やっとメアリー・ブラックのベスト盤の文字チェックが終わった… 訂正してはレコード会社のデザイナーに戻し、現地に確認取ったりの繰り返し。これであとは4月23日のリリースを待つのみ。すでにマスタリグは先週終わっている。
メアリー、ホントにありがとう。自分がここまで徹底的に関わったアーティストはいない。メアリーあっての私(笑)。私あってのメアリー? まぁ、メアリーは私がいなくても日本に紹介され、きっと来日していただろうけどね。でも、いまだに都内のFM局まわると「メアリーは元気?」と聞かれることがある。自分と関わるアーティストは多くても、やっぱりメアリーほど関わったアーティストはいない。時間の長さも、思い入れも…
ってなわけで、今日から少しずつメアリー・ブラックと野崎のストーリーをここに書いていこうと思います。なにせもう25年くらい前の話だから、記憶に間違いがあるかも。当時もインターネットとブログがあれば良かったんだけどなー(笑)
1990年。私はやっと入った音楽業界に辟易していた。長い会議とか、長い会議とか、長い会議とか…。仕事をすればするほど損をしているような気持ちになるのも、ホント最低だった。
入社試験はそれでもかなりの難関で、やっと入ったレコード会社ではあった。当時は男と女の求人誌は分かれていたから(笑)、洋楽宣伝のポジションに応募してきた女はたった一人だったらしい。当時から頭は悪かったけど、営業と面接だけは得意だったので50倍の難関を突破して入社したのだが、1年もたてば、このバカらしい世界がホントにバカらしくなってきた。もう会社は充分。早くこんなところは辞めようと思っていた。そもそも好きじゃない音楽をプロモーションすることは地獄の苦しみだった。長〜い、なが〜い、長い、それこそ永遠に続くかと思われた会議で、制作は宣伝がちゃんとやらないから売れないと文句を言い、営業は宣伝がちゃんとやらないから売れないと文句を言っていた。みんなが自分の責任を取らないで、会議が終われば、会議で話した事を実行する奴は誰もいなかった。
でもそんな時、発売が決まったのがメアリー・ブラックの「ノー・フロンティアーズ」だった。すっごい良いアルバムだと思った。そのきっかけとなったのは前年だかその前だか同時期だかにヒットしていたエンヤの「Water Mark」だった。そして六本木WAVEとかがブイブイ言ってて、景気のいい時代だったこともあって、私の勤めていたレコード会社の洋楽部では「ヨーロピアン・トラッド・コレクション」というシリーズを企画したのだった。それは12枚ほどのヨーロッパの伝統音楽の名盤を一気に発売する、というもので、D通の連中にマーケティングをやらせ、12枚の個性ある名盤のジャケットをすべてナシにし、よくわからないイラストレーターが統一ジャケを描くという、今の私だったら噴飯ものの企画だった。その時、このレコード会社のブレインとなっていたのが、今でもすごくお世話になっている、おおしまゆたか先生と、茂木健先生と、白石和良先生だった。お三方があれこれ候補のアルバムを持ち寄り、担当の制作陣がリリースを決めていたのだが、メアリーのアルバムはこの中に埋もれさせてしまうには内容が良すぎた。なので、これは単独で売って行こう、とレコード会社では決めたのだった。
私はこの素敵な音源の出現にワクワクしたのだけど、もう会社辞めたいという気持ちはとても強かった。当時、憧れの某アーティストのレコード会社がウチに来ないかと人を通じて誘ってくれたりもしたから、余計このレコード会社をすぐにでも辞めようと思っていた。そのころの自分はさして仕事ができたとは思えない。でも業界で1年もやっててラジオ局に毎日のように出入りしてて若くて元気がよけりゃ引きもあるんだよね。当時はそういう時代だった。
けっこう悩んだけど、その時、某日本人歌手のマネージャーやってたN川さんと飲む機会があり、N川さんが言ってくれた言葉のおかげで私は留まる決意をした。「あなたのことが本当にほしければ相手は幾らでもまってくれるよ。あなたもちょっとポジションがあいたからあの子でいいや程度で行くんじゃイヤでしょう?」
N川さんのアドバイスのおかげ。ホントに今,会ってN川さんにお礼をいいたいくらい。N川さんのおかげで私はこの素晴らしいアーティストのプロモーションを頑張ろう、そして彼女をいつか日本に呼ぼうと決意したのだ。当時の私と来たら、まだアイルランドには一度も行ったことがなかった。でも私はかなりの英国おタクで、契約社員なのをいいことに、1年のうち2週間くらい長い休みを取っては嵐が丘とかリバプールとかを一人で旅行していた。
…ってな感じで今日からストーリー始めます。来日まで不定期連載。数日置きにアップしていくつもりです。メアリーのことなら、ホントいっくらでも書けるよ!(笑) 20回くらいになるかもしれない…という事は予告しておこう。長くてうっとおしいですよ。
