というわけで、『The Missing Liberty Tapes』である。このヘンになると私もポールの活動の隅っこに具体的にいさせてもらえるようになった。夢がかなったと言っていいのかも。ポールとの最初のビジネスミーティングは緊張した。今でもすごくよく覚えている。緊張の初ミーティングについては、ここに既に書いた。
とにかくファンとしてではなく、初めてポールと会うのだから超緊張した。こういう仕事をしていると大抵のビックスターに会っても緊張などしないもんだが、そのスターと具体的な仕事をするチャンスが目の前、となるとやはりまったく違う。
ダブリンのミーティングの後、東京に戻ってメールを何度かやりとりしたが、交渉は結構難航した。こういってはなんだが、ポールは初めて自分たちだけでこのアルバムを作ったから輸出とか流通とかの事をよく理解していなかったと思うし、実際ポールは自分でも「I'm still learning」と言っていた。当時はメジャーからインディーズにミュージシャンが流れて行く過渡期でもあった。おそらくポールとポールのマネージャーは経理関係がややこしくなることを恐れて、このアルバムをアイルランドのUniversalから買ってほしいと言った。レーベル(=ポール)直接ではなくディストリビューター(=流通)から買うと、働かない奴に利益を与えねばならず法外な値段になるので、私も「うーん」と思ったが、最終的にポール相手にごちゃごちゃ言いたくないという理由で、間に入るだけで何もしないUniversalにかなり儲けさせてしまう結果にはなるものの、割高でこのアルバムを輸入した。おかげで売っても売っても赤字なのであるが、まぁ、それはいい。とにかくポールの最初のインディーリリース(レーベル名はPee Bee)が手伝えて、私としても、とっても名誉であった。
とにかくこのCDはそんなわけでアルタン祭りに先駆けて日本でリリースになった。ポール執筆のライナーノーツは茂木健さんが訳してくれて、松山晋也さんがライナーを書いてくれた。
『The Missing Liberty Tapes』は78年の『Welcome Here Kind Stranger』当時のライブ盤だ。いわゆるレコ発公演。1978年7月21日(金)。場所はリバティホール。ポールはこの時のライブをなんとなく家庭用のオープンリールに録音し、そのまま家に持ち帰っていた。でもそのテープを数ヶ月後に探した時は見つからなかったという。で、家も引っ越したし、ずっとこのテープのことは忘れていたのだという。ところが2000年に屋根裏を引っ掻き回してみると、古いLPの下の箱からこのテープが出てきた。ほんの気まぐれでこのテープをCDに焼いてみようと試みたところ状態も非常にいい。演奏自体にはリハ不足もあり、100%満足いくものでもなかったようだが、それでも素晴らしい音がそこに隠されていた!
リミックスや差し替え、オヴァーダブなどまったくナシの生の、あの日のコンサート!!
この年,2001年のポールの活動で書いておきたいのは、Vicar Streetというダブリンの小屋での連続1ケ月にも渡るライブだ。『PAUL BRADY SONG BOOK』Vicar Streetは、今でこそ改装が入って1300人くらいになったが、当時は700〜800くらいの小屋だ。とはいえ… あそこはダブリンの人口から比例したら東京の武道館クラスの小屋に匹敵する。そこで1ケ月!! 毎日ゲストを変えて、アコースティックだったり、バンドセットだったり、またLiberty Bellsというトラッド巨匠チームのグループだったり、いろんなセットだったが、これだけ動員できるのもポールならではだろう。ゲストにはヴァン・モリソン、ボニー・レイット、ドーナル・ラニー、マーク・ノップラー、シネイド・オコナー、メアリー・ブラックなどが駆けつけた。HOT PRESSはカラーで14ページの特集を組んだ。このときのコンサートの様子は、ポールのホームページのここでも詳細なセットリストとともに紹介されている。最後の日の打ち上げのセッション部長がシャロン・シャノンなのがいいな、と思った(笑)
どちらにしてもこの成功によって、ポールはインディペンデントなアーティストでやってくという自信が持てたと話していた。「もう人々にわざわざ“俺はすごいだぜ”って印象づけなくってもいいんだ、という気持ちになった」と。
私もこういうコンサート、東京でやりたいな。Paul Brady Song Bookみたいな。ゲストを呼ぶのは大変だろうけど、いつかグレン・ティルブルックやラウーでやった5夜連みたいなコンサート。小さい会場でいいからさ…っていうか、聞きたい曲が多すぎるんだよねー。2晩、多少セットを変えてもらってやったとしても、まだまだ足りないわ…
