ポール・ブレイディ来日までの道のり19:再びアイルランドへ

ジョンストンズがニューヨークにベースを移した時は、きっと彼らにもそれなりの夢があったと思います。

ポールのRTEでのインタビューより。それは、だいたい72年ごろ。ちょうど最初のオイルショックがアメリカの経済を打ち砕き、もう最悪のタイミングでした。多くのレコード会社は、新しいアーティストに興味をしめしなんてしない頃…というか、実際多くのすでにヒット曲を持つアーティストでさえも首を切られるかという時期だったのです。本当にタイミングとしては最低だったとポールは話しています。「もうバンド内は、音楽的にも性格的にも内部分裂がひどかった。そして僕はアメリカでスタックしてしまったのさ。本当に不安だった。でもアイルランドに帰るのは気がすすまなかった。もう一度ゼロからやりなおさなきゃいけないのか、と思うと」


ジョンストンズの解散ですが、先日の投稿に73年と書きましたが、ポールのプランクシティ本でのインタビューによると72年の半ばにはもうほとんど解散状態だったようです。72年のクリスマスにポールは一度アイルランドに戻り、1月にミルトンマルベイで行われたウィリー・クランシーのお葬式に出席します。そういえば、ここでポールは奥さんとなる女性に最初に出会ったと言っていましたね。そしてまた1年くらいまたアメリカに渡ることになるわけですが。


「お金もまったくなくなってしまった。その頃、僕はアップタウンに住んでいたのだけど、ウォールストリートへバスキングにいったんだ。ティンホイッスルを持ってね。でもまるでお金は集まらず、帰りの汽車賃もなくて、トボトボと歩いて帰った(ウォールストリートからアップタウンまで、だいたい3時間くらいですかね)」「当時のガールフレンド、今の妻になった人なんだけど、アイルランドにいる彼女に書く手紙が3ページまでだったら21セント、4ページだと42セントになっちゃうっていうのをはっきり覚えてる。つまりそのくらいお金が大変だったということだ」

そしてそこにリアム・オフリンからの手紙が来たわけです。「リアムから手紙が来て、クリスティ(ムーア)がバンドを辞めるから代わりのシンガーとして、プランクシティに入らないか、と誘われた時は、とても嬉しかった」

ポールは当時プラクシティは、アンディ・アーヴァインがやっていたスイニーズ・メンの発展系だと考えていたのだそうです。「自分にとってはスイニーズが発展し、そこにパイプが加わってクリスティが歌っているのがプランクシティというイメージだった。だからそのコンビネーションがどんなに新しく素晴らしいものかも、彼等の演奏を観る前から分かっていたよ」

ジョンストンズとスイニーズ・メンはよくツアー先で一緒になったり、ダブリンの有名なパブ 、オドノヒューズで合流したりして、お互いとても仲が良かったそうです。実はポールはジョニーが具合が悪かったある日、スイニーズで代打を勤めたこともあるのだそうです。そのときはアンディーとテリー・ウッズ(ポーグス)とのトリオで、ポールはスイニーズのあのストライプのシャツとベストをちゃんと着てステージにあがったそうですよ。どっかに写真残ってないのかなー(笑)。実際ポールがジョンストンズにいるときも、アンディはポールをスイニーズに誘ったこともあったのだそうです。

いずれにしても、プランクシティに参加することに決めたポールは74年にアメリカから戻り、ストラバーンの実家へと帰宅したのでした。まずはストラバーンに近いドニゴールで行われたプランクシティのコンサートに招待され、ポールは出かけていきます。そして終演後、彼らは一緒に打ち上げのためにパブへ行き、ポールはそこで初めてメンバーの前で「Arthur McBride」を歌ったそうです。

アンディが答えます。「もう僕らはぶっとんだね。残念ながら彼は当時それほどレパートリーが多いわけではなかった。でも間違いなくポールはこのときのバンドに大きな力を与えてくれた。ほんとうにダイナミックなエネルギーと力の演奏者だ。まるで火山みたいださ。ステージで爆発するのさ」

再びポール「実はArthur McBrideはアンディのレパートリーでもあったんだ。彼のヴァージョンも素晴らしかった。だからこの曲を演奏するのはちょっとずうずうしいかな、と思ったのだけど、でもアンディは許してくれそうだったから、演奏した」
「ダブリンのカールトン・シネマが僕らの最初の公演だった。それはかなり大きめの公演だったが、それが観客の前でArthur McBrideを歌った最初の公演さ。そして僕らはケンブリッジ・フォーク・フェスティバルにも参加した。クリスティはなんだかんだで、その年の10月までバンドにいたが、ついに脱退した。でもあの5人でバンドをやっていた時期は、楽しかったなぁ」

これが74年のArthur McBride。「Oh me and my cousin,  one Arthur McBride as we went a-walking down by the sea-side.  僕と僕のいとこのアーサー・マクブライドは海辺を散歩していた」I had a first cousin called Arthur McBrideと歌いだすヴァージョンもあるそうですが、曲のナレーターもいとこも両方アーサー・マクブライドという名前の設定なのだという解釈が広く認知されているようです。ま、伝統歌だから、どのようにでも解釈できるよね。のちにポールがボブ・ディランもポールにギターを教わり録音した名曲であります。その、ディランにギターを教えたエピソードなどは、またのちほど。これはポール27歳のときの演奏。