From Paul Brady.com
St Columb'sを卒業したお坊ちゃんたちは(笑)、通常北アイルランド1の名門校Queen's College(ベルファースト)に行くのが普通なのですが、たまたまポールが卒業した年はアートを希望した学生が多く、ポールはSt Columb'sにもう1年残るか、もしくはUCD(ダブリン)に行くかどちらか選択をせまられ、ダブリンに行くことを決意したのだそうです。まぁ、どちらに行っても超名門校であることに間違いはないですが。
いずれにしても無事試験にパスして、64年にダブリンに出てくる。これはポールにとっては、まさに自由への飛翔みたいなもので、本当に大きな第一歩だったのだそうです。ダブリンに来るのはポールはまったく初めての経験だった。なにせベルファーストですら行ったことがなかった。両親ともダブリンに知り合いがいるわけでもなく「ウチのポールが何やってるか、ちょっと見てきて」なんて言える知り合いもなかった。そのことが幸い(災い?)して、そこでポールは本当に自由を謳歌します。謳歌しすぎて音楽にのめりこみ、学校の成績はさんざんなものに…(笑)
いずれにしても、このとき、ポールがのめり込んでいたのはリズム&ブルーズやソウルミュージックのようなものだったといいます。アイルランド人といったら子供の時から伝統音楽に親しんでいた、と思う人が多いと思いますが、そんなのはホンの一部。ラジオがあれば、子供はかっこいいロックンロールに飛びつきます。ポールは、まだまだかっこいい本当の伝統音楽には出会っていない。実はポールが下宿していたフラットの下の階にはミック・モローニー(のちにジョンストンズ)が居たのだけど、当時ミックはドーナル・ラニーとエミット・フォーク・グループ(のちのスパイスランド)というグループをやっていて、ポールは練習を聞きに下へ降りていったりしていたものの、いまいちフォーキーな音楽、伝統音楽的なものは好きにはなれてなかったと言います。ちなみにポールは最初のボブ・ディランのファーストを聞いて「なんだ、こいつは。歌もろくに歌えないじゃないか」と思ったのだそう(笑)。もちろんボブ・ディランがその後、音楽に文学的なものを持ち込んだ素晴らしいアーティストだというのは認めるよ、とポールは発言しています。
Emmet Spicelandってこんな感じ。ドーナル可愛いわぁ〜。さぞかしもてたでしょうねぇ…。
ちなみに彼らの最大のヒット曲「Mary from Dungloe」はこれ。時代ですなぁ〜。いずれにしても若いポールにアプローチしなかったように、私が聞いても、なんというか、音楽的にクールなもんではないですよね、これは。
とにかくその頃のポールといったら、リズム&ブルーズにどっぷりだった。60年代のダブリン。田舎から出てきた若者は、ある日セントスティーブンスグリーンで「リズム&ブルーズ」のポスターをみつけます。ここでコンサートに行ってみて、初めてバンドってすごいと思ったらしい。それまでのポールの音楽といったら学校で習うクラシックそしてピアノ、そしてたまの休日で家に帰るとラジオを夢中で聞き、まったく自分でギターを弾いていたくらい。そしてどうやら夏休みは近所のホテルでピアノやギターをひく、おそらくアルバイトのようなものをしていたらしいのだけど。まぁ、せいぜいその程度。その時点までバンドというものは一切関わったことがなかった。
あまりのかっこよさにしびれまくったポールは、そこで出演していたバンドに「僕は北アイルランドからやってきたんだ、すごく上手いんだよ」と必死に自分を売り込む。バンドは「なんだこいつ」と思いながらも、しつこく迫るポールにBrendan Bonassというギタリストが「じゃあ土曜日にアングルジー・テニス・クラブでやるから、その時、オーデイションをしてやるよ」と声をかけてくれたらしい。ここでチャック・ベリーのギターなどを披露してみせたら、無事合格。これが The Inmates、そしてThe Kultというグループ。そしておそらく65年の4月頃、Rootzgroopというグループに加入。66年の夏にはすでにメロディメーカーあたりは、このグループを「アイルランドでもっとも伸び盛りのバンド」と評していたらしいから、すでにこの頃からポールにとって音楽はお遊びの域を超えたものになっていたのかもしれません。いずれにしてポールは、ダブリンに来て初めて「もしかしたら音楽で食べていけるかも」と思ったのだそうです。
そのあとRockhouseというバンドにも加入していたのだけど、ここでいよいよ両親に学校にいっていないことが発見され、半年くらいでバンドを辞めるはめに。いずれにしてもこのヘンでやってたのは、もう完璧にリズム&ブルーズのカバー。ストーンズやチャック・ベリー、リトル・リチャード、シャドウズとか、そのヘンのカバーだったらしい。
学業を続けるべくバンドを辞めたポールだったけど、そりゃーもちろん音楽を辞めるというわけではなく(笑)、もっとスケジュールが自由になるようにと(学業との両立を一応狙ったんでしょうかね)ソロ活動を始めたのだそう。アコースティックギターを持ってアコースティックブルーズを歌う、そんな感じで、フォーククラブを周りはじめ人のオープニングをなどをやりはじめた流れで、ジョンストンズのオープニングもやるようになったのだ、と。またこの頃、チーフタンズのショーン・ケーンの兄弟のジェイムス・ケーン(アコーディオン)に出会い、彼との出会いが伝統音楽のへの興味へのきっかけになったのだそう。このヘンは66年だと思うとポールは言っている。そして翌年67年にジョンストンズに誘われ、加入し、10-12年はずっとアイルランドの伝統音楽にどっぷりだった、とポールは話している。