とにかくファンとしてではなく、初めてポールと会うのだから超緊張した。こういう仕事をしていると大抵のビックスターに会っても緊張などしないもんだが、そのスターと具体的な仕事をするチャンスが目の前、となるとやはりまったく違う。
ダブリンのミーティングの後、東京に戻ってメールを何度かやりとりしたが、交渉は結構難航した。こういってはなんだが、ポールは初めて自分たちだけでこのアルバムを作ったから輸出とか流通とかの事をよく理解していなかったと思うし、実際ポールは自分でも「I'm still learning」と言っていた。当時はメジャーからインディーズにミュージシャンが流れて行く過渡期でもあった。おそらくポールとポールのマネージャーは経理関係がややこしくなることを恐れて、このアルバムをアイルランドのUniversalから買ってほしいと言った。レーベル(=ポール)直接ではなくディストリビューター(=流通)から買うと、働かない奴に利益を与えねばならず法外な値段になるので、私も「うーん」と思ったが、最終的にポール相手にごちゃごちゃ言いたくないという理由で、間に入るだけで何もしないUniversalにかなり儲けさせてしまう結果にはなるものの、割高でこのアルバムを輸入した。おかげで売っても売っても赤字なのであるが、まぁ、それはいい。とにかくポールの最初のインディーリリース(レーベル名はPee Bee)が手伝えて、私としても、とっても名誉であった。
とにかくこのCDはそんなわけでアルタン祭りに先駆けて日本でリリースになった。ポール執筆のライナーノーツは茂木健さんが訳してくれて、松山晋也さんがライナーを書いてくれた。
『The Missing Liberty Tapes』は78年の『Welcome Here Kind Stranger』当時のライブ盤だ。いわゆるレコ発公演。1978年7月21日(金)。場所はリバティホール。ポールはこの時のライブをなんとなく家庭用のオープンリールに録音し、そのまま家に持ち帰っていた。でもそのテープを数ヶ月後に探した時は見つからなかったという。で、家も引っ越したし、ずっとこのテープのことは忘れていたのだという。ところが2000年に屋根裏を引っ掻き回してみると、古いLPの下の箱からこのテープが出てきた。ほんの気まぐれでこのテープをCDに焼いてみようと試みたところ状態も非常にいい。演奏自体にはリハ不足もあり、100%満足いくものでもなかったようだが、それでも素晴らしい音がそこに隠されていた!
リミックスや差し替え、オヴァーダブなどまったくナシの生の、あの日のコンサート!!
この年,2001年のポールの活動で書いておきたいのは、Vicar Streetというダブリンの小屋での連続1ケ月にも渡るライブだ。『PAUL BRADY SONG BOOK』Vicar Streetは、今でこそ改装が入って1300人くらいになったが、当時は700〜800くらいの小屋だ。とはいえ… あそこはダブリンの人口から比例したら東京の武道館クラスの小屋に匹敵する。そこで1ケ月!! 毎日ゲストを変えて、アコースティックだったり、バンドセットだったり、またLiberty Bellsというトラッド巨匠チームのグループだったり、いろんなセットだったが、これだけ動員できるのもポールならではだろう。ゲストにはヴァン・モリソン、ボニー・レイット、ドーナル・ラニー、マーク・ノップラー、シネイド・オコナー、メアリー・ブラックなどが駆けつけた。HOT PRESSはカラーで14ページの特集を組んだ。このときのコンサートの様子は、ポールのホームページのここでも詳細なセットリストとともに紹介されている。最後の日の打ち上げのセッション部長がシャロン・シャノンなのがいいな、と思った(笑)
どちらにしてもこの成功によって、ポールはインディペンデントなアーティストでやってくという自信が持てたと話していた。「もう人々にわざわざ“俺はすごいだぜ”って印象づけなくってもいいんだ、という気持ちになった」と。
私もこういうコンサート、東京でやりたいな。Paul Brady Song Bookみたいな。ゲストを呼ぶのは大変だろうけど、いつかグレン・ティルブルックやラウーでやった5夜連みたいなコンサート。小さい会場でいいからさ…っていうか、聞きたい曲が多すぎるんだよねー。2晩、多少セットを変えてもらってやったとしても、まだまだ足りないわ…