伝統という重み:JPP



なんといっても2010年最大の思い出は、長年憧れだったJPPを招聘できたこと。これにつきるでしょう。

私もこの仕事をはじめて15年目に突入しようとしていますが、今年になってやっと伝統音楽とは何かが分ったような気がしました。それを教えてくれたのはアルト・ヤルヴェラ、ティッモ・アラコティッラ、そしてJPPです。

彼らのツアーは静かだったよ。本当に静かだった。あまり彼らは感情を前に出さない。こういう国民性なんだなと思ってみるけど、私の知っている他のフィンランド人は、もっとうんと普通だ。だからこれはペリマンニ特有のものなのかも? アンティなんかもフリッグで来日した時と、性格が違う!って感じ。(でも二人だけになると、よく話したけどね。アンティ、いろいろありがとう!)

それにしてもアルトとティッモ。今年はノルディックトゥリーのツアーから、そのままJPPというわけで、二人と2週間べったり一緒にいたことになる。長いツアーだった。でもシミジミと、シミジミと良いんだよね、この二人。本当に本当に派手さはまるでないし、ジョークも面白くないんだけど、でも、しみじみと良いんだよねぇ。

そして悪い事にJPPもノルディックトゥリーもコンサートがほとんどNO PAだったことから、私はすっかりそういう音になれてしまった。今ではPAを通した音は、のっぺりと平らでまるで面白みがないように思える。繊細なボウイング、そして大きな大きなダイナミクス。それがPAを通すと、まるで伝わってこないんだよ。コンサートはやっぱり生音に限る!! そう思ってしまう今日このごろなのでした。いかん、ますますマニアックな方向へ自分が行ってしまう……

そんなわけで、今年の私のPerson of the yearは、マウノ・ヤルヴェラに差し上げたいと思う。JPPと一緒に仕事をしていると、みんながマウノのことを尊敬しているのが本当によく分る。誰も何も言わない。でも分るんだ、みんなが心からマウノを慕っているのが。ペリマンニは多くを語らない、でも多くを意味する。だってあの音楽を聴いてみてよ。あんなに豊かで繊細な音楽は他には存在しない。

JPPを呼べたのは本当に武蔵野文化事業団のKプロデューサーのおかげだ。Kさん、すごい決断だったよ。「ノルディックトゥリーで苦労するならJPPでも同じでしょ」とさらっとJPPをブッキングしてくださった。実は私はこの時点ではあまりJPPの音楽に興味はなかった。でもJPPのツアーを組めば、ハーモニウムもミュージシャン2人も日本にいることになるし、あとはハンスさえ呼べばノルディックトゥリーのツアーはなりたつ。だからノルディック・トゥリーのツアーをやりたくて、JPPを呼んだ。でもってJPPにはさほど期待してなかった。JPPの旬は「ストリングティーズ」を出した90年代の後半で、もうバンドとしての全盛期は過ぎているだろうと思ったのだ。(いつもここに書くようにバンドの命は本当にはかないものなのです)

武蔵野が決まった段階で、もう赤字だろうがナンだろうが,ツアーは催行する覚悟を決めたのだが、そこに伊丹のコンサートを持ってきてくださったハーモニーフィールズさんにも大感謝だ。そして北海道ではコンカリーニョさんが手をあげてくださり、一応ツアーの体裁を整える事ができた。やった!

実は伊丹でのコンサートはホール側の要請で伝統曲オンリーのプログラムにしてくれという事になった。ご存知のように現在のJPPは、ステージで演奏する曲の90%がオリジナルだ。たった3回しかない公演でステージ上の自由がなくなって、他のメンバーはどうだか知らないけど、アルトは明らかにイヤがっていたし(反対にテイッモは面白がっていた)、ペリマンニの正装(白シャツに黒ベスト)は、それほど嫌がらずにやってくれたけど、この日のプログラムはメンバーにとっては何年も演奏してない曲を演奏するのに、ほんとうに大変だったはずだ。しかも「Hale Bopp」(マウノ作曲)も「Engel」(ティッモ作曲)とかも、もちろんなし。