St Columb'sを卒業したお坊ちゃんたちは(笑)、通常北アイルランド1の名門校Queen's College(ベルファースト)に行くのが普通なのですが、たまたまポールが卒業した年はアートを希望した学生が多く、ポールはSt Columb'sにもう1年残るか、もしくはUCD(ダブリン)に行くかどちらか選択をせまられ、ダブリンに行くことを決意したのだそうです。まぁ、どちらに行っても超名門校であることに間違いはないですが。
いずれにしても無事試験にパスして、64年にダブリンに出てくる。これはポールにとっては、まさに自由への飛翔みたいなもので、本当に大きな第一歩だったのだそうです。ダブリンに来るのはポールはまったく初めての経験だった。なにせベルファーストですら行ったことがなかった。両親ともダブリンに知り合いがいるわけでもなく「ウチのポールが何やってるか、ちょっと見てきて」なんて言える知り合いもなかった。そのことが幸い(災い?)して、そこでポールは本当に自由を謳歌します。謳歌しすぎて音楽にのめりこみ、学校の成績はさんざんなものに…(笑)
いずれにしても、このとき、ポールがのめり込んでいたのはリズム&ブルーズやソウルミュージックのようなものだったといいます。アイルランド人といったら子供の時から伝統音楽に親しんでいた、と思う人が多いと思いますが、そんなのはホンの一部。ラジオがあれば、子供はかっこいいロックンロールに飛びつきます。ポールは、まだまだかっこいい本当の伝統音楽には出会っていない。実はポールが下宿していたフラットの下の階にはミック・モローニー(のちにジョンストンズ)が居たのだけど、当時ミックはドーナル・ラニーとエミット・フォーク・グループ(のちのスパイスランド)というグループをやっていて、ポールは練習を聞きに下へ降りていったりしていたものの、いまいちフォーキーな音楽、伝統音楽的なものは好きにはなれてなかったと言います。ちなみにポールは最初のボブ・ディランのファーストを聞いて「なんだ、こいつは。歌もろくに歌えないじゃないか」と思ったのだそう(笑)。もちろんボブ・ディランがその後、音楽に文学的なものを持ち込んだ素晴らしいアーティストだというのは認めるよ、とポールは発言しています。
Emmet Spicelandってこんな感じ。ドーナル可愛いわぁ〜。さぞかしもてたでしょうねぇ…。
ちなみに彼らの最大のヒット曲「Mary from Dungloe」はこれ。時代ですなぁ〜。いずれにしても若いポールにアプローチしなかったように、私が聞いても、なんというか、音楽的にクールなもんではないですよね、これは。
とにかくその頃のポールといったら、リズム&ブルーズにどっぷりだった。60年代のダブリン。田舎から出てきた若者は、ある日セントスティーブンスグリーンで「リズム&ブルーズ」のポスターをみつけます。ここでコンサートに行ってみて、初めてバンドってすごいと思ったらしい。それまでのポールの音楽といったら学校で習うクラシックそしてピアノ、そしてたまの休日で家に帰るとラジオを夢中で聞き、まったく自分でギターを弾いていたくらい。そしてどうやら夏休みは近所のホテルでピアノやギターをひく、おそらくアルバイトのようなものをしていたらしいのだけど。まぁ、せいぜいその程度。その時点までバンドというものは一切関わったことがなかった。
あまりのかっこよさにしびれまくったポールは、そこで出演していたバンドに「僕は北アイルランドからやってきたんだ、すごく上手いんだよ」と必死に自分を売り込む。バンドは「なんだこいつ」と思いながらも、しつこく迫るポールにBrendan Bonassというギタリストが「じゃあ土曜日にアングルジー・テニス・クラブでやるから、その時、オーデイションをしてやるよ」と声をかけてくれたらしい。ここでチャック・ベリーのギターなどを披露してみせたら、無事合格。これが The Inmates、そしてThe Kultというグループ。そしておそらく65年の4月頃、Rootzgroopというグループに加入。66年の夏にはすでにメロディメーカーあたりは、このグループを「アイルランドでもっとも伸び盛りのバンド」と評していたらしいから、すでにこの頃からポールにとって音楽はお遊びの域を超えたものになっていたのかもしれません。いずれにしてポールは、ダブリンに来て初めて「もしかしたら音楽で食べていけるかも」と思ったのだそうです。
そのあとRockhouseというバンドにも加入していたのだけど、ここでいよいよ両親に学校にいっていないことが発見され、半年くらいでバンドを辞めるはめに。いずれにしてもこのヘンでやってたのは、もう完璧にリズム&ブルーズのカバー。ストーンズやチャック・ベリー、リトル・リチャード、シャドウズとか、そのヘンのカバーだったらしい。
学業を続けるべくバンドを辞めたポールだったけど、そりゃーもちろん音楽を辞めるというわけではなく(笑)、もっとスケジュールが自由になるようにと(学業との両立を一応狙ったんでしょうかね)ソロ活動を始めたのだそう。アコースティックギターを持ってアコースティックブルーズを歌う、そんな感じで、フォーククラブを周りはじめ人のオープニングをなどをやりはじめた流れで、ジョンストンズのオープニングもやるようになったのだ、と。またこの頃、チーフタンズのショーン・ケーンの兄弟のジェイムス・ケーン(アコーディオン)に出会い、彼との出会いが伝統音楽のへの興味へのきっかけになったのだそう。このヘンは66年だと思うとポールは言っている。そして翌年67年にジョンストンズに誘われ、加入し、10-12年はずっとアイルランドの伝統音楽にどっぷりだった、とポールは話している。