ポール・ブレイディ来日までの道のり15:子供時代のポール 続き

Sion Millsには4歳から11歳まで通ったのだそうです。お母さんの運転するMorris 8(こんな車です。可愛い!)に揺られながら、3マイル(5kmくらい)。そこでポールは英国式の教育を受けた。でも学校はとてもリベラルな学校で平等主義がつらぬかれ、プロテスタント系の学校ながらカトリックもプロテスタントも、男子も女子もすべて平等に扱われたのだそうです。これは北アイルランド中では、あらゆる意味でとても珍しい事で、ポール自身も他の学校だったらありえなかっただろうと話しています。(リベラルとはいえ、それなりに限度もあったようで…なにせ50年代ですからね…お母さんはカトリック系だったので、副校長までにしかなれなかったと考えていたようだ、とポールはインタビューに答えています。いろいろ複雑ですね)

これをポールがラジオで話したとき、RTEアイルランド国営放送のDJのおばちゃんも「how very sensible!」とびっくりして感動していたくらい。1950年当時、これは非常にレアなことでした。いずれにしても北アイルランドで育ってみれば、人にはカトリックの人もいたり、プロテスタントの人もいるんだという事を子供ながらに理解してた、と。ですが、そしてとても平等主義的な教育が行われていたのだそうです。確かにいくつかなんとなく避けていた話題があったのだそうです。例えば7月12日のことは話題にしない。そしてもちろんセント・パトリックスデイの話も。いずれにしても北だからパディズデイのことは話題には出ないし。そういう不思議なバランスの中で育ったポールは、当然ながら子供の割には大人びた性格になったと自分で分析しています。

これはポールではなく、他の北アイルランドのこのころの話を友達に聞いたことがありますが(こういうのって、よほど仲良くなって向こうから話してくれない限り難しいよね)、たとえば北アイルランドでも、初めて会う人、よく知らない人については、カトリックかプロテスタントか直球話題には触れないのだそうです。そりゃそうだよね。そして、なんとなく言葉のすみっこからさぐりながら、この人はどういう主義の人かな…と探り合う。そうしてもしかするとその話題に入って行く。話題に入ったとしても、いきなりそこで喧嘩や口論になることはなく、微妙な平和が人々の間では保たれていた、と。確かに毎日の生活になってしまったら、しょっちゅう喧嘩や口論なんてしていられませんよね。だから不思議な平穏がそこにはあった、と。

というわけで、こういう平等主義の非常にリベラルな学校で育ったために、ポールはいきなりSt Columb'sの「全員男」「全員カトリック」「すべてゲーリックカルチャー」「ゲーリック・フットボール命!」みたいな環境には、絶対になじめなかったと話しています。ですがポールはSt Columb'sで、6年間、ボーダー(寄宿舎生)として過ごしたのでした。

ポールはストラバーンに住んでいる時、心情的には自分の故郷は共和国側と考えていた。お父さんが教えていた方のドニゴールに自分の気持ちはあった、と話しています。お父さんはスライゴ出身だったのですが、アイルランド語を話し、学校ではアイルランド語を教えていました。そしてドニゴールで学校の先生をしていた。

だからHomes of Donegalなんですね。このライブ、どういう状況だったのか…右端のフィドラーはキーラン・トゥーリッシュ。この曲、日本でもまたやるかな…