数の稀有な才能の持ち主が、日々その才能のおかげで破滅していく。
こちらもフィル・スペクター作品だった。プロデューサーの存在を意識して聞いたことはなかったけど、とても好きなジョン・レノンの名作「ジョンたま」。「僕はセイウチだった。今はジョンだ」
もっともこの作品の素晴らしさはジョンの心の叫びを引き出した作詞・作曲・歌唱にあって、サウンドということではないと思うし、フィル・スペクターは、この作品についてはほとんど最後の仕上げにしか立ち会わなかったという話だけど。
天国に行けたかどうか知らないけれど、音楽の神様は自分の元に彼がやってきて喜んでいるかもしれない。その世界で彼は好きなスタジオに永遠にこもっていつまでもいつまでも音をいじり続けていることだろう。
ユキさんのラモーンズねた。マッドだ… マッドすぎる。
かつて楽屋でジョニー・ラモーンに質問した時のことを書きました。「フィル・スペクターは銃を向けたのか?」#RAMONES #ラモーンズ #フィルスペクター https://t.co/1WhkCKpUtg
— YUKI KUROYANAGI (@yukinaco05) January 18, 2021