メアリー・ブラック来日公演,詳細はこちら。
メアリー、ホントにありがとう。自分がここまで徹底的に関わったアーティストはいない。メアリーあっての私(笑)。私あってのメアリー? まぁ、メアリーは私がいなくても日本に紹介され、きっと来日していただろうけどね。でも、いまだに都内のFM局まわると「メアリーは元気?」と聞かれることがある。自分と関わるアーティストは多くても、やっぱりメアリーほど関わったアーティストはいない。時間の長さも、思い入れも…
ってなわけで、今日から少しずつメアリー・ブラックと野崎のストーリーをここに書いていこうと思います。なにせもう25年くらい前の話だから、記憶に間違いがあるかも。当時もインターネットとブログがあれば良かったんだけどなー(笑)
1990年。私はやっと入った音楽業界に辟易していた。長い会議とか、長い会議とか、長い会議とか…。仕事をすればするほど損をしているような気持ちになるのも、ホント最低だった。
入社試験はそれでもかなりの難関で、やっと入ったレコード会社ではあった。当時は男と女の求人誌は分かれていたから(笑)、洋楽宣伝のポジションに応募してきた女はたった一人だったらしい。当時から頭は悪かったけど、営業と面接だけは得意だったので50倍の難関を突破して入社したのだが、1年もたてば、このバカらしい世界がホントにバカらしくなってきた。もう会社は充分。早くこんなところは辞めようと思っていた。そもそも好きじゃない音楽をプロモーションすることは地獄の苦しみだった。長〜い、なが〜い、長い、それこそ永遠に続くかと思われた会議で、制作は宣伝がちゃんとやらないから売れないと文句を言い、営業は宣伝がちゃんとやらないから売れないと文句を言っていた。みんなが自分の責任を取らないで、会議が終われば、会議で話した事を実行する奴は誰もいなかった。
でもそんな時、発売が決まったのがメアリー・ブラックの「ノー・フロンティアーズ」だった。すっごい良いアルバムだと思った。そのきっかけとなったのは前年だかその前だか同時期だかにヒットしていたエンヤの「Water Mark」だった。そして六本木WAVEとかがブイブイ言ってて、景気のいい時代だったこともあって、私の勤めていたレコード会社の洋楽部では「ヨーロピアン・トラッド・コレクション」というシリーズを企画したのだった。それは12枚ほどのヨーロッパの伝統音楽の名盤を一気に発売する、というもので、D通の連中にマーケティングをやらせ、12枚の個性ある名盤のジャケットをすべてナシにし、よくわからないイラストレーターが統一ジャケを描くという、今の私だったら噴飯ものの企画だった。その時、このレコード会社のブレインとなっていたのが、今でもすごくお世話になっている、おおしまゆたか先生と、茂木健先生と、白石和良先生だった。お三方があれこれ候補のアルバムを持ち寄り、担当の制作陣がリリースを決めていたのだが、メアリーのアルバムはこの中に埋もれさせてしまうには内容が良すぎた。なので、これは単独で売って行こう、とレコード会社では決めたのだった。
私はこの素敵な音源の出現にワクワクしたのだけど、もう会社辞めたいという気持ちはとても強かった。当時、憧れの某アーティストのレコード会社がウチに来ないかと人を通じて誘ってくれたりもしたから、余計このレコード会社をすぐにでも辞めようと思っていた。そのころの自分はさして仕事ができたとは思えない。でも業界で1年もやっててラジオ局に毎日のように出入りしてて若くて元気がよけりゃ引きもあるんだよね。当時はそういう時代だった。
けっこう悩んだけど、その時、某日本人歌手のマネージャーやってたN川さんと飲む機会があり、N川さんが言ってくれた言葉のおかげで私は留まる決意をした。「あなたのことが本当にほしければ相手は幾らでもまってくれるよ。あなたもちょっとポジションがあいたからあの子でいいや程度で行くんじゃイヤでしょう?」
N川さんのアドバイスのおかげ。ホントに今,会ってN川さんにお礼をいいたいくらい。N川さんのおかげで私はこの素晴らしいアーティストのプロモーションを頑張ろう、そして彼女をいつか日本に呼ぼうと決意したのだ。当時の私と来たら、まだアイルランドには一度も行ったことがなかった。でも私はかなりの英国おタクで、契約社員なのをいいことに、1年のうち2週間くらい長い休みを取っては嵐が丘とかリバプールとかを一人で旅行していた。
…ってな感じで今日からストーリー始めます。来日まで不定期連載。数日置きにアップしていくつもりです。メアリーのことなら、ホントいっくらでも書けるよ!(笑) 20回くらいになるかもしれない…という事は予告しておこう。長くてうっとおしいですよ。
メアリー・ブラック来日公演,詳細はこちら。