でもこの日のマウノは,素晴らしかったね。あれはいったいなんだったのか? 伝統曲をやることで火がついたのか? それとも実は「今日の演奏は久しぶりの曲ばかりで、演奏が本当にヤバいぞ」という焦りから、自分がバンドを引っ張らねばならないという事で火がついたのか? あとからアルトも言ってたけど、あの日のマウノには神様が降りてきていた。本当に素晴らしかった。一歩前に出て、バンド全体をひっぱる様子は、おそらくバンドがもっと若くてブイブイとアメリカをツアーしてたころの演奏と何ら変わらないものであっただろう。

今回のツアーでももしかしたら健康上の理由でマウノは来れないかもという話が幾度かあがった。ブッキングはご存知のとおりこういうコンサートは1年前に決まるので、「またビザを取る段階で難しそうだったらエスコに頼もう」とアルトとは話していた。でもエスコが来たら,こんな風にはならなかったと思う。エスコは派手なプレイヤーで、本当に楽器がうまい。楽器はめちゃくちゃ巧くて、おそらく現在の若手フィドラーの中で「一番うまい」のは彼だろう。でも、あの深みはエスコじゃ絶対に出ないんだよね。

JPPの音楽は、ペリマンニの哀愁が、人生の哀愁が、すべて集約されたような音楽だった。そして……なんというのかなぁ、やっぱりすごいと思うのは、この円熟度なんだよね。ずいぶん前に来日したデイヴ・マネリー(アコーディオン/アイルランド)が10年くらい前にインタビューに答えて言っていた。「自分は今のアイルランドやケルト圏のバンドは全然興味ない。1920年代のアメリカの音楽が素晴らしいと思うんだ」質問者である松山晋也さんが「その頃の音楽にあって、今のアイリッシュミュージックにないものはなんだと思いますか」と質問すると、デイブは少し考えたあと、「円熟(maturity)」と答えた。

今、やっと今、デイヴの言う円熟ってのが分ったような気がするのだ。円熟度は……たぶん長く音楽をやっていないと出ない。いや、長さはもしかしたら関係ないな。ましてや自分のエゴがあると一瞬にしてきらめきを失ってしまうものだろう。音楽に、この伝統に対する自分の献身度。これなんだよね。これが本物の音楽の円熟、そしてこれこそが伝統音楽なのだ。

と、ここまで書きましたが、実際は音を聴くとJPPってめちゃくちゃ過激なことをやってます。そこが本当に素晴らしい。とりあえずいわゆる「豊かなフィドル系」音源を貼付けてみましたが、この良さが分るかなぁ。こういうのにハマるとね、もうボウイングがぐっちゃぐちゃなユニゾンのバンドとか聞けないんだよ。繊細なボウイングと大きなダイナミクス。これを知っちゃうとね、もう他の音楽がノッペリしちゃって聞けない。メロディを丁寧に扱おうと思ったら、ボウイングはあって当然なのだ。もちろんクラシックみたいにヒステリックに意図的にボウイングを揃えるのは全然健全じゃないと思うよ。でもたとえばヴェーセンをみていて。ミッケはウーロフの呼吸とあわせてメロディを奏でている。だから二人のボウイングは、いつもよくあっているのだ。それはまるで意識することなしに。

このメロディに対する献身度が……音楽を聴けば分るでしょう? 演奏者のエゴなど、みじんも無い。このメロディに向かってバンドがまとまる感じ。これが音楽の豊さなんですよ。

しかしJPP。今後どうするかなぁ。ライブ盤というものすごい名盤が出来たのだけど、もう来日は……おそらく2度と無理だろうし、せめてライブ盤をリリースしてみようかと心がゆれている。が、リリースしても意味ないんだよね。すぐにアマゾンとかで入ってくるから、お客さんはそこで買えば良いのだし、リリースして来日のための予算稼ぎができるならいいけど、それも今やありえないしね。リリースしたら赤字になる可能性は大。そんなJPPについては、まだまだ書きたいことがあるので、この後しばらく続く予定。