國分功一郎さん『暇と退屈の倫理学』を読みました。これは間違いのない名著!!


ひきつづきたまりにたまったブック・レビューを載せていきます。

國分功一郎さん。TBSのLIFEで登場されていたので、お声は知っていたけど、本は読んだことなかった。

で、今頃になって、初めて読んだ。

な、なんだ、これ、めっちゃ名著じゃーーーん!! っていうか、読んでないの私だけだった?

プラチナ本決定!!!!!!!!!!!!!

いやー ここ数年読んだ本の中でもかなり私好み。そうか、私って哲学が好きだったのか。忘れてたけど、そもそも大学も哲学学科だったしな。

もうとにかくページをめくるたびに響くことこの上なし。「あ、ここ響く」「これこれ! 絶対にブログに紹介しよう」と、ページの角を折り曲げながら読んでいったら、折った箇所が山のようになってしまった。

そのいくつかを紹介する。この本はこれからの私を励ましてくれる本だ。そんな未来の自分のためにこのブログにメモっておく。この本は私にパワーをくれる本だ。こういう本が読みたいのだ、こういう本が!

そもそも生きるということは壮大な暇つぶしだと私もかねてから思ってきた。こんなに長い時間与えられて、自分が満足のいかない人生を送らねばいけないなんて苦痛でしかない。自分の思い通りの人生にしたい、そしていい感じで最後に「お迎え」とやらがやってきたら最高なのだが、それは簡単ではない。

ある意味、お金を使って幸せになれる人は楽ちんだろう。ブランドものの高いバックで幸せになれるなんて安いもんだ。例えば旅もいい。でもお金と暇があれば誰でもできるような旅はしたくない。どんなに貧しくても自分の大好きなアーティストを応援するために渡航する。

そういうことが私にとってはすごく大事なのだ。

でもそれはお金があればできることではないから、私の幸せは難易度が高い。アホでバカな継続する静かな幸せもよかろう(例えば結婚とか。結婚している人、ごめんなさい)。

が、それでは満足できないやっかいな性格なのだ。

角幡唯介さんも言っていた。「生きるということは不快に耐えてやりすごす、時間の連なりに他ならない」(超名著「アグルーカの行方」より)

その壮大な人生=暇と退屈の過ごし方に対する向き合い方をこの本は教えてくれる。

誤解なきよう。このあとにも説明するが、退屈であることと物理的な忙しさはまったく関係ない。忙しくてもなんとなく退屈している、ってよくあることでしょう?

まず先生はパスカルやスピノザ、ルソー、ニーチェ、ハイデッガーを紹介しながら、読者を導いていく。

パスカルはいう「愚かなる人間は、退屈にたえられないから気晴らしをもとめているにすぎないというのに、自分が追いもとめるもののなかに本当に幸福があると思い込んでいる」

確かに。するどすぎて言葉もない。ウサギ狩りに行く人にウサギをあげるよ、と言っても喜べない。それは「欲望の対象」と「欲望の原因」を取り違えているからだ。

またラッセルはいう。「人間が求めているのは幸福ではなく、興奮だ」と。一言で言えば、退屈の反対は「幸福」ではなく「興奮」である、と。

うーん、深い。これは私にはめちゃくちゃ実感がある。興奮する人生、エキサイティングな人生を私はのぞんでいるのだ、と。

そしてあれこれ「退屈」を説明したあげく、ラッセル先生は結論としてそれを解決するのは「熱意」だという。

えっ…

要は「がんばりなさい」ってこと? それ答え?? 

確かに自分で行動を起こし、能動的に動くことでかなりの興奮は得られる。私だって、つとめてそういうふうには生きているつもりだ。それは楽しいよ、楽しいけどさ、それしか答えがないの? いつまでもずっと頑張らないといけないの?

また、例えば仕事で「熱意」を得られれば、収入にもつながり一石二鳥ではあるが、それは一部のラッキーな人だけの話だ。一方で趣味や推し活みたいなものも良かろう。でも、先生、それしか答えはないんですかい?

これはこれで良い結論としながらも、國分先生は次なるステップを紹介してくれる。

熱意を持って行動する、それは良い。だがしかしその熱意を外から与えられていないだろうか、注意深く吟味する必要がある、という点だ。例えば今で言うなら戦場にいる若者は幸せだろうか。

また熱意は自分をもしばってしまう。こうしようと心を決めた瞬間、その人は自分の熱意に囚われてしまう。こうしなくちゃいけない、こうならなくちゃいけない…

これは幸せなんだろうか? 絶対にそうではない。

そして次に来るのがスヴェンセンの『退屈の小さな哲学』。ここではとにかく「置かれた場所で咲きなさい」的な話が展開される。

現状に満足し、ロマンチシズムを捨て、現実的に生きろ、と。私らしくあろう、なんて到底無理なのだ、と。個人の存在意義などを見つけようとしても無理だ、と。

ほぉ、そうですかい。確かにそれは正しいかも。

でも國分先生はここで「それは消極的な解決方法。それでは退屈しているのは退屈しているお前が悪いと言い返しているようなものだ」と言ってくれる。

…國分先生、ありがとう、ですよね、ですよね…!!!(喜)

そして、次の章で先生は人間はいったいいつから退屈しているのか…という課題に取り組んでいく。

狩りなど遊動生活が長かった人間。そっちの方の歴史が長いから、まだまだ人間の精神も肉体も実は定住生活に向いていない。

食糧獲得、そしてゴミ、そしてトイレ、そして死者との新しい関わり方… とにかくすべてにおいて生物としての人間に、今のこの生活は無理があるのだ、と先生は言う。

そして次に本書のテーマ「定住によって人は暇を回避する必要に迫られるようになった」とへ突入していく。

とにかく人間は「恒常的な課題として退屈を回避しなければならない」わけだ。人生、ずっとそれとの戦い。これは生きているかぎり延々と続く戦いにほかならない。

そして次に先生は退屈を分析していく。

退屈はまた「時間がないのに退屈している」という不思議な現象も導き出す。(これ、めっちゃ重要ポイントです)

あなたも、私も経験あるでしょ。忙しくて時間がどんどんたってしまうのに、ちっとも楽しくないという現象! 全然面白くないというあの感じ! あるある、めっちゃある! ありすぎるよ!

友達とご飯に行った。気づいたら、5時間も話していた。それは楽しい。でもなんか虚しくないか?

そして、先生の話はかつて古い貴族、有閑な人たちは、暇をどう有意義にやりすごすかを心得ていたということに入っていく。昔の金持ちや有閑族は、芸術家をサポートしたり、本当に時間の使い方を心得ていた。

が、今の暇な人たちは、まったくそうではない。(だから宇宙に行ったりするんだな…。まぁ宇宙に行かなくても旅行とか、まったくもって、ありがち!)

例えば社会主義者のラファルグは、労働の重要性を時、余暇も大事、余暇こそ資本主義の枠から抜け出る方法だと言った。

ラファルグはのちにマルクスの次女と結婚するというくらいマルクスの近くにいた。そして資本主義が大嫌いだった。労働者階級は自分たちを苦しめている労働を信奉するという狂気に陥っている、とラファルグは主張した。

そして余暇をとることで資本主義の外側に…と説明するのだが、しかし國分先生は「余暇は資本主義の外側にはない」と解く。

細かいことは説明しないが、そこから話は労働、そして自動車メーカー:フォードの哲学へと突入していく。

そしてフォードこそ、労働者に余暇を与え、同時に消費を促した大元だ、という話になる。1日8時間労働そして余暇の承認。しかしそうやって与えられた時間=暇を、果たして労働者はどう使っていいかわからない。ここにポイントがある。

かつての暇な人は貴族であり、大金持ちであり、余暇をどう使いこなすかをわかっていた。今の暇な人は自由を与えられて、何をどうしていいのかまったくわかっていない。

そして登場するのが、その暇な労働者に自動車を売るという消費社会の循環だ。フォードはこれで大成功を納めたわけだ。つまり暇を与えられた人間は、消費社会にがっつり組み込まれてしまうわけだ。

余暇は労働者をおもんぱかって与えられたものではない。労働者に消費させるために生まれたものなのだ。(あぁ、もうこのへん、ひびきまくり!!)

ここまで来るともうこの本の中に読者はどっぷり浸かってしまうことだろう。そこから続く「いかに消費させるか」「消費しつづけさせるか」ということを消費社会は目指しているわけなのだ。こんなことやってたら、人間は絶対に幸せになれるはずがない!

そして現代における本当の贅沢とは何か、芸術の楽しみ方など話はどんどん広がっていく。

例えばラッセルは「楽しむ能力を身につけるべきだ」とも説く。例えば食べ物でもそうだ。私たちは食べている。が、本当に食べているはいない。ちゃんと味わっているのか? 会話はどうか? くだらないことを話していないか?

与えられたものから、一体何を受け取り、自分のものにしていくか…。それが贅沢なのだ、と。そういうことなんだと思う。そしてそういう贅沢を取り戻そう、と。贅沢を取り戻すとは、人間であることを楽しむことなのだから…

とまぁ、ここまで来ると本当にワクワクしてくるでしょう?

まぁ、これ以上細かくここでは紹介しないので私のブログを読んで興味を持った方は読んでいただくとして、とにかく読んでいて何度も膝を打つことこのうえなし。自分が普段悩み考えて悩んんでいることに大きな大きな回答を与えてくれたと思う。

なお文庫化による「あとがき」の追加でも國分先生はこのようにも話す。

「我々は何もすることがないという状況に耐えられない」「暇になると苦しくなる」

「その苦しみは実に強力なものであって、身体的な苦しさよりも苦しい。だから人は、何もすることがない状態、何をしてよいかわからない状態の苦しさに陥るのを避けるためであれば、よろこんで苦境に身を置く」

「よろこんで苦境に身を置く」これ、なんかいろんなこと考えさせられませんか? 戦争だったて、そうだよね…

この感動は私の大好きな本『自由をつくる、自在に生きる』に似ているとも思った。自由も、もがきながら、なんとかしてやっとこさ手につかんでいられる、とても存在が危ういものだ。

ちょっと気を抜くと不自由に絡みとられたり、自分から不自由に突っ込んでいってしまったりもする。手に入れたと思ったら、するっと逃げてしまう。そしてまた手に入れようと努力する… そういう「もがき」こそ自由なのだ、と。

『自由をつくる〜』はもっとチャラチャラした…でも内容のある…エッセイで、私は大好きで、何度も何度も読み返しているのだけど、國分先生のこの本はちゃんとした哲学書であり、相当真面目でありながら、同時にとても読みやすい。

というか、國分先生も(いつの間にか先生と呼んでいる自分がいる)ずっとこういったことで悩まれたのだろうと想像できる。

ありがとう、國分先生!! 素晴らしい本をありがとう!

本当にこの本良すぎる!! こういうのが読みたかったのよ。…という中、國分先生の本は、「中動態」が積読になっちゃってる。早くあっちも読まないと。